7.私のこと、子供にしか見えないって言ったくせに!
カイがいたら、威嚇してやろうと思ってたけどいなかった。良かった。エナンドが一人、リビングで夕食の支度をしていた。初めて入ったリビングは、真っ暗闇な廊下と違って明るい。でも、どこか洞窟っぽかった。窓が一つもないせいかも?
むき出しになった石壁に、ところどころ黒ずんでいるけど、丁寧に磨き上げられた無垢床。天井には無骨な黒いシャンデリアが吊り下げられ、中央にはどどんと、大きな木のテーブルが置いてある。そこに丸太で作ったのかな? と言いたくなるような椅子が並んでいた。背もたれには白いレースがかけられ、赤いキルト生地のクッションが置いてある。何となく、王妃様の仕業だと思った。
それから、壁際には素朴な木の食器棚が並び、入ってすぐ右手には、赤と黄色のパッチワーク生地のソファーとテーブルが置いてある。肝心のキッチンはいかにも古そうで、黒一色だった。作業台近くの壁には真新しい、白のタイルが張られているけど。でも、一番目を惹いたのは中央で燃え盛っている炎だった。炎の上に鉄製の黒いお鍋が浮かんでる……。扉つきで、白いリネンのエプロンを身につけたエナンドが、お鍋の中身をかき混ぜたあと、すぐにぱたんと閉じる。それを見て、いつの間にかトレンチコートを脱いだ殿下が腕まくりしつつ、話しかけた。
「エナンド、手伝うよ」
「あれ、レナード様? 案内は? というか、シェリーちゃんは?」
「終わった。それにいるぞ、ここに」
「いますよ、ここに!」
「ああ、そうなんだ。気配がないから気付かなかった。ごめんね?」
こちらを振り返って、甘い微笑みを浮かべる。うん、カイよりこの人の方が好き! でも、姿が見当たらないけど、テーブルの下にでも隠れて、私の一挙一動を見張っているのかもしれない……。不安になってそわそわと、テーブルの下を覗き込んでいたら、レナード殿下が苦笑した。
「あ~、エナンド? カイは? シェリーが探しているみたいなんだ」
「ああ、あれ、探しているんですか? 急に何をし出したかと思えば……。カイなら、気分が悪いと言って早々に上がりましたよ。多分、今日はもう出てこないかと」
「そうか、残念だな。仲直りさせたかったんだけど」
「無理じゃないですかねえ。ああ、そうだ。シェリーちゃん? アレルギーは?」
「アレルギーはないけど、好き嫌いは沢山あります!」
「そっかぁ。今日は羊肉のシチューとパン、サラダだけど食べれる?」
「はい! 羊肉はかろうじて、我慢して食べれます」
「そっかそっか、良かった」
「シェリー、羊肉は俺が食べてあげるから。あと、ベーコンは? 食べれる?」
「食べれるけど、それがどうかしたんですか?」
羊肉を食べて貰えると聞いて、ほっとしていると、いきなりそんなことを聞いてきた。首を傾げれば、レナード殿下がにっこりと微笑み、キッチンの一番端にある冷蔵庫へと向かう。
「確かまだあったよな? ベーコン」
「まさか、わざわざ出すおつもりですか……?」
「これぐらいはな、別に。大したことじゃないから」
「へーえ。女性を毛嫌いしているわりには、親切にするじゃないですか? レナード殿下」
「毛嫌いしているわけじゃないよ。それに、シェリーは子供だし。女性というような年齢じゃない」
「えっ!?」
た、確かに殿下からすれば、私はまだまだ子供なのかもしれないけど……。ショックを受けていると、足元の影からバーデンの黒い手がぬっと、這い出てきた。すぐさま黒い液体になって、私の体にまとわりつき、人の姿になる。いつもの黒髪黒目の男性に変身していた。驚いていると、後ろから私のことを抱き締め、ちゅっと頬にキスしてくる。
「もういいだろう? シェリー。こいつと二人きりにならなくても」
「あっ、うん。いいよ、別に! ねえ、バーデン? 私って女性じゃないのかな?」
「あ? どこのどいつが、そんなとぼけたことを抜かしやがったんだ?」
「すまない。俺だよ、バーデン。どうも彼女は女性というよりも、幼い女の子だという感じがして」
穏やかに笑いながら、片手を上げた。読めない。どことなくモリスさんと似たようなところがあるなぁ、殿下は。胡乱な眼差しで見つめていれば、苦笑する。バーデンは何故か殺気立って、舌打ちをしていた。
「面倒なこと、この上ないな……。もういっそのこと、全員殺してしまうか」
「それはだめだよ、バーデン。殿下は私のためにベーコンを焼いてくれるんだから!」
「変わらないな? シェリー。お前のことをたとえ、砂糖菓子のように大事にする男がいたとしても、お前はずっとずっと変わらないよな!? シェリー!」
後ろにいたバーデンがぐにゃんと、黒い体を引き伸ばして、私の顔を覗き込んできた。息を呑み込み、ちかちかと真っ赤な光が飛び散っている、黒い瞳を見つめることしか出来なかった。ぐるりんと正面に回ったバーデンが、私の両肩を掴んでくる。胸から下がなかった。黒くてゆらゆらしてる。
凄まじい形相をしているバーデンを、ただひたすらに見つめていると、歯軋りした。猛獣みたいだ、怖い。一歩間違えれば、殺されちゃうんだろう。────でも、本当に怖いの? どこかで私がせせら笑った。だから余裕を持って微笑み、答える。
「ごめんね、バーデン。変わらない人なんていないの。でも、今の私はバーデンが惚れ込んだ私だよ。花が散ってしまって、咲く時期じゃなくなったからと言って、あなたは木を切り倒してしまうの? 次の季節にもう一度、咲いてみせるのに?」
「どういう意味だ? それじゃあ、変わらないのか。それとも変わったとて、また元のお前に戻ると言いたいのか?」
「そういうこと。私の根っこは変わらないから、ずっとずっとバーデンが好きな私のままだよ。一時的に変わったとしても、また戻ってくる。私はこのままでいる」
「なら、いいが……合格だ」
「ありがとう、バーデン」
しゅるりと黒いリボンのようなものに変化して、私の肩に巻きついてきた。ぼふんと白い煙が上がったあと、カラス姿になってふんぞり返る。ことの成り行きを見守ってくれていたレナード殿下と、エナンドが同時にほっと息を吐き出した。
「あ~、良かった。ほっとした。シェリーちゃん? その人外者とは一体どういう関係で……?」
「分かんない! でも、道具以上相棒未満の関係かな!」
「シェリー、危険じゃないか? その男は」
「ん?」
「何をいまさら。安全な人外者なんているのか? いるのなら、ぜひその面を拝んでみたいところだぜ」
ふんと胸を張ってから、バーデンが毛づくろいをし始める。きょとんとしていれば、レナード殿下がそっと目をそらした。
「モリスは……殺し合いの末に、人外者を服従させていた」
「その人外者のどこが安全なんだよ!? 言ってみろ、王子様!」
「シェリー。完壁にコントロール出来ていないのなら、手放した方がいいと思う。記憶をいじって解放しよう。このままじゃ危険だ、君がいつか殺されてしまう」
「虫一つ殺さぬような顔をして、とんでもないことを言いやがる。お前、さては成功者だな?」
「成功者? なぁに、それ」
「求愛してくる人外者の手から逃れた人間を、俺達はそう呼ぶ。狙った獲物は決して逃がさないからな」
「人外者なんて大したことない。記憶をいじれば、こっちのものだよ」
「何だと? 命が惜しくないのか、お前」
「ああ、惜しくないとも。命が惜しい臆病者は、お前の機嫌をうかがって媚びへつらうんだろうな?」
どうして、挑発するようなことばっかり言うんだろう? このままだと、ご飯が食べれない……。レナード殿下とバーデンが睨み合いを始め、バーデンが黒い羽根を膨らませた瞬間、ぐーっとお腹が鳴ってしまった。それだけで終わらず、ぎゅるぎゅる、ぐうぐうと、悲しい老犬の鳴き声のような音が響き渡った。さすがに恥ずかしくなって、お腹を押さえる。レナード殿下とエナンドが、目を点にしてこっちを見つめていた。
「ね、ねえっ! あの、食べませんか!? バーデンももうやめてくれない? お腹が空いちゃったの、私……。ベーコンが食べたいな」
「仕方ないな。お前の強烈な腹の音に免じて、許してやろう」
「きょっ、強烈って言わないでくれる!? 今日は沢山動いたんだもん、お腹だって減るよ~……!!」
「よしよし、シェリー。俺がベーコンを焼いてあげるから、ちょっと待っていてくれ」
「レナード様? そんなことは俺がしますから……ああ、もう」
どうしてか嬉々として、殿下が冷蔵庫を開け、ベーコンを取り出し、まずはフライパンに油を引いた。下に火があるけど、コンロもある。不思議! キッチンは古い魔術仕掛けのキッチンのようで、おもむろにレナード殿下が、錆びた鉄製のトングにしか見えない、“火持ち棒”を掴んだ。先端は丸くなっている。眺めていると、機嫌が良さそうな殿下が、燃え盛る炎へと火持ち棒を突っ込んだ。持ち手は熱が伝わらないよう、木になっていた。
「すごいですねえ、火持ち棒なんて初めて見ました」
「あれ、知ってる? 物知りだね、シェリー。最新式のキッチンにしないかって言われたけど、これが気に入ってるんだ。分かるだろう?」
「はい! これが素敵ですよね」
「うん。ただし、この火は三十分しかもたないから。都度入れる必要がある」
「はい! 覚えまーす」
「よろしく」
殿下が火持ち棒で、ひょいっと火を持ち上げ、それをコンロの上に乗せる。すぐさま炎が小人の形になって、三人に分裂した。本当だ。三十分しかもたない証拠だ。小人一人で約十分だから。珍しくて、しげしげと眺めていると、殿下が軽く笑って、小人達の上へ鉄のフライパンを乗せた。すぐさま「きゅうきゅう」と鳴いて両手を上げ、フライパンを支える。そのまま、震えながら温め始めた。なんだか、小人達がフライパンを使って筋トレしているみたい。
「ねえ、見ていると何だか筋トレがしたくなりませんか?」
「ならないなぁ。さっき、好き嫌いが多いって言ってたけど、好きな食べ物は?」
「ん? ん~、お肉! ベーコンとかソーセージとか、燻製の良い香りがする食べ物が好きなんです。殿下は?」
「俺はいいから。あとは?」
「……目玉焼きとゆで玉子。それから、白身魚の香草パン粉焼きが好きです。よくユーインが作ってくれたんですよ。あと、チーズに目がなくて、チーズフォンデュとか、バゲットにチーズとレタスを挟んだだけのものとか、そういう素朴でシンプルなものが好きですかね」
「ふぅん、そっか。じゃあ、明日の朝、チーズを出してあげるよ」
気まずそうに割って入ってきたエナンドが「すみません」と言うと、殿下が体をずらして、キッチンから離れた。エナンドが居心地の悪そうな顔をしながら、黒い扉を開け、どれくらい煮えているかを確認する。かき混ぜたあと、へらりと笑って「どうも、お邪魔してすみませんでした……」と言い、離れていった。
どうするのかなと思って眺めていたら、ぎこちない動きでソファーへと座る。私のことはいないものとして扱うみたい。じっと凝視しても、青ざめ、こっちを一向に見てくれない。それどころか、ソファーの横ポケットから雑誌を取り出して、読み始めた。その時、空気が揺れ動いて、はっと後ろを振り返る。レナード殿下が、興味深そうに私のことを見下ろしていた。
「気になる? エナンドのことが」
「いいえ、でも、どうしてぎこちないんだろうと思って。それだけ」
「あまりシェリーに近付くな」
私の肩の上にいたバーデンが、唐突に低く唸る。今は手乗りサイズの凶悪な黒い犬に変身していた。可愛くない……。もっと可愛いものに変身してくれたらいいのに。こんな目が血走っていて、よだれが出ている犬じゃなくて……。そんな可愛くないバーデンに唸られても、どこ吹く風といった様子で、レナード殿下が焦点の合わない眼差しになる。この方は蜂蜜色の瞳で一体、どこを見つめているんだろう?
「……本当に、バーデンとシェリーは何もないのか? その、バーデンがシェリーのことを好きとか、」
「違います! ぜんっぜん違います!! バーデンはうーん……どういう風に思ってるんだろう? 私のこと。よく分からないんですけど、好きじゃないことは確かです。叔父さんが言ってました! 人外者は恋愛的な意味で相手のことを好きになったら、素直にそう言うって」
「ふぅん、そっか。シェリーにとってバーデンは何? どう思ってる?」
ぱちぱちと弾け出したベーコンの脂を見ながら、そんなことを言う。どうって、改めて考えたことがないからよく分からない……。首を傾げれば、小さくバーデンが笑った。
「んっ? んん~、味方じゃないことは確かで、敵に回ったって失望するようなことをしない。ある意味では、信頼の置ける日和見的な存在です」
「おい。褒めてるんだか、貶してるんだかよく分からねぇな?」
「だって、そうでしょう? バーデンはいつだって私のことを殺せるわけなんだし……。いざとなったら、バーデンは私のことを裏切ります。でも、汚くてずるい裏切り方はしません。だから、安心してくださいね!」
「悪いが、ちっとも安心出来ないなぁ。そうだ、目玉焼きは半熟派? 固焼き派? 明日の朝、作ってあげようと思ってて」
「半熟ーっ!」
「了解。じゃ、明日の朝ご飯に出してあげるよ」
殿下が笑いながらも、フライ返しでベーコンを引っくり返す。じゅわじゅわと、透明な脂が良い音を立てていた。ベーコンの焼ける匂いを胸いっぱいに吸い込めば、いつか見た、黒焦げ死体を思い出す。でも、その光景を頭から追い払った。
だめよ、私は今、人にベーコンを焼いて貰っているんだから! そんな気持ちになっちゃ! 固く両目をつむっていると、胃がきゅるるると、また切ない音を立てる。耳が熱くなった。……今の、聞かれてなきゃいいんだけど。でも、そんな淡い期待はあっさりと裏切られた。すぐ横でフライパンを見下ろしていた殿下が、顎に手を添え、呟く。
「よっぽど、腹が減ってるんだな……」
「ぬわっ!? い、言わないでください! 殿下! そういうことは!」
「どうして? 別に恥ずかしいことじゃないと思うけど?」
「じゃあ、殿下はものすごく好みな美女を前にして、格好つけたい時、きゅるるとお腹が鳴っても恥ずかしくないんですか? 恥ずかしくないのなら、私を批判しても大丈夫ですけど? 許して差しあげますけど!?」
「うーん、何となく気持ちが分かった。じゃあ、君にとっての俺は美女なのか」
「そうですね、美人さんですね。触れたくなるような」
「……どういう顔で言っているのかと思えば」
「ん?」
見てみると、すぐ近くにレナード殿下の顔があった。驚いて、息を吸い込む。蜂蜜色の瞳がじっと、食い入るように私のことを見つめていた。ばちばちと、火が爆ぜている。燃え盛る炎がよりいっそう、殿下の蜂蜜色の瞳をとろけるような色合いにしていた。責めるわけじゃない。でも、愛でるわけじゃない。
空虚というにはあまりにも熱っぽいし、興味津々というには熱量が足りない。例えるなら、この生き物はつついてみたら、どういう鳴き声を上げるんだろう? とでも言いたげな眼差し。思わず後退ってしまう。
「あ、あの、ベーコンは……?」
「触れたいと言っていたな? 子供を生みたいとも」
「す、すみませんでした。許してください……」
「なんだそれ? あーあ」
くすりと笑って、ベーコンに黒胡椒と塩をかける。心臓がばくんばくんと、うるさく鳴り響いていた。どうしよう? 子供を生むなんて無理かもしれない……。そのあとは何事もなく食べて、色んなことを喋った。でも、夕食後、部屋の前でレナード殿下に呼び止められる。
「ああ、そうだ。シェリー?」
「はい? どうかしましたか、レナード殿下」
「今夜、俺の部屋に来たくなったらいつでもおいで。じゃ、おやすみ」
「おやすみ、おやすみなさいませ……っ!!」
動揺する私を見て、にっこりと色めいた微笑みを浮かべる。私のこと、子供にしか見えないって言ったくせに! もう! そのせいでベッドに入ったのに、なかなか寝付けなかった。貰ったサシェをふんふんと嗅いで、溜め息を吐く。サシェは柔らかくて良い匂いがした。洗い立てのシーツからは、ラベンダーみたいな香りがする。牧草みたいな青臭い匂いもするけど、基本的に良い匂い……。でも、凍えそうなぐらい寒い。
この塔は真夏でも、この温度みたい。罪人を懲らしめるため、じっくりと骨の中まで染み渡るような寒さに設定されている。だからか、敷きパッドはふわふわ素材だった。足の裏が心地良い。私は寒いのが苦手だけど、寒いのが平気なバーデンは、年老いた黒い犬の姿になって、足元で丸まっている。
「ねえ、あれ、どういう意味だと思う? バーデン。おへその辺りがそわそわする……」
「お前のことをからかっているんだろうよ。まったく、女として見れないとか何とか言っていたくせに、忙しいやつだ。でも、まあ、嫌いじゃない」
「嘘ぉーっ!? あれだけ仲が悪そうだったのに!?」
「いいから寝ろ、おやすみ」
「はぁーい……。おやすみなさい」
からかっていたのかな。本当に? でも、私に興味があるようには見えない。でも、興味がないように見えるかと言われれば、違うかも。そうじゃなくて、もっとこう────……。
(あっ、そうだ。私を初めて見たばかりの叔父さんの顔と、ちょっとだけ似てるかも。あの好きや嫌いじゃ分けられない、ちょっぴり空虚で、私の反応をうかがっているような目……)