第11話「深淵の主への教育的指導」
黒い霧が、サトウの周囲を完全に取り囲んだ。
温度が急激に下がり、吐く息が白く凍りつく。
ヴォイド・シェイドは、数万人の怨念が渦巻くような不快な音を立てながら、鎌のような鋭い腕を振り上げた。
その一撃は、物質ではなく精神を断ち切るものだ。
たとえどれほど強力な防具を着ていようとも、防ぐことは出来ないはずだった。
しかし、サトウの動きは、それよりも遥かに迅速だった。
「言ったはずだ。汚い液体を撒き散らすなと。君には、掃除の基本がなっていない」
サトウは、手に持っていたスプレーボトルを引き金に指をかけた。
中に入っているのは、彼が「油分解の極致」と呼ぶ、超高濃度のアルカリ性洗浄液だ。
シュッ、という軽快な音が響くと同時に、噴射された霧が黒い霧に衝突した。
その瞬間、ヴォイド・シェイドが悲鳴のような音を発した。
物理攻撃が効かないはずの影が、サトウの洗浄液に触れた場所から、見る間に白く中和されていく。
魔力的な結合を、化学的な……あるいはもっと根源的な「清潔への意志」によって、無理やり分解されているのだ。
サトウは、怯んだ隙を見逃さなかった。
彼はモップを突き出し、その先端を影の中心部へと叩き込んだ。
「教育的指導だ。まずは、そのドロドロの見た目をどうにかしなさい!」
サトウが込めた魔力は、モップを通じて超高速の微細な振動へと変換された。
それは、超音波洗浄機の原理を極限まで高めた、分子レベルの研磨だった。
影は激しく震え、その黒い色が少しずつ薄れていく。
まるで、墨汁を大量の水で薄めていくかのように、ヴォイド・シェイドの存在そのものが希釈されていく。
配信を見守る視聴者たちは、もはや何が起きているのかを理解するのをやめていた。
『影の化身を、雑巾がけの要領で消滅させてる……』
『教育的指導ってなんだよ。相手は伝説の魔物だぞ』
『サトウさんの前では、全ての魔物はただの「頑固な汚れ」なんだな』
コメント欄には、もはや戦慄を通り越した、宗教的な崇拝に近い言葉が並んでいた。
同時接続数は、ついに一千万の大台を突破した。
世界中の政府機関が、サトウの戦闘データをリアルタイムで収集していたが、その計算結果は常に「測定不能」の一点張りだった。
サトウは、必死に逃げようとする影を追い詰め、最後の一仕上げに入った。
彼はバケツに残った最後の洗浄液を、豪快に空中にぶちまけた。
「これで、おしまいだ!」
洗浄液の滴が、光を反射してダイヤモンドのように輝きながら、影へと降り注ぐ。
それは、この暗黒の階層に初めてもたらされた、純粋な「光」そのものだった。
影は、その光に灼かれるようにして消滅し、後には一点の汚れもない、真っ白な空間だけが残された。
深淵の主であったはずの存在は、魔石一つ残すことなく、文字通り「綺麗に」消え去った。
「ふう。やっぱり、強力な洗剤は頼りになるな」
サトウは満足そうに腰に手を当て、周囲を見渡した。
そこには、かつて神々が愛したであろう、神聖で清潔な回廊が完全に復活していた。
彼は、任務を終えた一兵卒のような清々しい顔で、カメラに向かってVサインを作った。
「皆さん、掃除はこまめにするのが一番ですよ。放置しておくと、あんな風に厄介な魔物になってしまいますからね」
その言葉は、世界中の探索者たちの胸に、深々と突き刺さった。
彼らが今まで「強さ」と呼んでいたものが、サトウの前では単なる「不摂生」に過ぎなかったのだ。
その瞬間、サトウの脳内で再び、無機質な音声が響いた。
『世界ランキング、変動を確認。第1位、SATO。人類初の「深淵踏破者」として認定します』
世界最高の称号だ。
人類の歴史を塗り替える、偉大な記録だ。
しかし、サトウはそれを聞いて、少しだけ困ったような顔をした。
「1位……? ああ、もしかして、今日の清掃面積が世界一だったってことかな。それは光栄だけど、明日はもっと広い場所を掃除しないといけないな」
彼は、自分が世界最強の探索者になったことを、独自の「清掃理論」にすり替えて解釈していた。
そして、空になったバケツを手に取ると、出口に向かって歩き始めた。
彼の後ろ姿は、もはや一介の掃除屋ではなく、世界を浄化する神の使者のように、眩い光に包まれていた。




