第3話「ただ、邪魔だったから払っただけ」
轟音はしなかった。
ただ、乾いた風の切れる音だけが、静かな通路に響き渡った。
サトウの振ったモップの先端が、突進してきた巨大百足の頭部を、撫でるように掠めた。
それだけのことだった。
しかし、次の瞬間、全長5メートルを超える巨体は、まるで見えない巨人に叩きつけられたかのように、横方向へと弾き飛ばされた。
百足は壁に激突し、その硬質な外殻がバラバラに砕け散る。
青白い体液が飛び散りそうになったが、サトウはそれを見越していたかのように、空いた左手でバケツの蓋を盾にした。
「危ない危ない。返り血は、落とすのが大変なんだからな」
彼は、息一つ乱さずにそう言った。
壁にめり込んだ百足は、痙攣することさえ許されず、そのまま粒子となって消滅した。
残されたのは、魔石一つと、微かな塵だけだった。
サトウは手際よく箒を取り出すと、その塵をチリトリで回収し、ゴミ袋へと放り込んだ。
『……え?』
『今、何が起きた?』
『あの百足、一撃? それも、モップで?』
『嘘だろ。スキルも魔法も使ってなかったぞ。ただの素振りだぞ』
『スローで再生してくれ! 速すぎて見えなかった!』
コメント欄の加速は、もはや人力では追えないほどの速さになっていた。
同時接続数は、瞬く間に3万を超えた。
探索者管理公社のひなこは、震える手で何度も映像を巻き戻していた。
彼女の目には、サトウが何をしたのかがはっきりと見えていた。
サトウがモップを振るった瞬間、彼の体幹は一ミリもブレていなかった。
足元から吸い上げた力を、腰、肩、そして腕へと淀みなく伝え、その全てのエネルギーをモップの先端一点に集中させていたのだ。
それは、何十年という歳月を武術に捧げた達人ですら、一生かかって到達出来るかどうかの神技だった。
それを、彼は「掃除の邪魔だ」という、ただそれだけの理由で行った。
「さて、これでまた静かになったな。次は、あの天井の蜘蛛の巣を払うか」
サトウは、画面の向こうにいる数万人の視線など露知らず、伸縮式のモップを長く伸ばした。
彼の意識は、すでに次の汚れへと向かっている。
彼にとって、先ほどの巨大百足は「強敵」ですらなく、ただの「動く粗大ゴミ」に過ぎなかったのだ。
その頃、ネット上では、この「清掃配信」の切り抜き動画が爆発的な勢いで拡散され始めていた。
『史上最強の清掃員現る』
『モップ一本でボスキラー』
『Fランクの仮面を被った神』
衝撃的な見出しとともに、サトウの姿は世界中に知れ渡っていく。
大手ギルド「天翼」の本部では、深夜にもかかわらず幹部たちが招集されていた。
大型スクリーンに映し出されているのは、サトウが塵をチリトリで掃いているシュールな光景だ。
「この男を特定しろ。どんな条件を出してでも、我がギルドに引き入れるんだ」
白髪のギルドマスターが、絞り出すような声で命じた。
彼の目には、サトウが持つ潜在的な戦闘力が、既存のランク制度を根底から覆すものであることが分かっていた。
だが、当の本人は、ようやく綺麗になった天井を見上げて、満足そうに頷いていた。
「よし、綺麗になった。やっぱり、清潔な空間は気持ちがいいな」
サトウは、拾った球体に向かって、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
その笑顔が、さらに数万人の視聴者の心を撃ち抜いた。
彼はそのまま、カメラの電源を切る方法を探して、適当な模様を再び押した。
配信終了。
最後の一瞬に映ったのは、彼が脱ぎ捨てた、ボロボロの、しかし一点の汚れもない作業着だった。
「明日は、地下3層まで行ってみるか。あそこは確か、もっと散らかっていたはずだ」
サトウの独り言は、誰に聞かれることもなく、静寂を取り戻した迷宮の中に消えていった。
しかし、彼が眠りにつく頃、世界は彼を巡る争奪戦で、かつてないほどの喧騒に包まれることになる。
無自覚な掃除屋の、規格外の成り上がりが、今まさに始まった瞬間だった。




