第4話「バズりの自覚なし」
薄暗い六畳一間のアパートに、朝の光が容赦なく差し込んでいた。
安物の遮光カーテンの隙間から漏れる陽光には、無数の塵が躍っている。
サトウは、まぶたの裏側に感じる熱を合図に、静かに目を開けた。
普通の人なら二度寝を決め込むような微睡みの淵にあっても、彼の意識は驚くほど明瞭だった。
彼は布団を跳ね除けると、まず最初に行う儀式がある。
枕元に置いたスマートフォンを確認することではない。
部屋の四隅に埃が溜まっていないか、自身の視力で厳格に点検することだ。
畳の目に沿って、一本の乱れもないかを確認し、満足そうに鼻から息を抜く。
それからようやく、彼は枕元で激しく振動し続けている端末へと手を伸ばした。
『なんだ、壊れたのか?』
画面には、見たこともない数の通知が並んでいた。
未読メール、999プラス。
各種SNSの通知音は、もはや一つの連続した不協和音となって部屋に響いている。
サトウは困惑しながら、一番上にあったメールを開いた。
送信元は、国内最大手の探索者ギルド「天翼」のスカウト部門だった。
『……サトウ様。昨夜の配信を拝見し、弊ギルドの特別顧問としてお招きしたく……。契約金は、三千万円から応相談……』
サトウは、そこまで読んで静かに画面を閉じた。
そして、何の迷いもなく「迷惑メール」のフォルダへと移動させる。
最近のフィッシング詐欺は、随分と手の込んだ物語を用意するものだと感心すらしていた。
彼にとって、自分のようなFランクの掃除屋に、大金が舞い込むはずがないという確信があった。
それは謙虚さではなく、彼が自分自身の価値を、ただの「清掃の専門家」としてしか定義していないがゆえの誤解だった。
「3千万なんて、一生分の洗剤を買ってもお釣りが来るな。騙される人がいないといいけど」
独り言をいいながら、サトウは質素なキッチンに立った。
小さなガスコンロに火をかけ、やかんでお湯を沸かす。
その待ち時間に、彼は昨日拾った「球体」を棚から取り出した。
不思議なことに、その球体は電源に繋いでもいないのに、内側から淡い琥珀色の光を放っている。
表面には、昨夜の配信の結果らしき数字が浮かんでいた。
同時接続数、最大58000人。
総再生回数、200万回。
投げ銭による収益、計算中。
「……よく分からない機能だな。明かりとしては優秀だけど」
サトウは、その数字が何を意味するのかを深く考えなかった。
彼にとっては、昨日拭き上げたダンジョンの床が、今日もそのままの輝きを保っているかの方が重要だった。
トーストを一枚焼き、インスタントコーヒーをすする。
その間も、彼のスマートフォンは熱を帯び、絶え間なく震えていた。
世界が彼を探し出し、正体を暴こうと狂奔している。
だが、その嵐の中心にいる青年は、今日の掃除の予定を立てることに没頭していた。
一方、探索者管理公社の監視室では、氷室ひなこが徹夜明けの充血した目で、膨大なデータを解析していた。
彼女の前のモニターには、サトウの「掃除」の全行程が、千分の一秒単位でスロー再生されている。
「信じられない……。この足運び、やはり筋肉の反射速度を超えている。それに、このモップの素材は何? ただの市販品のはずなのに、彼の魔力が通った瞬間に、超高密度の振動破砕機へと変質しているわ」
ひなこの周囲には、公社の幹部たちも集まっていた。
普段は高圧的な彼らも、今は黙り込んで映像を見つめるしかない。
彼らが知る「探索」の常識が、一人の掃除屋によって、粉々に打ち砕かれようとしていた。
「氷室君、この男の身元はまだ判明しないのか」
上司の問いに、ひなこは首を振った。
「登録されているFランク探索者は数万人います。その中から、清掃員として働いている人物を特定するのは時間がかかります。それに……彼は、わざと正体を隠している可能性が高い。これほどの力があれば、普通はSランクに君臨して、富と名声を手に入れているはずです」
ひなこの推測は、半分正しく、半分間違っていた。
サトウは隠れているわけではない。
ただ、自分が「特別」だということに、微塵も気づいていないだけだった。
サトウは、丁寧に洗った食器を水切り籠に並べると、リュックサックを背負った。
中には、彼が独自に調合した酸性洗剤と、アルカリ性洗剤。
そして、昨夜の球体。
彼は玄関の鏡で身なりを整え、一点の曇りもない決意を込めてつぶやいた。
「地下3層。あそこは、さらに頑固な汚れがありそうだな」
彼が部屋を出た瞬間、廊下を吹き抜ける風が、扉をカタンと閉じた。
それは、古い日常との決別の音でもあった。




