8.吸血鬼のように襲ったから、仕返し
朝、薄暗い陽射しが顔を照らして、目が覚める。この部屋には一つだけ窓がついていた。……お姫様が住んでいたからかもしれない。窓枠は木で出来ていて、ところどころ黒ずんでいる。丁寧に磨き上げられていて、埃は積もってないけど、黒いカビは拭いきれないみたい。私がぼんやりと起き上がって、ふわふわの敷きパッドを撫でていたら、のしっと、何かが毛布の上に足を置く。振り返ってみると、昨夜と同じ、黒い犬の姿をしたバーデンだった。
「おはよう、バーデン。今日のご機嫌はどう? よく眠れた?」
「……ああ、よく眠れた。お前はよく眠れなかったようだが」
「昨夜嫌な夢を見たの。それに寒いし、ここ……。寒さが肌に染みこんで、抹消血管まで冷やしていくみたい。ねえ、温めてくれる? バーデン」
「もちろん。そのために犬の姿になったんだからな」
「そうなの? 知らなかった……」
のっしのっしとベッドの上を歩いて、私の膝にどすんとお座りする。笑っちゃった。ふわふわでみっちりとした黒い毛皮が、私の冷たい手を包み込み、癒してゆく。……でも、人外者には体温がない。冷凍庫から取り出して、放置しておいた保冷材みたいな温度。生温くて冷たい。
『生きているから温かいに違いないと思って、人間は俺達に触れている。だから温度が無いのに、生温く感じるのはそのせいかもしれないな』
以前、バーデンが言っていたことをふっと思い出す。そのせいかもね、バーデン。私達はずっと期待してる、人外者に。温かくないはずなのに、ほんのりぬくもりを感じるのはきっと、私がバーデンに期待しているせい……。両目を閉じ、ほんの少しだけまどろむ。バーデンはその間中ずっと、規則正しく背中を上下させていた。生きている、多分。どこから生まれて、どこに消えるかもよく分からない人外者だけど、多分生きている。
「ああ、歯を磨かなくちゃね……。部屋まで、会いに行ったら迷惑かな?」
「殿下のことか? お前の愛しの」
「うん、そう。あの人ね、私のことを助けてくれるって言ってた。多分だけど」
「……多分か。でも、大丈夫だ。気が乗ればお前のことを助けてやる」
「うん、ありがとう。バーデン、それでいいよ。だって叔父さんが言っていたんだもん。人外者を頼りすぎるな、お前が弱るぞって」
「違いない。俺がいなくても、自分の身ぐらい自分で守れるようになれよ?」
「うん、もちろん。でも、殿下って強いのかな? 少しだけ魔術が使えるみたいだけど」
そんな感じの匂いがする。それに、モリスさんの弟子みたいだし。きっと魔術が使える。……眠たくなってきた。どうしよう? でも、起きなくちゃ。ここは寒くて薄暗い。私とバーデンのほかに人はいない。私がすぴすぴと鼻を鳴らして、うたた寝していたら、急にバーデンが人の姿に変わった。もたれていたから、ベッドの上に投げ出される。
「も~、何!? 急に変わらないでよ! ひとこと言ってよ、バーデン!」
「悪い悪い。でも、眠った方が良さそうだ。この塔の魔術に慣れた方がいい」
「慣れるの?」
「もちろん。気温と一緒だ。今のお前はいきなり、何の装備も無しで雪国に放り込まれたようなもの……。じきに体が魔術に慣れてくる。だから一旦眠れ、おやすみ」
いつもの黒髪黒目の男性になったバーデンが、私の重たい目元に手を当てる。あ、眠っちゃう。どうしよう? 殿下が私に目玉焼きを作ってくれる予定なのに……。がくんと、ひとりでに体が崩れる。重たい、手が動かせない。手足が自分の意思で動かせなくて眠たい。力が抜け落ちた私を、バーデンが抱えて笑っていた。
「ごめん、シェリー。でも、お前が壊れたら困るんだよ。大事にしなきゃな……」
どうして、バーデンは私の傍にいるんだろう? いつからいたっけ? 何のためにいるの? 思い出せない。夜、路地裏で死にかけていたことはうっすら覚えているんだけど……。頭上で人の話し声がする。誰かが困っていた。うーんと低く唸れば、誰かが笑って、私の額にかかった黒髪を払いのける。
「分かった。それじゃ、徐々に慣らしていくか……。ごめんよ、シェリー。カイとエナンドが来たのは昔のことだから、すっかり忘れていた。俺は王族だから影響を受けないんだな?」
「ああ。……ここは元々、王族のために建てられた塔だからな」
「俺のご先祖様と関わったことが? バーデン」
「詮索するようなら殺すぞ、クソガキ! いいから黙ってシェリーを癒せ。俺はこの辺りを散策してくる」
「はいはい、行ってらっしゃい。ああ、そうだ。馬には手を出さないでくれよ。あと城の人間にも」
「俺は他の人外者とは違う。散策すると言ったら、散策するだけだ。まあ、カラスの姿で空をだけどな」
「カイ! それにエナンドも。窓を開けてやってくれ、大きく」
「随分と気が利くなぁ」
バーデンの笑う声が聞こえてきたあと、ばたばたと物音がして、窓が大きく開いた。目を閉じていても分かる、風が部屋に流れ込んできたから。ほんのりと甘い春の風が、私の頬を撫でていった。くすぐったい、胸の中がそわそわする。塔の中は冷たくて冬だけど、外は暖かい春だっていうことが、よく分かるような甘い風だった。ゆっくりと目を開ければ、私のことを抱えているレナード殿下が笑う。
「おはよう、シェリー。ああ、でも、もう少し眠った方がいい。最初、カイとエナンドもこういう状態になっていたから」
「……カイとエナンドのことも、こうやって抱き締めていたんですか?」
「そうだね。まだ二人とも小さかったし、一緒に眠っていたよ」
「そうは言っても、レナード様? 俺達とあなたはそんなに年が離れていないじゃないですか! 一つ、二つですよ。たかだか」
「でも、あれぐらいの年頃の一つ、二つの年齢差はかなり大きいだろ? なぁ? カイも最初はこんなにちっちゃくて」
「いやいや、そんなに小さくはありませんよ。俺が痩せぎすだったから、そう感じただけじゃないですか」
三人とも、仲が良くて嫉妬しちゃう……。私がうむうむと低く唸って、殿下のニットにしがみつくと、笑って頭を撫でてくれた。手が優しい。お父さんの手みたい、まるで。
「ごめんごめん。それにしても、目のやり場に困るネグリジェだな……」
「これ、バーデンが用意してくれました。殿下が夜、部屋に来た時用だって」
「ふぅん。バーデンとは一度、じっくり話した方が良さそうだ。ほら、シェリー? 口を開けてくれ、俺の血を飲んだ方がいい」
「えっ?」
「お手伝いしますよ、レナード様」
「いや、いい。指に穴ぐらい、自分で開けられる。エナンドはカイと一緒に朝食の支度をしてきてくれ。今日は十一時からお客様が来るからな。早くしなきゃな」
「分かりました。行くぞ、カイ。あーあ、酷い顔して」
「あの女は早々に追い出すべきだろ! それに、レナード殿下もレナード殿下でどうかしていますよ。今までの女は、雑に追い払ってきたくせに……」
「ほら! いいから行くぞ、ったくもー」
不満そうな空気をぷんぷん撒き散らしているカイを見て、殿下が笑ったような気がした。カイとエナンドが出て行き、ぱたんと扉が閉まる。それにしても、この部屋は明るい。それに心なしか暖かい。殿下の部屋じゃないのかも……。
ようやく目を開ける気になって、殿下のニットにしがみつきながら目を開けると、目が合った瞬間、優しげな蜂蜜色の瞳がとろける。赤ちゃんをあやしている人って、こういう顔をしているのかもしれない。窓からの陽射しに照らされ、殿下の黒髪が光ってる。
「目が覚めてきた?」
「はい……」
「血をあげよう。病気じゃないんだけどバーデンいわく、それで回復するって。王族である俺の血を飲めば、塔にかけられた魔術からの影響が、」
「食べます」
「ん? 目玉焼きを? 目玉焼きなら、まだ出来てないけど……」
「そうじゃなくて、殿下の指を」
「えっ?」
急に起き上がった私を見て、驚く。部屋は広かった。なめらかなクリーム色の絨毯の上に、品の良いアンティーク家具が並んでいる。窓は少しだけ開いていて、そこから眩しい陽射しと風が舞い込んできていた。レースのカーテンが風に揺らされている。
ここのカーテンはどれも凝っていて、まるで窓辺に芸術品をかけているかのよう。座っているベッドには四本柱がついていて、ペールグリーン色のカーテンがかかっている。そんな落ち着いた部屋にて、レナード殿下が大きく、蜂蜜色の瞳を見開いた。私が両手で、白く美しい手を持ち上げると、びくっと、死にかけた魚のように肩を揺れ動かす。そのまま人差し指を丁寧にくわえ、歯を立てれば、小さく唸った。でも、払いのけるようなことはしない。
「シェ、シェリー……? 何も噛まなくったっていいだろ!?」
「ありがたく頂きますね、癒しの血を」
「行動が予測不能だ。まあ、今さらなことかもしれないけど……」
レナード殿下は諦めることにしたみたい。ぐっと歯に力をこめ、指の腹を噛む。まだ血が出てこない。見てみれば、苦しそうに顔を歪めていた。……この方はあまり、怪我をしたことがないのかもしれない。私の体には無数の傷が残っているのに! 悔しくなって、子犬のようにがじがじと指を噛めば、苦しそうに笑う。
「痛い痛い! 意外と出ないもんなんだな、血って」
「もう少し強く噛みますよ、殿下」
「っう!?」
爪を噛み砕く勢いで噛み締めれば、ようやくじんわりと血が滲み出てきた。殿下が息を荒げている。有難く、舌でその血を舐め取っていれば、はっと笑った。
「シェリー、味はどうだ? 血の味は」
「ほんのり甘いです……。殿下の血は塩気を感じないんですね、それに熱い」
「そうか。人によって感じ方が違うみたいで、エナンドはほろ苦いハーブみたいな味がするって」
「ふぅん。癒しの血を持つ人って、不思議な味がするんですね……。もっとください、レナード殿下。頭がすっきりしてきました」
「えっ? ちょ、ちょっと待って……」
頭にかかっていた白い靄のようなものが晴れて、視界がクリアになる。殿下が怯えていた。いつの間にかベッドに押し倒していた。その時、くすんだ黄色いニットが目に入る。白いシャツ襟が、黄色いニットからはみ出ていた。蜂蜜色の瞳とぴったり合っている。でも、今はそんなこと、どうだっていい!
とにかく血が飲みたい。舌先に触れると、じんわり熱くなったあの血。舐めるとほのかに甘くて、紅茶と薔薇が混じったような匂いがする。もっとちゃんとその甘さを確かめたい。私が殿下の両手首を掴み、黙っていると、さぁっと青ざめた。
「まっ……待った! シェリー! もう十分だろ!? 俺を押し倒せるぐらい、元気になったようだし?」
「ちょっとだけ首筋から貰いたいです。殿下の首筋、白くて綺麗だから!」
「はあっ!? ちょっ、ちょっと待った! エナンド!? カイーっ!」
がぶっと、首筋に噛みつけばパニックに陥った。仕方ないから両手を握り締めつつ、痛み止めの魔術をかけておく。耳元で「大丈夫ですよ、痛くしませんからね」と呟けば、体から力が抜けていった。
「なんだか……そういう猛獣でも飼った気分だ。俺は一体、どこで何を間違えてしまったんだ?」
「私を雇ったこと、後悔しているんですか……?」
悲しくなって首筋から口を離し、至近距離で見つめていると、うっと息を呑み込んだ。首を傾げていれば、両手を伸ばし、私のことを抱き締める。
「落ち着いてくれ、シェリー。もうこれ以上血はやれない。それと、雇ったことを後悔してはいない。このまま何も起きなくて、死んでいくと思っていたから」
「……それはどういう意味ですか?」
「俺は一生、この塔で血を搾られて生きていく。きっと、妹が王位を継いでもそれは変わらないだろう。国民からすれば俺は、王位を継げない虚弱な王子だから……。それを考えると虚しくなってくるんだよ、シェリー。俺は何のために生きていると思う?」
殿下の闇は深い。心臓の辺りに耳を当てていると、どっくんどっくんと、安らかな音が聞こえてきた。良い匂いがする。ちょっと薔薇の香りがするんだ、殿下は……。私の背中に回された手が温かい。これが冷たくなってしまうのは、惜しくて悲しいような気がする。両目を閉じてまどろめば、幼い頃の記憶が蘇ってきた。お母さんが笑って、ベッドでぐずっている私を起こしてくれていたのに、もういないんだ。どこにも。
「……殿下は私に目玉焼きを焼くために生きているんです、今のところは」
「そっか。腹減った?」
「はい! 血じゃお腹は膨れませんからね。でも、とりあえず私のために生きて貰えませんか? 殿下。そうして貰えると嬉しいです」
「嬉しい?」
殿下を起こすために差し伸べた手を、掴みながら聞いてきた。何故かきょとんとした顔をしてる。可愛らしい。にこにこと笑って「はい」と言えば、泣き出しそうな、笑い出しそうな顔をする。だから、一旦ベッドに座って、両手を握ってあげた。ユーインが不安がった時、いつもこうしてあげてたなぁ。
「私、こんなに優しくして貰えたの久しぶりなんです。両親が亡くなって以来なんです」
「そっか。シェリー?」
「はい?」
「生まれてきて良かったなって思う? そういうことを考えても無駄なのかもしれないけど、時折、無性に気になってしまって……」
殿下が蜂蜜色の瞳を彷徨わせつつ、黒髪頭を掻きむしった。ふと、モリスさんが「心の鎧を強制的に剥ぐようなところがある」と言っていたことを思い出した。……殿下もそうなのかもしれない。私の前では気が緩むのかもしれない。最初に会った時の、現実離れした美しさが剥がれ落ちていて、か弱い二十四歳の青年に見えた。王子様だけど迷っていて、苦しんでいる。
「……私は、そういうことを考えるのは失礼だと思っています」
「失礼? 誰に対して?」
「私が殺した人に対して。あと、お父さんに対して。お父さんがね、私が生まれるのを心待ちにしていたんですって。だから、そういうことは考えないようにしてます。私が生まれてきて良かったのかどうかなんて、人それぞれですから」
「人それぞれね。確かにそうだろうな……でも、シェリーの意見は?」
「私の意見?」
「そう。考えないようにしてるみたいだけど、考えてみて。一度。生まれてきて良かったと思うか?」
さっき私が噛んだ指先をじっと見て、虚ろな表情を浮かべていた。殿下はなんだか、いつも罪悪感に苛まれているみたい。そんな顔をする。生きることにも、死ぬことにも執着していない。海を漂流するスポンジみたいにただ、何となく流されて生きている。それは虚ろで、空っぽになっちゃう生き方なんだと思う。
「生まれてきて……? 私はユーインを助けるために、生まれてきたんだなと思ってます。私がいなきゃ、ユーインは死んじゃっていたかもしれない。殿下は? 大事な人はいないんですか? カイとエナンドのことはどう思っているんですか?」
「あの二人は俺がいなくても生きていけるし、巻き込んでしまったようなものだから」
「巻き込んでしまったようなもの……?」
「モリスから何も聞いてない? まあ、当然だろうな。あんなこと、言えるわけがない」
「あんなことって、一体どういうことですか?」
「いずれ分かるよ、二人の体質のこともね。俺がべらべら喋らない方がいいだろうから、言えない。でもなぁ……あの二人は、いざとなったら俺の代わりに死ぬつもりでいる。何かと危険だからね、この塔での暮らしは」
「毒を盛られたって言ってましたけど?」
「うん、だね」
どうでもよさそうな顔をして、そっぽを向いた。膝を立てて、どこかあらぬ方向を見つめている。視線を辿ってみるとその先には、白い精緻なレースカーテンが揺れ動いていた。静かな午後のような明るさに包まれている。よくよく見ると天井には、百合の花をかたどったシャンデリアが吊り下がっていた。
「ここ……ここの部屋、どこですか? 塔の中ですか?」
「うん、一応客間。ここが一番影響を受け辛いから」
「へ~」
「元は看守が使っていたらしい。窓があって明るくて、気温も高い」
「それにしては豪華ですねえ。ここで寝泊りしていたんでしょうか?」
「いやいや。ここは王妃様が改装なさったんだよ、何度か泊まりにきてらっしゃる」
「泊まりに……? 仲が悪いのかと思っていました、殿下と」
「多分、向こうがそう思ってるだけじゃないかな?」
ひっそりと笑い、ベッドから離れて立ち上がる。お腹が減ってきた。きゅるるるると、お腹の虫が小さく鳴く。慌てて押さえていると、殿下が無邪気に笑った。
「じゃあ、食べに行こうか。カイに突っかかって喧嘩しちゃだめだぞ?」
「向こうが私に喧嘩を売ってくるようなら、高く買い取ります!」
「ははは、皿とか割らないで欲しいんだけどなぁ……。あっ」
「バーデン! 帰ってきたの? おかえり~」
窓から入ってきたカラス姿のバーデンが、黒い翼を動かし、何故か殿下の肩に止まる。ショック……。浮気現場を見てしまったような気持ちになり、呆然と、えらそうにふんぞり返っているバーデンを見つめていたら、殿下が慌て出す。
「バーデン!? どうして俺の肩に止まったんだ!? ほら、シェリーがショックを受けてる!」
「たまには別のやつの肩に止まってみようと思ってな。ただの気まぐれだ。気にするなよ、王子様」
「いやいや、気になるって……。あー、シェリー? そんな目で俺を見ないでくれ、頼む! 別に奪おうと思ってるわけじゃないから」
じっとりと恨みがましい目を向けていると、殿下が心底弱った表情を浮かべる。バーデンは呑気に毛づくろいしていた。座っていても仕方ないので、ベッドから降りる。
「分かってるんです、バーデンは私の人外者じゃないって。でもね? バーデン。あからさまにそういうことをされるのは嫌なの。殿下を口説くつもりなら、私がいないところでしてよ。も~、ほら、おいで!」
「へいへい。意外と嫉妬深いな」
しぶしぶといった様子で飛び立ち、私の肩に止まる。ああ、落ち着く。そう、これでいいの。確かに殿下の肩の方が広くて、止まりやすいのかもしれないけれど。
「いつも肩にいる存在がいないと落ち着かないんだもん。それにお腹も空いたし! 早く食べに行こうよ、バーデン」
「俺は何も食う気が無いがな」
「そうなの? ミルクぐらい、分けてあげるのに。……レナード殿下? どうされましたか?」
それまでぼんやりしていた殿下がはっと我に返って、取り繕った笑みを浮かべる。疲れないのかなぁ、あんなこと毎日していて。でも、カイとエナンドにはそこまで気を許していないみたい? ほっとした、付け入る隙がありそうで……。
「行こうか、目玉焼きを焼いてあげるよ」
「とろとろの半熟でお願いします! それと、一度笑ってみて貰えませんか?」
「えっ? 笑って……?」
「はい! にっこにこ! にっこにこーってしてください!」
「え、うーん。こうかな?」
私が口の端に両手の人差し指を当てて、にっこり笑ってマークを作ってみたら、戸惑いながら嘘臭い微笑みを浮かべる。……違う! 私がとんでもなく渋い顔をしているのを見て、さらに困惑する。
「えっと、シェリー? 今のに一体何の意味が……?」
「笑顔が嘘臭かったので、がっかりしました! すっかり染み付いちゃってるみたいですけど、そんな笑い方、やめた方がいいですよ。だからきっと、疲れちゃうんです。昨日とさっきはすごく良い笑顔だったのに!」
「そうかぁ? さっきと昨日、何がどう違うのかな……」
「さあ、分かりません。ただ、殿下が何も考えずに笑ってくれるといいのになと思っただけです。ご飯っ、ごっはっんぅっ!」
飛び跳ねながら、両開きの扉へ向かう。王城の扉とよく似ていた。ペールグリーンのカーテンに隠された木の扉には、二人の少女の絵が彫られていた。一人は優しげな顔つきをした、長い髪の少女。手には森で摘んできたのか、茎が長い花を何本か持っている。それを芝生の上に座った、黒い短髪の少女に渡そうとしていた。二人とも、村娘のような格好をしている。やけに凝っていて、まじまじと眺めてしまった。顔つきに特徴がすごくある……。絵の中の少女というよりかはまるで、実在している人物をモデルにして描いたみたい。指を這わせると、ひんやりした木の温度が伝わってきた。
「ねえ、レナード殿下? この扉の絵って……」
「シェリー」
「えっ?」
殿下が私のすぐ後ろに立って、扉を押さえる。あ、開かないと思うんだけど、これじゃあ……。それとも、押して開けるタイプなの? でも、殿下の白い手が押してもびくともしない。肩の上のバーデンが嘲笑って、どろんと、赤と黄色のトカゲに変身したあと、するすると降りてゆく。私がゆっくり扉に手を添えれば、同じぐらいゆっくりと、手に手を重ねてくる。手が昨日とは違って、少しだけ冷たい。バーデンの温度とよく似ている。
「あ、あのう? どうされたんですか、殿下?」
「さっきのお返し」
「ひゃあっ!?」
急に私の肩を掴んで、首筋に吸いついてきた。心臓がばっくんばっくんと激しく鳴り出す。どうしよう? こういう場合、どうするのが正解なの? 気絶させることは出来る。悲鳴を上げる間もなく、殺すことも。でも、それ以外どうしたらいいのか分かんない。どうする? どうするのが正解だっけ……?
「レ、レナード殿下? 私はこういう時、一体どうしたらいいんでしょう……?」
「好きなようにすればいい。嫌?」
「嫌ではないんですけどただ、人を連続で三人ぐらい殺した時の高揚感とよく似ています」
「そっか。今までよく頑張ったね」
「うえっ!?」
ぎゅっと後ろから抱き締めてきた。お、落ち着かない! これ、殿下がナイフを持っていたらあっという間に殺されちゃいそう……。体が硬直する。酷いパニックに陥っていると、すぐに離れた。
「じゃ、朝ご飯食べに行こうか。ベーコンエッグ、ベーコンエッグ。ああ、そうだ。バーデンは何が好きなんだ? おいで」
「俺も少しベーコンの端とパンを齧らせて欲しい」
扉を開いて廊下に出た殿下が、腕を伸ばし、そこにカラス姿のバーデンが降り立つ。呆然として、首筋を押さえていれば、こっちを振り返って笑った。さっきの嘘臭い微笑みとは違う、満足げな微笑みを浮かべている。
「どうした? シェリー。早く行こうよ、お腹が空いたんだろ?」
「……たっ、確かに笑顔が見たいって言ったけど、そんなのは私が見たかった笑顔じゃありませんよ!!」
「ははは、ごめんごめん。ほら、お返しだからさ~」