修道院の高貴と可憐
お読み頂き有難う御座います。ジャンル分けに悩みますね……。
百合の気配が少しでもお嫌な方は避けてくださいませ。
今日は、捜査官様。
私の名前は、ペトラルカ・ジサン。此方の交易都市から西に位置しますリムゾム王国のジサン侯爵家が一女でございます。
ええ、ええ。全く実感がありませんの。
だって、リンは温かかったのです。か細い背中も、血を止めようと触れた傷も、わたくしを見つめる愛の籠もった、水面よりも輝く瞳も。
ですが、温かい血は川のように流れていたのです。わたくしの手を、膝を伝って、地へ……。あの土の下に、わたくしもお供したくて……。
ぐすっ、御免あそばせ。
ええ、覚えております。
あの方……愛する姉妹リンと過ごした日々は記憶に焼き付いております。
何度だって、何時だって鮮やかに軽やかに語れますとも。お聞きくださいな。
修道院の、東の回廊の端に常に使われないが、日差しが差し込んで温かい部屋が有ったのです。
所々飾りが欠けて重く古びた寝台には、所々古びてほつれている所を赤や茶色の糸でかがった清潔な寝具が掛かっていました。
後で気づきましたが、特定の者以外誰も近寄らないそのお部屋はとても静かでした。病の方を隔離しているのですから当然でしょうが。
その当時も、家鳴りくらいしかしませんでしたわね。
寝台に寝かされていたのは、未だ少女と言っていい年頃のわたくしでした。
つい先日まで理知的だ、と褒め称えられた過去はとうに消え失せて疲れ切っておりました。数日手入れされなかっただけで、髪が随分とゴワゴワとしていたのを覚えております。甘やかされた身の上で、体験したことのないことばかりでした。
そう、身に纏っていた衣装もそうでした。短い袖の縁にたっぷりと宝石を縫い付けた絹のドレスの代わりに、継ぎ当ての沢山当てられた貫頭衣が着せられておりました。傷の手当てをする為ですわね。
そもそも、今なら分かります。あのような高価なものを修道院へと持ってこれませんでしたでしょう。
お気に入りのドレスよりも、動く度にざりざりとした衣擦れの音に、僅かな葉擦れの音にすら怯えていました。
それがかつての、当時の哀れに震えるわたくしでしたわ。
重そうな扉が音を立てたのは、ノロノロと起き上がろうとした最中でしたでしょうか。
返事をしようにも、わたくしの声は出なかったのです。それまで寝込んでおりましたし、喉の傷も癒えてはおりませんでした。
「愛する姉妹、お加減はいかが?」
足音も軽やかに入ってきたのは、簡素な修道服を纏った黒髪の女神でした。寝台のわたくしも少し年若く、光の化身のような美しいわたくしの姉妹、愛しいリン。
今でも、あの太陽のような温かい微笑みが瞼に焼き付いておりますわ。
日差しで明るい茶色に透ける黒の瞳は、どんな宝物よりも優しげに潤んでいたのです。唇と頬は健康的な薔薇色でした。
彼女は古びた台に乗せられた、凹みだらけの器に目をやりました。
冷めきった食事は完食出来れば良かったのですが、口に合わなかったのです。
少ない食料を分けるような生活の中で、生意気なことで、本当にお恥ずかしいことでしたわ。
「良かったわ、少しでもお食事は召し上がれたのね。
粗末なものだけれど、姉妹達が心尽くしで拵えたものですもの。
貴女の傷を癒す一助になれれば、姉妹達も喜ぶわ」
「……」
するり、と寝台に腰掛けて顔を伏せるわたくしへと親しげに声を掛けてくださいました。ですが、彼女の優しさに当時のわたくしは苛立ちさえ覚えておりました。
ええ、腹立たしくも自分勝手な小娘でしたわ。
「お可哀想に。愛しい姉妹は、まだ悲しいお顔なのね。
そうだわ、お話はいかが? 愛のお話よ。気休めにでもなればいいのだけれど」
私は首を否、と振りました。
その日は顔を見ませんでしたが、きっと優しい彼女のことですもの。わたくしに心を痛めていたに違いないわ。
それから、ずっとわたくしの世話を焼いてくださったもの。
己の身支度よりも、わたくしをずっと献身的にね。
人様にはとても見せられないような粗相まで、何もかも受け入れてくださったの。
羞恥と怒りで泣き喚くわたくしに、根気よく宥め、安らぎをくださったもの。
心を許すのは当たり前でしょう。
ある時、栄養不足で切れた髪を優しく櫛り調えながら、リンは語ってくれました。
不思議な愛のお話でしたわ。王都に居た時には形ばかりの神殿のしもべでしたけれど。
あのようなお説教をお聞きしたことはありませんでした。
「ご存じ? 愛する姉妹よ。
天におわす神様は、ある時愛をお作りになったわ。だけれど、その頃の愛はとても美しく目に見えて手に取れるものだったから、争いが起きたの。
醜い争いを見かね悲しんだ神様は、愛を砕き見えなくしてお隠しになったの。
沢山の人々の中に」
ですから、ポカンとしていたのでしょうね。
リンは楽しそうでしたわ。
あの時の彼女は、わたくしが何をしても優しげに微笑んでいました。
「ふふっ、怪訝なお顔ね? 荒唐無稽かしら? そうかしら。
だって、今でも人々は愛を求めて争っているでしょう?
破滅の愛、親愛、友愛、色々有るけれど……。
どんな方も、遠い昔に砕かれた愛がぴったりと合う方を、ずっと探しているのですって。
求めた形を探し当てた途端、グサリと胸に突き刺さるの。
素敵ね」
ぴったりと……突き刺さる。
愛とは、何なのかしら。
あれだけ我が侯爵家総出でお支えしたのに……。我儘で心ない婚約者に婚約破棄され、棄てられて……辺境の修道院に放り込まれたわたくしに。
そんなわたくしにも、愛が胸を貫くような方が?
とても信じられませんでした。
そんなわたくしに、リンは麗しく微笑むのですわ。
「悲しみは受け止めますわ。何もかも、ね。さあ、愛しい姉妹。私に凭れかかって委ねなさいな」
わたくしは滂沱と涙を流しました。あんな優しい方にお会いしたことは無かったのです。かつてわたくしが、王都にいた頃。
同じ年格好の令嬢は、作り笑顔の奥で前に前と出てくる方ばかりでした。
こんな清らかな方が、辺境におられるなんて
信じられませんでした。
何処までも献身的なリン。何処までも澄んだ空の下にしか生まれ落ちない宝石。
わたくしが、心を寄せ、体力も回復して部屋から出られた時。
無も知らぬ野花が綻びた庭で、リンは薔薇色の頬を日差しに晒していました。勿論わたくしも。
王都では、遮られていた暖かな日差しと、傍には愛しいリン。
喜びで心が弾けそうでした。
ですが、リンの顔は曇っていました。理由は分かっています。
配達人が汚れた手紙を彼女に渡してから、ずっと彼女に悲しみが宿っているのです。
「ねえ、愛しい姉妹」
どうしたのかしら?と尋ねても。可哀想に、優しい声は震えていました。
ですから、わたくしは必死に慰めましたわ。何も心配は要らないの。愛しい姉妹の為なら何でもするわ、とね。
そうしたら、リンの夕闇の瞳は夜露に濡れた野花のように雫を落としました。
「ああ……愛しい姉妹。慰めてくださるの?」
そっと、わたくしの手に包まれた震えていたリンの手は乾いてささくれていました。修道院の炊事洗濯で荒れていたのです。
それまで気付きませんでした。下女のような仕事をする彼女は、寄付を出来ない下賤の出なのかもしれない、と。
勿論そんなことで、わたくしへの献身も愛も代わりはしないのです。
ですが、わたくしは、彼女の手を赤子のような柔らかなものにしたかった。
ですから、せめてとわたくしは彼女の手を必死にさすりましたわ。ペンを取る力が出来たら、家に支援を申し出ようと。
ですが、リンは世俗の汚らわしい金銭の支援など超越したひとでした。
「貴女の黄金の髪は、射るように強いわ。昼日中の夏の光のようね。
愛する姉妹。貴女が私の胸を穿つ方。
そうなのかもしれないわ」
そうして、ポツリとリンは過去を語ってくれました。あの細い肩が悲しみに震えていて……御免なさい。思い返すだけで涙が溢れますわ。
「女性同士なのに、突然のことで御免なさい。
でもね、秘密だけれどね。
私、殿方がとても怖いの」
わたくしが絶句していると、彼女は恥じらいながら言いました。
「お恥ずかしいのだけれど……。
大きくて乱暴な殿方に、傷つけられたことがあるの。それからずっと、殿方へ愛を捧げることが出来ないでいるのよ」
何ということかしら。
彼女も、身勝手な殿方に傷つけられた被害者だったのです。
わたくしはリンを掻き抱き、泣きましたわ。わたくしが慰めないといけないのに。
身勝手な婚約者との過去がわたくしを苛むように、リンも苦しんでいたのです。
「ええ、ええ大丈夫よ。
優しい方ね。
此処にいらした時は、怯えてらしたのに。
貴女の御心の回復は、なんて喜ばしい。
神様へと感謝しなければ」
そうして、リンはわたくしだけに秘密を囁いてくれたのです。
わたくし達だけの秘密よ。誰にも内緒よ、と。
どんな花に囲まれるよりも甘く、全身を蕩かすような微笑みでした。
「ねえ、愛する姉妹。
私の秘密を聞いてくださる?
私はね。
群島の国の国王の血を引いているの。
落花狼藉の上に生まれた汚らわしい女なの」
リンが汚らわしいなんて、ある訳がないのに。
何時も身を粉にして働いていて、わたくしの為に心を砕く女神のような女性。
他の者の打ち明け話なら、汚らわしいと見向きもしなかったでしょう。
だって、故郷では庶子なんて碌でもない者ばかりでした。
小銭をせびるだけならまだしも、正当なる後継者を蹴落とそうとするような悪徳の者ばかり。
捻くれた、意地悪で下賤な者ばかりでしたもの。
それから、間もなくでしたわ。
汚らわしい生まれの下級貴族崩れ男が、内乱のどさくさ紛れに権力を握り、リンを奪いに来たのは。
ええ、リンは怯えていました。
その男は図体ばかりが大きく、粗野で暴力的な男だったのですから。絵に描いたような、リンの愛に相応しくない男。それなのに、リンは気丈に接しておりました。あんな男はリンに相応しくないのに……。
しかも、あの男はわたくしに色目を使ってきたのです。野花のような可憐なリンよりも、貴族らしい気高いわたくしが気に召したと。
なんて汚らわしい。
ですから、あの子爵令息が犯人なのです。人気があり、高貴なる血を妬んだのでしょう。あの者が破落戸に手を下させたのですわ。
言いたいことしか言わないものです




