第10話「人類未踏の地の汚れ」
重厚な石の扉が、数千年の沈黙を破ってゆっくりと左右に分かれた。
その隙間から溢れ出してきたのは、神聖な魔力でも、古代の英知でもなかった。
サトウの鼻を真っ先に突いたのは、長い年月をかけて蓄積された、肺の奥まで白く染め上げそうなほどの濃密な「埃」の臭いだった。
彼は思わず、持っていたバケツを床に置き、片手で口元を強く押さえた。
視界の先には、どこまでも続く長い回廊が広がっている。
かつて神々が歩んだとされるその場所は、今や厚さ数センチメートルにも及ぶ灰色の塵に覆われ、見るも無残な姿を晒していた。
『……これは、ひどい。ひどすぎる』
サトウの心の中で、これまでにないほどの怒りがふつふつと湧き上がってきた。
世間の人々が「人類未踏の聖域」と呼び、畏怖の念を抱いていた場所が、これほどまでに放置されていたという事実。
それは、彼にとって人類の怠慢の象徴であり、許しがたい冒涜に他ならなかった。
彼は震える手で、背負っていた特注の伸縮式モップを握りしめた。
一方、画面の向こう側にいる数百万人の視聴者たちは、全く別の意味で息を呑んでいた。
カメラが映し出すのは、古代の魔法文明が残したとされる、幾何学的な紋様が刻まれた白銀の回廊だ。
浮遊する発光体が淡い燐光を放ち、幻想的な雰囲気を醸し出している。
本来なら、一歩足を踏み入れるだけで強大な呪いに蝕まれるはずのその場所。
しかし、サトウはそんなことにはお構いなしに、ただ「汚れ」に対して殺意を向けていた。
「記録珠君、少し離れていてくれ。これから、かなり派手に塵が舞うからな」
サトウは短くそう告げると、足元のバケツに新しい洗剤を投入した。
それは彼が昨夜、コンビニで買った安物の粉末洗剤に、道中で拾った「魔力の残滓」を独自の配合で混ぜ合わせた特製品だった。
彼が軽くかき混ぜると、バケツの中の液体は透き通るような純白に輝き、周囲の不浄な空気を浄化するように柔らかな泡を立て始めた。
サトウはモップをバケツに浸し、たっぷりと水分を含ませた。
そして、流れるような動作で回廊へと踏み出す。
その瞬間、彼の足裏が床に触れた衝撃で、周囲の埃が爆発したように舞い上がった。
普通なら、視界が遮られ、呼吸困難に陥るような状況だ。
しかし、サトウは慌てない。
彼はモップを頭上で高速回転させ、巨大な旋風を巻き起こした。
鋭い風切り音が響く。
彼の生み出した風は、単なる物理的な突風ではなかった。
モップに染み込んだ洗浄成分が、風に乗って回廊の隅々まで行き渡り、浮遊する埃を一つ残らず吸着していく。
それはまるで、透明な巨大な掃除機が通路を駆け抜けていくかのようだった。
視聴者たちは、その圧倒的な光景に言葉を失った。
「深淵」と呼ばれ、過去に挑んだ最高位の探索者たちが命を落としたその場所で、一人の青年が鼻歌交じりに大掃除をしている。
彼がモップをひと振りするたびに、数千年の垢が剥がれ落ち、壁に刻まれた古代文字が本来の色彩を取り戻していく。
赤、青、金。
色とりどりの輝きが回廊を埋め尽くし、世界は数千年ぶりにその真の姿を現した。
「ふう、ようやく少しはマシになったかな。でも、まだ空気が淀んでいるな」
サトウは、自分の後ろに続く鏡のような床を見て、ようやく微かな笑みを浮かべた。
彼が歩いた後には、一点の曇りもない完璧な美しさが残されていた。
しかし、その満足感も長くは続かなかった。
回廊の奥から、冷たく、そして重苦しい圧力が押し寄せてきた。
この場所の主が、自分の家を勝手に掃除し始めた不届き者の存在に、ようやく気づいたのだ。
壁の隙間から、ドロリとした黒い液体が染み出してくる。
それは、実体を持たない影の集合体。
あらゆる物理攻撃を無効化し、触れた者の魂を凍りつかせるという、深淵の門番「ヴォイド・シェイド」だった。
「……油汚れか。これは、少し時間がかかるかもしれないな」
サトウは、迫りくる死の化身を前にして、ただ「油汚れ」の処置を考えていた。
彼の瞳には、敵の強さなど一瞥も映っていない。
ただ、その黒い液体が、せっかく磨き上げた床を再び汚そうとしていることへの、深い憤りだけが宿っていた。




