30.筋肉がすべてを解決してくれる!
レナード殿下が甘やかしてくれなくなった。不満! でも、この隙に筋トレが出来る。熱が下がって、体調が元通りになってきたし、落ちた筋肉を復活させたい。黒いTシャツと短パンに着替え、高そうな絨毯の上でプランクしていると、バーデンがわざとらしい溜め息を吐いた。
今日はいつもの長くて鬱陶しい黒のローブじゃなくて、白いシャツに黒いズボンを着ている。優雅に肘掛け椅子に座りながら、本を読んでいた。
「お前は一体どうしてそうなるんだ? 寂しいと言っていたじゃないか」
「話しかけないで! 三十二、三十三、三十四……」
「王子様が見たら嘆くだろうなぁ。来なくなった途端、筋トレを始めるとは」
「だって、護衛だもん! っふ、うう、い、今までが間違ってたの! 四十一、四十二、四十三」
「あとで王子様に言ってやろうか。さぞかし嘆くぞ」
「好きにしたら!? 話しかけないでって言ったでしょ!」
「はいはい。気難しいお嬢様だ……」
頬杖を突きながらもう一度、わざとらしい溜め息を吐いた。あんなところに座りながら、筋トレしている私を見て楽しいのかしら。バーデンの好きにしたらいいけど、変わってる趣味としか言いようがない。
一分、ううん、二分ほどプランクしたら、腹筋五十回、背筋五十回、城の周りを走ったあとに腕立て伏せ五十回したい。筋力が落ちてるから、軽めに済ませた方がいいかも。今までレナード殿下が急に入ってきたり、筋トレしている最中、脇をくすぐってくるから出来なかったけど、会いにこないから出来る。
ふんだ! 私はレナード殿下と一緒に犠牲にはならないから。いつか絶対、この塔から抜け出してみせる。あ、お城だった。このお城から抜け出してみせる。壮麗だけど、憂鬱な空気が漂っているこのお城が好きになれないの。まるでレナード殿下みたい。
微笑んではいるけど、目の奥が笑ってない。憂鬱そうな蜂蜜色の瞳がぱっと、私を見た瞬間、笑うのを見ているのが好きだったのに。腹筋と腕が痛くなってきた。予想以上に筋力が落ちている。息が苦しくなってきて、額に汗が滲み出す。もう忘れた。今、何秒だっけ? 数えられない。
(……私のこと、好きじゃないなんて。あんなこともこんなこともして、優しくするくせに)
好きだって言って欲しかったのに、強く言ってくれなかった。困った顔をしていた、好きじゃないんでしょって言った時に。それが答えだから、もう期待しない。でも、死んで欲しくないから、家畜のように飼われて生きていって欲しくないから、全力で守り抜く。
血を欲しがる人も、綺麗なレナード殿下にたかるハエのような女達も、油断ならない一等級国家魔術師も全員、力でねじ伏せてみる。
体に限界がきた。体勢を維持出来なくなって、床にべしゃっと崩れ落ちたら、バーデンが近寄ってきた。床に寝そべったまま動かない私のすぐそばで膝を突き、頭を撫でてくる。変なの、助け起こさないんだ……。起き上がる気力がない。自分の体力のなさに絶望しちゃう。
「おい、どうした? いつまでそうしているつもりなんだ」
「ここは黙って助け起こすべきよ、バーデン。そう教わらなかったの?」
「……自分で起き上がると思っていた。起こして欲しいのなら、早く言え。まったく」
私の腕を掴み、助け起こしてくれた。水分補給して少し休んだら、腹筋五十回しなくちゃ。差し出された水を一気飲みして、汗を拭いたあと、嫌がるバーデンを説得し、足を固定して貰う。黒い瞳が虚ろになっていた。
「じゃあ、話しかけないでね? これが終わったら、次は背筋するから最後まで手伝って」
「……本当に王子様のことはどうでもいいんだな?」
「どうしてバーデンがショックを受けているのよ。そんな顔をしてもいいのはレナード殿下だけでしょ? 違う?」
「俺の罪悪感を返せ!」
「意味分かんない。数えておいてね」
「数えさせる気か!」
「うん、よろしく」
ものすっごーく嫌そうな顔をしながらも、数をちゃんと数えてくれた。黙々と腹筋五十回こなしたあと、両腕を広げ、床に寝そべる。お腹が、お腹がとてつもなく痛い……!! 私、ここまで筋肉が落ちているだなんて。前まではぜんぜん平気だったのに。おでこに腕を乗せ、溜め息を吐いたら、バーデンが覗き込んできた。さらりと黒髪が流れ落ちる。
「少しは休憩したらどうだ?」
「……ものすごくショックを受けてる最中なの、今。最低最悪な気分」
「寝込んでいたからな。当然だろう」
「ねえ、魔術で筋肉ってつけられないの?」
「妙なデザインになるかもしれないが、それでも良ければ」
「ううん、やめておく。割れてる腹筋以外、欲しくないもーん」
「上手く動かせないのが大抵だからな、魔術で作ったとしても。自分のものが一番だ」
「そうよね……。頑張って自家製の筋肉をつける」
どれくらい、強くなったらレナード殿下を守れる? できたら、さっさとジュードなんて追い出しちゃって、私一人だけでレナード殿下を守りたい。急に心臓が飛び跳ねた。ざわざわする、何これ。起き上がって胸元を押さえたら、バーデンが心配そうな表情を見せ、「大丈夫か?」と言ってくれた。
「これ……。大丈夫、レナード殿下の感情だから。ドキドキするようなことがあったんだ」
「へー。じゃあ、陰でこっそり女と逢引きしているのかもなぁ」
「ううん、違う。そういう感じじゃなくて……ああ、もう! いいの、別にどうだって。うるさいカイがそばについているんだし。サムさんだっているんだし、私がそばにいなくてもいいの」
「ふぅん。強がりにしか聞こえないが?」
「耐え切れなくなったら、夜、ベッドに潜り込んで抱きつく予定」
「そうか……。猫みたいだな、お前は」
頭を撫でようとする手を振り払ったら、むっとした表情で引き下がる。どうして私に悲しんで欲しいの? バーデンは。乾いた口の中を湿らせる程度の水を含んでから、背筋五十回して、ストレッチを丹念にしておく。体が柔らかくないと怪我しやすいから、ちゃんとやらないといけないのに、最近出来ていなかった……。
「私ってすごく甘やかされていたんだ。ねえ、これが本来の生活なのよ。合っていると思う」
「楽しくなかったのか? 着飾って、優雅に甘い茶を飲む生活は」
「……楽しかったけど。ほっとしたけど、あの生活はだめだと思う。筋肉が落ちてるし、体が硬くなってきてる」
「それでこそお前だ。護衛に戻った方がいいぞ」
「何よ! さっきはレナード殿下の肩を持っていたくせに。尻尾を振る子犬ちゃんよね、バーデンって。飼い主であるレナード殿下のことが大好きなんでしょ!」
「うるさいな、黙れ」
「痛い痛い!」
まだ床にぺったり体を密着させられないのに、強く背中を押してきた。股関節が裂けちゃいそう。もしも私の股関節が虫食いだらけの、腐食が進んでいる木の板だったら、絶対に折れていた。もー、雑なんだから! 私が息を止めて耐えていたら、手の力を緩めた。慎重に体を起こしてから、足を折りたたむ。まだ開脚ストレッチは早かったかも。
「すごく弱くなってるわ、絶対。あとで私と手合わせしてね」
「……いいぞ。途中で血相を変えた王子様がやって来そうだな」
「もう一度ぶん殴るからいい」
「待て、殴ったのか……?」
「ちゃんと手加減したから大丈夫よ」
「そういう問題じゃないだろう」
「いいから、早くお水ちょうだい!」
「……分かった、持ってくる」
とてつもなく苦々しい表情を浮かべたあと、ベッド脇のサイドテーブルに置いてあった水差しを持ち上げ、透明なグラスに水を注ぎ淹れる。所作が綺麗ね。私もお菓子を食べる時、気を付けた方がいいかも。レナード殿下に憧れるご令嬢をとことん叩き潰さなくちゃ……。膝を抱え、腕におでこを押し付けていたら、呆れた声で話しかけてきた。
「おい、さっさと飲め。持ってきてやったぞ」
「ありがとう……。バーデンって綺麗な男の人よね。黙っていて尻尾を振らなかったら」
「……」
「何よ、その顔は! 言いたいことがあるのならちゃんと言ってよ」
「悪い。綺麗だって? 俺が? お前は今まで一度も、この外見についてとやかく言ったことないのに!?」
「そうだっけ? 褒めたことなかった?」
「ああ。俺の外見なんて興味なかっただろ? 今まで」
急に腕を掴んで、無理やり私を床から立ち上がらせる。文句を言おうと思っていたのに、あまりにも真剣な表情を浮かべていたから、言えなくなっちゃった。レナード殿下の考えていることは分かるんだけど、他の人の考えはよく分からない。数秒間、私をじっと真っ黒な瞳で眺めたのち、ふいに手元のグラスへ目を移し、水を一気に飲んだ。
「あーっ!? 私のお水! お水!! ひどい、私の言うこと何でも聞いてやるって言ったくせに、お水すらくれないなんて……んっ」
いきなりキスされた。思考が止まる。どうして? なんで今、キスする必要があるの。すぐに答えが分かった。舌を通じて、まだかろうじて冷たい水が口の中へ流れ込んでくる。口移しで飲ませる必要ってないでしょ、どうかしてる。シャツの襟を握り締めたら、片手を腰に回してきた。飲み損なった水で口元が濡れた。
「……口移しで飲ませる必要ってあるの? 教えて」
「お前が綺麗だと言うからだろ、俺のことを。試してみたくもなるさ」
「へえ、そうなの。それで、何か分かった?」
「いいや? もう一度、普通にキスをしてみれば分かるかもしれないな」
「所作が綺麗って思っただけなの。私も今から練習すれば、あんな風になれる?」
「なれるさ、きっと。自信を持て。お前は誰よりも美しい」
バーデンの方こそ、今まで私の外見についてとやかく言ったことないのに。褒めてもらったことってあるっけ? 忘れた。片手に持っていたグラスを掻き消して、背中をかがめ、私の腰へと手を回す。至近距離で見つめる真っ黒の瞳は美しくて、ほんのちょっぴりだけ、世界が揺らいだような気がした。
バーデンを綺麗な男の人だって思ったことはないのに。小さい時から一緒にいるのに。目を閉じれば、すぐに軽いキスをされた。離れて、ほんの少しだけ見つめ合って、もう一度キスしようとした瞬間、扉が開いた。
「お待たせ、シェリーちゃん! 今日、レナード様は体調が優れないからって、ああ、俺はなんて最悪なタイミングで開けてしまったんだ……?」
「……」
「お昼ご飯? 持ってきてくれてありがとう」
「どういたしまして。あ~、速やかに食事を置いて立ち去るべき? 俺にもキスしてくれる?」
「しない。走る前に食べたくないから、テーブルの上に置いて」
「走る? 急に話題が変わったね。なんで?」
「筋トレしたあと、走ろうと思って。レナード殿下がいない間に、落ちた筋力を取り戻すの」
「あぁ~……」
エナンドがうめき声なのか、相槌なのかよく分かんない声をあげつつ、部屋の中に入ってきた。不満そうな顔でトレイをテーブルの上へ置いたあと、腰に手をあてる。どうして怒ってるの? 怒っているだけじゃなくて、言葉を飲み込んでいるようにも見える。
「あのさ、シェリーちゃん。そういうことはしない方がいいよ」
「そういうことって? 着飾られるだけのお人形でいろってこと?」
「違うよ! さっき、バーデンとキスしてただろ? うーん、俺が言っちゃいけないのは分かってるんだけどさ……。遊びまくってるから。というか、シェリーちゃんとキスしたことあるし」
「そうね。何が言いたいの? 何を言われても心に響かないけど」
「だよね!! でも、レナード様は本気でシェリーちゃんのことが好きだから。前の婚約者といる時も、おっと、しまった」
「大丈夫よ。レナード殿下の元婚約者、名前と性格、好きな食べ物と嫌いな食べ物を把握してるから」
「いつの間に!?」
文通相手が優しくて、何でも教えてくれるから助かる。レナード殿下の近況、それと、嫌な相手がいたら証拠を残さずに、殺してあげるって伝えているから教えてくれるんだろうけど。……そろそろ会いに行きたい。落ち着いたら、元婚約者に引き合わせて貰おうかなぁ。顔色が悪くなったエナンドが戸惑いつつ、首を傾げる。
「でも、大丈夫って? あと、なんで把握しているのか教えて!?」
「嫌よ、企業秘密だから。元婚約者の情報収集してるから、聞いても嫌な気持ちにならないの。好きな食べ物と嫌いな食べ物を知っているのに、元婚約者って聞いただけでムカムカしないから」
「あ~、なるほどね。そういうことか、うん。レナード様は王子として、元婚約者と接していた。でも、今は一人の人間としてシェリーちゃんと接しているような気がするよ。この違い、分かる?」
「……私は特別な存在だってこと?」
「まあ、そうだね。だから火遊びはほどほどにね~。俺だって人のこと言えないけど」
「侍女さんに恨まれないようにね」
「大丈夫! 後腐れなさそうな子を選んで、遊んでいるから。じゃあね」
そそくさと部屋から出て行った。扉が音を立てて閉まり、沈黙が訪れる。古ぼけたレースカーテンを通してもなお、強い陽射しが部屋の中を照らしていた。曇っていたけど、晴れてきたみたい。暑くなってきそう、じわじわと。
「……バーデンが不機嫌そうな顔をしているから、どっかに行っちゃったじゃない。ご飯の説明、聞こうと思っていたのに」
「お望みなら、俺が厨房に行って聞いてやろうか?」
「いらない。人外者って性欲がないんでしょ? どうしてさっき、あんなことをしたの?」
「嗜好品みたいなもんだ。お前を抱けるのなら、抱いてみたいと思ってな」
「嫌よ。走りに行こう」
「言うと思った。背中に乗せてやろうか?」
「楽しいけど、足の筋肉がつかないでしょ。終わってから、バーデンの背中に飛び乗って遊ぶ!」
「まだまだガキンチョだな」
うるさい~……。大人の女性扱いされたいわけじゃないけど、子ども扱いされるのは嫌。苛立ちながらも部屋を出て、城の外へ向かう。強烈な陽射しがのどかな芝生を照らしていた。ここ、何もない芝生があって便利。奥にはよく手入れされた薔薇の生垣と木々、噴水と小道がある。
庭師や仕事中の侍女らしき人達から不思議そうな顔でじろじろ見られたけど、無視して、アキレス腱を伸ばす。急に走ったら、足がつりそう。丹念に準備運動をする私を見つめ、バーデンがうんざりした顔になっていた。
「これでいいのか? なぁ。いっそのこと、俺と関係を持って王子様を焦らせようぜ」
「嫌よ。子どもが出来た時、バーデンの子って言われちゃいそう」
「……王子妃になる気か?」
「ううん。子どもを生んで、レナード殿下の元から立ち去るつもり。前にも言ったでしょ?」
「じゃあ、どうして他の女を牽制する? 妾扱いでいいのか?」
「聞きたくない、その話!!」
邪魔な女が群がってきても、殺せないのってすごく不便。だから、お金持ちの奥様達って私に依頼してきたんだ。ふいにごろんって、夜、床の上に転がった女の首を思い出す。初めて人を殺したのは、真っ暗な新月の夜。寒くて、街に人通りがなかった。
胸元を露出した赤いドレス────私はまだ子どもだったから、それがドレスに見えたけど、実際はペラペラのワンピースだった────を着た女性のあとをつけて、ボロいアパートに住んでいるのを突き止めてから、窓ガラスを割って侵入した。これが初めての仕事だった。
(奥様の役に立てるよね? 喜んでくれるよね? 褒めてもらえるかな……)
床の上に散らばったガラス片が、路上からの光を反射させ、キラキラ輝いていて綺麗だった。待ってて、奥様。泣いちゃうほどつらいんでしょ? いっぱい、いっぱい練習したから、きっと上手くやれるはず。
窓ガラスを無音で壊せる黒い棒を握り締めたあと、リュックサックの外側ポケットへ差し込み、ナイフを持つ。静かにその時を待った。意外なほど早く、その時はやって来た。リビングのドアノブが音を立てた瞬間、滑るように近付き、黒い物体に見える女性の首を切り裂いた。同時に音が漏れない魔術をかける。
「っあ、ああああううぅ!! ああっ!? はっ、あ」
「……忘れちゃってた! 大丈夫かな? 人こない?」
「あ、な、なんで、どうし……」
「お姉さん、ごめんね、静かにしてね。お姉さんがだめなんだよ、叔父さんを奪おうとするから」
奥様が泣いてすがって、耐えられないと口にしていた。あの人を奪われてしまうかもしれない、分かっているのに、そんなこと言う権利はないって。私の肩を掴みながら、涙に濡れた茶色い瞳で見上げてきた。
『ねえ、シェリーちゃん? 殺してくれない? お願いよ、お願い。どう生きていけばいいの? いまさらもう、気が付いたって遅いのに……』
『うん! 任せて、大丈夫。大丈夫だからね、安心してね。シェリーがちゃんと殺してくるよ』
ユーインの足を治す目標に一歩近付いた。十五になったら手伝わせてやるって言われたけど、待ちきれない。早くお金が欲しい、お金が。ユーインの足を取り戻したら、お母さんも喜んでくれる。また一緒に遊べる。首を切りつけられた女性が崩れ落ち、一瞬、何も理解できない様子で私のことを見上げてきた。でも、すぐに突っ伏して、動かなくなる。血が床の上に広がっていった。
「ああ、これで終わりなの? なんだ、簡単じゃん。どうして叔父さんは私に手伝わせてくれないのかな……」
魔術を使えば、魔術師の犯行だって警察は思い込む。風の刃でスパッと首を切断してから、血が出てこないようにするため、切断面を焼いた。ビニール袋で首を包み、リュックサックの中へ入れる。これでよし! 奥様、喜んでくれるといいなぁ。
(胴体はいらないや。使えなさそう)
首だけあれば、殺した証拠になるよね? だって、顔がついてるし。顔があれば憎い相手だから、分かるよね。瞬間移動できるけど、魔力消費量が多くなっちゃうから、背が高い男性に見える幻覚術をまとって、ドアから出る。うん、誰もいない。
いてもいいけど、緊張しちゃうからいなくてよかった……。あの日の夜、私は初めて生首を持ち帰った。奥様じゃなくて、叔父さんが喜んでたのは今でもよく分からない。
「叔父さんのせいで泣いてた! ほら、奥様から依頼を受けて殺したんだよ! シェリーだってちゃんと殺せるからお仕事、」
「……何だって? あいつが依頼を?」
「そう。叔父さんのことを奪われるのが悲しいから、殺してって泣いて頼んできたの。だから、寒かったけど、ちゃんと……」
「証拠隠滅は? 生半可な仕事じゃないだろうな」
「うん、大丈夫。魔術使ってきたし、目撃されなかったよ」
「でかした。そうか、あいつが嫉妬したのか……」
叔父さんの口元が喜びで歪んだ。初めて笑っているところを見たかもしれない。初めて尽くしの夜だった。私の頭をぐしゃぐしゃっと撫でて、それまで聞いたことがない、優しく甘い声で「イリス?」と奥様の名前を呼び、部屋の中へ入っていった。すぐに、奥様の動揺している声が聞こえてきた。残ったのは、廊下に転がった生首と私だけ。あまりの寒さに、指が震えていた。
「好きならどうして、奥様以外の女性と仲良くしたの……?」
叔父さんは奥様のこと、好きじゃなかったのに。過去を思い出しながら、城の周りを走る。不思議だったことを思い出せば、苦しさがまぎれるような気がした。体が熱い、もう限界。陽射しが容赦なく降り注いできて、私の肌を痛めつける。芝生へ寝転がったら、呆れた表情のバーデンが覗き込んできた。
「もうっ、もう限界~……!! なんで!? 前は平気だったのに、どうして、なんで!」
「体力が落ちてるんだよ。日射病になるぞ、大丈夫か?」
「っは、はぁ、うん、だい、大丈夫……。ねえ、いまさらだけど、奥様が謝ってきた理由が分かったよ。あんなこと、小さい子どもに頼んじゃいけなかった」
十歳かそこらの子どもに、人殺しは頼んじゃだめ。私なら絶対に頼まないなぁ。精神的に追い詰められていたのかも。奥様は叔父さんのどこがいいのか、まったく、ぜんっぜん分かんないけど、好きだったんだ。私もレナード殿下のことが好きだから分かる。
(世界が真っ暗になっちゃうよね? 自分の、存在意義が足元から崩れていくような感覚……)
芝生の上で寝返りを打ち、まぶたを閉じる。頭上の木々が眩しい陽射しを遮り、涼しい木陰を提供してくれた。風が気持ちいい。汗のおかげで風が吹くたび、肌の熱を冷ましてくれる。バーデンが私の頬に、ペットボトルの底を押し付けてきた。
「いまさらだな、本当に」
「うん、本当に」
「禁術ってのは人の価値観も変えるのか。妙だな」
「レナード殿下の価値観と私の価値観が融合する感じ? これはレナード殿下の考えだなって分かる」
「だから、禁術なんだろうよ。モリス……余計なことをしてくれたとしか言いようがない」
「理解者を作りたかったんだって、レナード殿下の。あと、絶対に裏切らない味方!」
遺書に私が護衛であり、味方であり、唯一の理解者であり、恋人にもなってくれたらと書いてあった。なれる? そんな存在に。なりたいと思う? 受け取ったペットボトルの水を半分ほど飲み干してから、バーデンに突き返す。
苦虫を噛み潰したような表情で受け取ってくれた。私の小間使いのような動きをする時、いつも苦々しい表情を浮かべる。風がさっきよりも強く吹いて、汗に濡れた首筋を冷やしてゆく。
「……分かんないけど、体力をつける! 体力と筋力を取り戻して、強くなったらいいんでしょ?」
「何の話だ?」
「分からなくてもいいの、もう一回走ってくる!」
「これが禁術の限界か……」
「バカにしてるでしょ? わざと毛玉を作って、眠っている隙にブラシで解きほぐしちゃおうかな~」
「やめろ! 痛いんだ。走るのほどほどにしろよ、ぶっ倒れるぞ」
「平気、平気ー!」
バーデンの忠告を無視した結果、倒れちゃった。あれだけ私と喋りたくなさそうな雰囲気を醸し出していたくせに、倒れたとバーデンから聞いて、レナード殿下が慌ててやってきた。真っ赤な顔で寝そべっている私を心配そうな表情で見つめ、椅子を引いて腰かけたあと、手を握り締める。
「……シェリー、大丈夫か?」
「はい。でも、早く、レナード殿下のために筋肉を取り戻しますね!」
「何の話だ?」
「私は犠牲になってくれる恋人じゃなくて、筋肉ムキムキの、世界最強の護衛になってみせます! その方がいいでしょ、頼もしくて」
レナード殿下が口元に曖昧な微笑みを浮かべたあと、牛乳に虫が入るのを見てしまったような表情になり、優しく手を握り直した。それから、いつにも増して憂鬱そうな雰囲気を撒き散らしつつ、静かに出て行っちゃった。私の宣言はお気に召さなかったみたい?




