5.綺麗な薔薇園とレナード殿下の憂鬱
手を引かれて向かったのは、薔薇園の入り口。黒いアーチ状の門に茨が絡みついていた。その茨には夕暮れ時の陽射しに照らされ、ほのかに煌く、宝石のような赤黒い薔薇が咲き誇っている。
「ねえ、レナード殿下。これは……」
「ちょっと変わっていて、普通の薔薇と植物鉱石の薔薇をかけあわせたものなんだ。花だけ宝石になってる」
「そうなんですね……。わあ、小道になってる。可愛い」
薄暗い奥まで、赤茶色レンガの小道がまっすぐ伸びていた。両脇には瑞々しい葉が生い茂り、一重咲きの可憐な白い薔薇が咲き誇っている。甘い芳香がぷうんと漂う。ああ、なんだろう? 頭がくらくらしてきた。現実か、夢か、それとも幻覚なのか。夕暮れ時の曖昧さがそうさせるのか、それとも、人がようやく通れる程度の小道がまっすぐ続いていて、奥が何となく見えないからか、今ここが現実だという気がしない。レナード殿下が嬉しそうに笑い、私の手を握り締めた。心臓がぎゅっとなる。
「この小道をまっすぐ行ったら、ガゼボに辿り着くから。そこで、俺は客人にお茶を提供している」
「お茶を?」
「そう。血を一滴、お茶に垂らすんだ。酒に混ぜるより、お茶に混ぜた方が効きそうだろう?」
そうかな? でも、そうかもしれない。お酒好きは、喉がお酒で潤った方が治りそうだとか言いそうだけど……。特に叔父さんはそういうこと言いそう。でも、言わないようにした。ううん、言えなかっただけかもしれない。見上げてみれば、殿下が無邪気に笑ってる。昼間とは大違い。戸惑っている私の手を引いて、小道に足を一歩踏み入れた。薔薇の甘い芳香が漂う。小道は狭くて、肩に薔薇の枝葉が当たった。
「ねえ、レナード殿下。どうして私に優しくしてくれるんですか?」
「悪い、さっきは冷たくして。モリスから色々と聞いてね……」
「殿下にとって私って、そんなに可哀相な子なんですかね?」
「そういうことじゃないよ、シェリー。それに」
「それに?」
「シェリーを近くに置いておいたら、女性避けになるかなと思って」
「女性避け……」
「父上と王妃様の諦めが悪いんだ。俺は絶対に子供なんか作らないって言ってるのに」
どことなく乾いた笑みを浮かべながら、歩き続ける。私の歩調に合わせて歩いていた。試しに少しだけ遅く歩いてみると、それに合わせて速度を落とす。……胸の中に、よく分からないもやもやが広がっていった。心なしか、繫がれた手が汗ばむ。そこまで気温は高くないのに。むしろ、ちょっとだけ肌寒いのにな。
「だから、追い払って貰おうかと思って。モリスはさっきああ言ってたけど、王妃様と会ったことはないんだろ?」
「あっ、はい。モリスさん、どうして煽るようなことを言ったんでしょう? 余計なこと、言わなきゃいいのに……」
「ははっ、それをシェリーに言われたらおしまいだな!」
「……私の何をご存知なんですか? 殿下は」
むっとして立ち止まれば、苦笑する。でも、嬉しそうだった。ぼんやりと薄暗い薔薇園で見る殿下は、昔の絵画に出てくる王子様のよう。蜂蜜色の瞳が優しくとろけて、それに見惚れていたら、もう片方の手を握り締めてきた。両手を握り締められている。
「ごめん、気を悪くした? シェリー」
「いいえ……。でも、どうして私の両手を握っているんですか? 別に逃げたりしませんけど?」
「分からないよ、逃げ出すかもしれない。ほら、こっちこっち。絶対気に入ると思う!」
「あっ……」
落ち着かないから手を離して貰おうと思ったのに、言えなかった。殿下がご機嫌で歩いていく。変なの……。考えるのが面倒臭くなったから、やめた。薔薇の香りで頭がくらくらするし。
小道を出ると、噴水が現われた。古い観光名所にありそうな噴水で、三つほどあるお皿っぽいものから、水が放射線状を描き、ざあざあと流れ落ちていた。地面にはベージュ色のタイルが敷かれている。静かだ。水の音と殿下の息遣いしか聞こえてこない。くすんだ赤い色の薔薇達が、日が沈むのを憂いているように見えた。
「ほら、綺麗だろ? くすんだ白い壁に映えるように、赤い薔薇を植えて貰ったんだ」
「はい……。でも、病人にここを延々と歩かせるんですか?」
もう少し狭くしたらいいのに。それか、室内でやればいいのに。塔の中は狭くて、部屋がないのかな? 不思議に思っていると、薔薇を指差していた殿下が急に、ぱたりと腕を下ろした。見てみると、虚ろな表情を浮かべていた。
「俺もバカバカしいからやめてくれ、抽選、いや、貴族からの紹介じゃないとここに来れないだなんてバカげている、病院に薬を届けてくれと言ったんだが、一向に聞き入れて貰えなくて……。おかしいよなぁ、俺の血が混じった薬はもう売られているのに。だったらもう、」
「えっ!? 売られているんですか!?」
「ああ、血をものすごく薄くしたものをね。知らない?」
「知りません……。でも、王室が販売してる風邪薬なら知ってます」
「それだよ! 色々と売られているが、中身はほぼ全部一緒だ。だから俺は、病院向けにもっと血を濃く入れた薬を販売して欲しいと言っているんだが、聞いて貰えなくて! こんな、こんなところにごく一部の特権階級を招いて、飲ませている場合じゃないのに……」
レナード殿下なりに葛藤しているらしく、私の手を強く握り締めた。でも、痛くない。痛みには慣れてるから。大人しく黙ってタイルの上を歩いていれば、ふいに足を止めた。
「どう思う? シェリー。この血を絶やすべきだとは思わないか? 本当に必要としている人々の下へは届かない。怪しまれるからだ。一瞬で治ってしまう……」
「でも、私だってユーインが病気で苦しんでいたら、血が欲しいなと思っちゃいます。可能性がある」
「可能性ねえ」
「はい。治るかもしれない。それってすごく大きいことですよ、殿下。あなたのお役目は、色んな人に治る可能性を与え続けることじゃないでしょうか? 今は違っても将来、どうなるのかよく分からない。本当に必要としている人の下へ、血が届くかもしれない。拗ねて、諦めちゃったらだめですよ。本当に病気の人を助けたいと思っているのなら」
別に誰かを助けたいと思っているわけじゃないのなら、それでいいんだけど……。私が真剣に見上げていたら、笑った。どこか投げやりな笑い方だった。私の前に立って、両手を伸ばしてくる。殺さなくちゃ。ううん、だめ。殿下はターゲットじゃない、守るべき御方だから。
必死に耐えていると、私の頬に両手を添えてきた。びくっと、肩が揺れ動く。あ、だめだ。怖い。自分の知らない感情で頭がぐちゃぐちゃになりそうで怖い。見上げてみると、蜂蜜色の瞳をゆっくりと細めていった。鼓動が速くなる。
「……ありがとう、シェリー。キスしても?」
「おで、おでこになら? あと、指先も大丈夫です……」
「そうか、分かった」
ふっと、母親が子供のおでこにキスするみたいに、私のおでこにキスしてきた。汗が滲み出る。怖い、どうしよう。今までにない感情が荒れ狂っていて、それがおそろしい。真っ赤になって黙り込んでいると、殿下がまた笑った。蜂蜜色の瞳は虚ろで、ちっとも楽しそうじゃない。私の黒髪を梳かして、掬い上げる。
「どうした? シェリー。俺の子供を生むと豪語していたくせに」
「いっ、言ってません! そんなこと……」
「そうだったか? じゃあ、行こうか」
「っあの、待ってください!!」
「ん?」
この感情の正体を突き止めたい。心臓がばくばくと荒れ狂ってる。トレンチコートの端を掴んでいれば、殿下が不思議そうな顔で振り返った。
「私、私、不思議な感情があって……。ドキドキしてしまうというか、でも、怖いとか嫌じゃないんです。ましてや、殿下のことが好きというわけでもないんです」
「あっ、うん」
「じゃあ、何でしょう? 殿下の綺麗な首筋を見ていると、ナイフを持ちたくなってしまうんです」
「……ナイフを?」
すぐに私の手から手を放して、青ざめ、首筋を手で押さえた。青ざめているけど、美しい。お肌が石膏みたい。警戒しながら私を見下ろしてくる蜂蜜色の瞳が、夕暮れ時の光を映していた。
「ああ、きれい……」
「シェリー? どうしたんだ? まさか、俺を殺す気か?」
「いいえ、あなたのために死にたいと思っている。それなのに、殺してみたいとも思っているんです。どうしてでしょう?」
「いや、それを俺に聞かれてもなぁ!」
警戒している猫のように、じりじりと後退った。ああ、でも、追い詰めたくなる。この人を苦しめながら殺したら、一体どんな気持ちになるんだろう? 首を絞め上げる私の手を、掻きむしって苦しむ殿下はきっと美しい。不思議だ、頬が熱い。目の前がくらくらするし、心臓だって速く脈打っている。殿下が怯えていた。手を伸ばして頬に触れたら、びくりと体を揺らす。夕暮れ時の薔薇園は静かで、他には誰もいない。殿下と私は二人きり。
「シェ、シェリー? ごめん、悪かった。本当は怒ってる……?」
「いいえ、ごめんなさい。制御しなきゃ。でも、よく分からないんです。私、殺してみたいと思ったことないのに」
体が熱い。胸が苦しい、よく分からない。こんな感情初めて。私が胸元を押さえていると、殿下が背中を優しく擦ってくれた。私は襲いかけたのに、今。
「シェリー、大丈夫か? 戻るか? 薔薇を見て欲しかったけど……」
「行きましょう、大丈夫です」
「本当に?」
「ええ、本当にです。整えます」
そうだ、整えよう。自分を消し去ろう。一度両目を閉じて、深く息を吐き出す。これ以上、息が吐き出せないというところまで。一、二、三と数えてから、目を開ける。もう大丈夫。呼吸も脈拍も安定している。
「……ごめんなさい、大丈夫です。でも、どうして殿下のことが殺したくなっちゃうんだろう?」
「んん、分からないな……。まあ、でも、シェリーなら許せるかな?」
「許せる?」
「見ず知らずのやつに殺されるよりかはましってこと。出来れば、苦しめずに殺して欲しい」
虚ろな表情で私をまっすぐ見つめ、言い放った。息を呑み込んでいると、私の手を持ち上げ、指先にキスする。乾いていた、くちびるが。じっとキスされた指先を見つめていれば、笑う。
「さあ、行こうか。日が暮れてしまう前に」
「あっ、はい……」
もう何も喋らなかった。公園のような空間の出口にある、柔らかいピンク色の薔薇で飾り立てられたアーチをくぐると、もう一度同じアーチが現われた。連なってる! どこを見ても、繊細なピンク色の薔薇が咲き誇っていて、胸がときめいた。香りがすごい、甘い! 地面には虹色に艶めく、貝製のタイルが敷き詰められている。
「わぁ、可愛い! 綺麗ですね」
「喜ぶと思ったんだ。綺麗だろう? トンネルになっているんだ、ここは」
「へ~、次は? 何がありますか!?」
「ここを抜けていくと、ようやくガゼボがある」
私の手を握り締めたまま、嬉しそうに笑う。さっきまで青ざめていた人と、同一人物には見えない。……変なの。私、殺そうとしていたのに。夕暮れ時の魔力がそうさせるのか、殿下だけがセピア色をまとっているからなのか、不思議な空気感。まるで、時が止まっているかのよう。ふわふわとした気持ちで、薔薇のトンネルをくぐり抜けると、待ち受けていたのは青色のタイルだった。一面、綺麗な青色のタイル!
「ふぁ、わ~……意外と綺麗でした! すごい、ガゼボが大きい!」
「一体、どんなのを想像してたんだ? シェリー」
「もうちょっとしょぼいやつ!」
「そっか、行こう」
「はいっ!」
地面に澄んだ青色のタイルが敷き詰められ、ほのかに明るい夕陽を反射していた。その上に、ガゼボが建てられている。筋が入った白い支柱がいくつも並び、その支柱には、青と白の薔薇が絡まって咲き誇っていた。タイルと同じ、青色の屋根の下は広く、南国のリゾート地にありそうなテーブルとソファー、椅子が並べられていた。どっちがお客様用かは一目瞭然で、座ってみたくなる。
「おっ、お客様専用ソファーに座ってみても……!?」
「どうぞどうぞ。楽しいみたいで良かった」
「はい! ここが私の職場になるんですね?」
「そうだね。お茶を淹れている間、ぼーっと立っていればいいよ。話は俺がするから」
「はい! ここでお昼寝したい気分です……」
白いクッションが置いてある、二人掛けのソファーへ腹ばいになって、足をぷらぷらさせていると、苦笑した。カーキ色のポケットに両手を突っ込み、すぐ傍に立つ。
「それはちょっと。カイとエナンドを紹介したいし」
「私……嫌な予感がします! 気が合わなさそう」
「ん? うーん、案外そうでもないかもしれないよ。ほら、二人は気さくなタイプじゃないけど……」
「……」
「とりあえず行こうか、シェリー。立ち上がって?」
「はい……」
私の嫌な予感は的中した。とぼとぼと、飼い主に引かれて歩く牛みたいに歩いていると、二人が塔の中から出てきた。建てつけが悪いのか、不気味なギイギイという音が鳴り響いて、木製扉が開いたあと、二人が現われる。黒い!
一人はみすぼらしい黒い布で、顔をすっぽり覆っていた。鋭く、濁った灰色の瞳がぎょろりと動く。肌はちょっとだけ灰色がかった褐色。血のように真っ赤なターバンで、ぐるぐると黒髪頭を巻き、さらに黒いスヌードで首元を隠していた。それから黒いTシャツとベージュ色のズボンを身につけ、灰色マントを羽織っている。マントはチーズみたいに穴だらけだった。
もうその人にしか目がいかない。でも、しぶしぶともう一人を見てみれば、柔らかな苦笑を浮かべていた。その人は赤髪とグリーンの瞳を持っていて、柔和な顔立ちをしている。横の黒づくめの人とは違って、ベージュ色のシャツにデニムといった、ごくごく普通の格好をしていた。警戒心をあらわにする私を気にも留めずに、殿下が気さくに手を上げ、「やあ、二人とも! お疲れ」と声をかける。
「紹介するよ、シェリー。こっちの黒いのがカイで、二十二歳。君の三個上かな? で、そっちの優しそうな男がエナンド。二十三歳だよ。でも、騙されないように気をつけて」
「騙されないように……?」
「レナード様! 初対面でそんなことを言ったら、警戒されるじゃないですか」
「いやいや、言っておかないとね。かなりの女好きなんだ。いいやつなんだけど、その辺りは見境が無くて」
「なるほど」
「昔はこうじゃなかったんだけどなぁ……」
「別に遊んでいるというわけじゃ、」
「それで? こいつ、本当に護衛として雇ったんですか?」
カイが節くれだった指で、私のことを指し示した。爪が黒かった。昔読んだ本の文章がふいに頭をよぎる。すべての文章を思い出す前に、気まずそうな顔をして、カイがズボンのポケットに両手を突っ込んだ。
「弱っちそうですが、大丈夫ですか?」
「私、弱くないもん。別に。あなたより強いから!」
「あ? ……何の根拠があってそう言ってる?」
火花が散った。私、この人のことが気に食わないんだけど。なんかもう、全身から気が合わなさそうなオーラが滲み出ている! 睨み合っていると、殿下が額に手を当て、「もう早速か」とぼやいた。エナンドはやれやれとでも言いたげに、肩を竦めている。
ひゅうっと、夕方ならではの底冷えする風が吹いた。空はもう、端っこの方が紺色に染まっていて、星が散っている。睨み合っているその時、「俺も混ぜろよ!」と叫んで、黒づくめのバーデンが飛び降りてきた。両手を突いて着地してから、すぐさま私の隣に立ち、ぐいっと肩を抱き寄せる。
「こいつが弱いって? 殺しの英才教育を受けてきたのにか!?」
「殺しの英才教育だって? おい、人外者。どういうことだ」
「俺の名前はバーデン。耳があるのなら、ちゃんと覚えろ。そして、口があるのなら俺の名前を呼べ。それが出来ないのなら死ね!」
「……バーデン、殺しの英才教育ってのはなんだ? 俺はこいつが情報局の人間ということしか知らされてないぞ」
「こいつは十九歳だしなぁ。情報局では雑用係みたいなもんなんだよ。大した仕事はしていない。でも、こいつの素晴らしいところは、」
「バーデン、やめて。誇れるようなことじゃないのよ、私がしてきたことは」
誇れるような仕事だったら、ユーインは離れていかない。私の傍にずっと一生いてくれたはず。無遠慮に、肩へと回された腕を持ち上げながら、睨みつけていると、はっとせせら笑った。私の頬に両手を添える。顔が固定されちゃった。見てみると、黒い瞳に金色の火花が散っている。
「じゃあ、あれは一体なんだ!? 文字通り、お前は血の滲むような鍛錬を乗り越えて、誰でも殺せる人間になったはずだ……」
「もうやめて。お座り!」
「ふん、気が短い」
指図すると、鼻を鳴らして一回転し、黒い犬に変わった。なんだか墓地にいそう。たまには、白くてふわふわな子犬にでも変身してくれるといいんだけど……。目が血走ってるし、口からヨダレが垂れてるし、本当に可愛くない! 不満そうに、私の足元でお座りしたバーデンを見下ろしていると、エナンドが口笛を吹いた。
「すごいな、完壁に飼い慣らしてる!」
「ねえ、私とカイ、どっちが強いと思いますか!?」
「えっ!? いきなり?」
「呼び捨てかよ、お前。年下なんだから、さんでもつけたらどうだ?」
「年齢は関係ないの。私がカイさんって呼びたくなったら、そうしてあげる」
「……レナード殿下、こいつをクビにしましょうよ。こんなのと一つ屋根の下で眠るかと思えば、ぞっとする」
「じゃあ、あなたは外で寝たらどう? それとも、温室育ちだからベッドでしか眠れないの?」
「……調子に乗るなよ、シェリー」
いきなり殺気立った。首の裏がぞわっとする。考えるよりも先に、私の手が動いた。手を振って、腕時計をナイフへと変化させ、迫り来るナイフを弾く。ギィンと、嫌な音が響いた。同時に殿下が「カイ!」と悲鳴のような声を上げる。でも、止まらない。分かる。殺意はないもの、これは試験か。すぐさま踏み込み、私の肩を刺そうとしてきた。あ、止まらない。ナイフを避けて、相手の腹を蹴り飛ばす。びくともしなかった。何も考えていない灰色の瞳がぎょろりと動いて、私を捉える。────面白い!
「じゃあ、もう少し本気出してもいいよね? 男の人って丈夫だもん!」
「ほざけ」
むかついて顔を殴り飛ばそうとしたら、寒気がした。だめだ、すぐ頭に血が上るのが私の悪いところ。頭の中で叔父さんが囁いた。
『シェリー、よく考えろ。よく相手の動きを見て、かわして、急所を突くんだ。でないと死ぬぞ?』
そうだ、急所。どこ? 首。この人は首が弱いような気がする。顔のすぐ横で、蹴り飛ばそうとしてきた足を止める。腕に痛みというより、がっと衝撃が走った。首、首。
「シェリー、殺すなよ」
その声はあんまり大きくないのに、響いた。バーデン、ありがとう。おかげで殺さずに済んだ。あとでお礼を言おうっと、と考えながら、相手の首を掴む。突こうかなと思ったけど、怪我させちゃったら嫌だし、首を絞め上げるだけにしておいた。すぐさま、私のすねを蹴り飛ばしてくる。そうすると思った。でも、絶対に離さない。抵抗出来ないように、酸素を奪ってしまえばいい。早く、早く。
(ああ、そうだ。この布が邪魔だ)
燃やしてしまおう。いや、紐にして締め上げよう。布を紐へと変える魔術をかけ、一気に締め上げる。ぐえっとうめいたような気がした。でも、殺さなきゃ。早く、早く。早く。じゃないと、ユーインの下へ帰れなくなっちゃう!
「そこまでだ!」
「っあれ!?」
誰かが、私のことを後ろから抱き締める。手から力が抜け落ちて、紐が滑り落ちた。金属製の紐にしていた。つるりとなめらかな感触だった。私を後ろから抱き締めていたのはエナンドで、ほっと息を吐く。
「良かった……。だめだよ、死んじゃうから」
「す、すみません。つい」
「カイ! 大丈夫か!? すまない、呆気に取られて動けなくて」
殿下が咳き込んで、座っているカイの傍にしゃがみ込み、背中を擦った。あ、責められているみたい。私。上手く出来なかった……。羨ましい、ずるい。色んな感情がごっちゃになる。
「いいなぁ、羨ましい。当然だけど、殿下はカイの方が大事なのね?」
「うん? うーん……いや、そうじゃなくて、死にかけたからじゃないかな? 次は手加減してやってくれよ。頼む。流石に相棒が死ぬところは見たくない」
「は、はい。すみませんでした」
「まあ、挑発? したあいつも悪いとは思うんだけどなぁ」
「喧嘩売ってましたよね? 私に」
「うあ? ううーん……」
何故かごにょごにょと言い出して、赤髪を掻き出した。この人、日和るタイプなのかもしれない。用心しなくちゃ、いざとなったら味方してくれないかもしれない。じっと、軽蔑の眼差しで見つめていたら、気まずくなったのか、「大丈夫かー?」と言いながら、殿下の下へ行った。ああ、私、また一人になっちゃった。失敗しちゃった。鷲姿に変身したバーデンが、私の肩に降り立つ。
「お疲れさん、シェリー。相変わらずの狂戦士っぷりだったなぁ」
「でも、嫌われちゃった。どうしよう? どうすればいいと思う?」
くだらないことに怒って、三人との間に溝が出来た。途方に暮れていると、殿下が振り返って、こちらまでやって来た。怒られる、と思って眉をひそめていれば、何故かくすりと笑う。まるで、幼い子供を見ているような目だった。
「シェリー? ……次からどうしたらいいのか、よく分かっている顔をしてるじゃないか。えらい、えらい」
「子供扱いしないでくださいよ、殿下!」
わしゃわしゃと頭を撫でられた。くすぐったい。私の文句にめげず、からりと笑い「だって、子供だろう?」と言う。確かに殿下からしたら、私は子供なのかもしれないけれど!
「まあ、いきなり襲ったカイもカイで悪いな。ごめんなさいは?」
「……首を絞めなくてもいいだろう、何も別に。俺は急所外したのに」
「だって首を絞めないと、落ち着かなさそうな顔をしてたから……」
「どんな顔だよ! 反省してないだろ!?」
「そっちが先に反省したら、私だってちゃんと反省するもん!!」
「そう言ってしないのが目に見えてるから、反省する気にならないんだよ! いいから、ぐだぐだ言ってないで謝れ! 俺に!」
「やだ! 絶対にやだ!! 先にそっちが謝ってくれたら、」
「カイ?」
レナード殿下が、ひやりとするような声を浴びせた。まるで、氷水でよく冷やしたナイフの刃みたい。カイが怯えて、体を揺らし、忌々しそうに舌打ちした。灰色の瞳で思いっきり睨みつけてくる。
「……悪かった、ごめん。試験のつもりだったんだ」
「私もごめんね? 弱いのに、ちゃんと手加減してあげなくて」
「人がきちんと謝っているのに、そう煽ってくるやつっているよなぁ~。まあ、きちんと謝れるだけ、俺の方が上ってことで」
「上とか下とかないと思うけど? それに事実だし」
「いやいや、あれは手加減してやってたんだよ。殺してもいいのなら勝てた。それにいくら腕が立っても、きちんと謝れないのはお子ちゃまだろ? 格下、俺の格下!」
「……!!」
「二人とも! いい加減にしなさい!」
取っ組み合っていると、呆れた殿下に怒られてしまった。ほら、やっぱり気が合わない! 嫌なやつだった!!