第1話「世界一清潔な探索者」
登場人物紹介
◆サトウ(佐藤)
本作の主人公。
十九歳。
Fランクという最低評価の探索者ライセンスを持ちながら、一度も魔物を討伐したことがない変わり種だ。
極度の潔癖症であり、ダンジョン内の不浄を「生理的な嫌悪対象」として捉えている。
彼の目的は富や名声ではなく、ただ目の前の空間を清浄に保つことだ。
そのため、本来は戦闘訓練に費やすべき時間を、独自の清掃技術の研鑽に捧げてきた。
腰に下げた多機能バケツと、特注の伸縮式モップが彼の唯一の武器だ。
無自覚なままに、清掃動作を極限まで洗練させた結果、あらゆる攻撃を受け流し、急所を的確に突く神速の歩法を身につけている。
◆氷室 ひなこ
探索者管理公社に勤務する二十四歳の分析官だ。
数万件に及ぶ配信映像をチェックし、有望な新人を掘り起こすのが仕事だ。
冷徹なほどに理性的だが、サトウの「異常な清掃配信」を偶然見つけたことで、その常識外れの才能に驚愕し、彼を陰ながら追い続けることになる。
サトウの無自覚な無双ぶりを、論理的に解説する役割を担う。
地下迷宮の空気は、いつも重く、そして耐えがたいほどに不潔だった。
湿り気を帯びた石壁からは、正体不明の粘り気のある液体が染み出し、その隙間にはカビとも腐敗臭ともつかない異臭がこびりついている。
サトウは、鼻を突くその臭いに眉間にしわを寄せることさえせず、ただ黙々と、使い古された雑巾を手に床を拭いていた。
彼にとって、この「ダンジョン」という場所は冒険の舞台でも、富を稼ぐための狩場でもない。
ただ、世界から放置された、巨大な「掃除しがいのあるゴミ捨て場」に過ぎなかった。
十九歳の青年、サトウの手足は、同年代の探索者たちのような、盛り上がった筋肉に覆われているわけではない。
むしろ、柳のように細く、しなやかな体つきをしていた。
しかし、その動きには一切の無駄がない。
右手に持った雑巾が、まるで生き物のように石畳の凹凸をなぞり、瞬く間に長年の煤汚れを拭い去っていく。
一度の往復で、光を失っていた地面が、鏡のような光沢を取り戻す。
それはもはや技術ではなく、芸術の域に達していた。
『どうして、誰もこの汚れを気にしないんだろうな』
心の中で、サトウは静かにつぶやいた。
彼が所属するギルドの連中は、みな色めき立って深層を目指し、強い魔物を倒すことだけに躍起になっている。
だが、彼らが通った後の通路は、魔物の血飛沫や、使い古された松明の燃えかすで、見るも無残に汚されていた。
サトウはそれが許せなかった。
汚れは、秩序の乱れだ。
乱れた場所には、不浄な気が溜まる。
だからこそ、彼は誰に頼まれるでもなく、底辺探索者という身分を隠れ蓑にして、毎夜こうして地下2層の片隅で掃除を続けていた。
ふと、壁の割れ目に、鈍い銀色の輝きを放つ物体が挟まっているのが目に入った。
最初は、誰かが落とした金属ゴミかと思った。
サトウは指先に僅かな力を込め、それを慎重に引き抜いた。
掌に乗ったのは、野球ボールほどの大きさの、半透明な球体だった。
表面には、複雑な幾何学模様が刻まれており、内側では微かな青い光が呼吸するように明滅している。
それは、古代の遺跡から時折発見される、解析不能な遺物の一つだった。
「なんだ、これは。照明器具にしては、少し暗いな」
サトウは、その球体を軽く振ってみた。
すると、球体はふわりと重力を無視して浮かび上がり、彼の肩のあたりで静止した。
その直後、球体の中心から透明な板のような膜が空中に投影された。
そこには、これまで見たこともないような複雑な文字列が並んでいたが、サトウの目にはそれが「最新式の全自動掃除記録機」であるかのように映った。
彼は以前から、自分がどれだけ広範囲を清掃したのか、客観的に把握したいと考えていた。
この不思議な球体があれば、自分の清掃作業を背後から撮影し、記録に残すことが出来るのではないか。
そう考えた彼は、球体の表面にある一番大きな模様を指で押した。
『ライブ配信を開始します。配信タイトルを設定してください』
脳内に直接、無機質な女性の声が響いた。
サトウは驚きで飛び上がったが、すぐにそれがこの「道具」の機能なのだと理解した。
配信。
最近、若手の探索者たちの間で流行している、自分の活躍を世間に公開する遊びのことだ。
サトウは名声などには興味がなかったが、自分の清掃記録がどこかのサーバーに保存されるのであれば、それはそれで都合がいいと考えた。
「タイトルか。……ええと、深夜の地下2層、清掃中。これでいいかな」
彼が口に出すと、球体は一度だけ青く光り、ゆっくりと彼の周囲を旋回し始めた。
まるで、意思を持っているかのように、最適な角度を探しているようだ。
サトウは、その動きを感心しながら眺めていたが、すぐに興味を失って手元の作業に戻った。
『よし、続きを始めよう。この角の隅にあるカビは、少し手強いぞ』
彼は再び膝をつき、特製の洗剤を地面に垂らした。
画面の向こう側で、何が起きようとしているのか。
彼一人が気づいていない。
この古代遺物「自律型記録珠」が、かつて神々が世界の動向を監視するために作り出した、最高位の神具であることを。
そして、その配信が、全世界の探索者たちの端末へと強制的に割り込まれようとしていることを。
サトウの静かな夜は、ここから音を立てて崩れ去り、世界を熱狂の渦へと叩き込んでいくことになる。




