2.この先には、自由が待っているから大丈夫
ついにその時がやってきた。鳥がコツコツと、くちばしで窓ガラスを叩くような音に反応して、振り返ってみれば、案の定、窓ガラスの向こうに白い小鳥がいた。慌てて駈け寄ったさい、ワンピースの裾に縫い付けられた、白いレースがふわりと揺れる。レナード殿下好みのパステルブルーのワンピースは、夏の入道雲がもくもくと湧き出てきた空と、まったく同じ色をしていて綺麗だった。
密かに心の中で、空が映し出されたワンピースと呼んでいる。苦労して窓を開ければ、生ぬるい風が頬を撫でていった。塔の中は相変わらず冬だけど、外では木が枝葉を広げ、目一杯 、眩しい陽射しを浴びている。私が指先を伸ばせば、白い小鳥が止まってくれた。細くて華奢な足が、しっかりと私の指を掴んでいる。
「お久しぶりです、モリスさん。どうですか? 禁術は。完成しましたか?」
「……ああ、完成したよ。シェリーは怖がらないね、まったく」
「はい! レナード殿下の身代わりになって死ねるなんて……これ以上の喜びはありません、ふふっ」
「どうしてそういう考えになったのか、聞いても?」
モリスさんが穏やかな声でたずねてきた。変なの、白い小鳥からおじさんの声が聞こえてくるなんて。まるで、白い小鳥の中におじさんがぎゅうぎゅうに詰まっているみたい。想像して、くすりと笑ってから、開いていた窓を閉じる。ぴたりと風が止んだ。
「……私のことを好きだと言ってくれる人のために死にたくて。今までいっぱい人を殺してきたんだから、きっと、ろくな死に方はしません。だから、レナード殿下の身代わりになって、死ねることが嬉しくて」
「なるほど。まともな考えから出てきた言葉のようで、安心したよ。……レナード殿下の採血が終わったあと、連れてきてくれないか? 内緒で。執務室に」
「はい、分かりました。どうして内緒なんですか?」
「禁術を行使すると分かったら、来てくれないだろうからね。ロダンにも悟られないように。いいね?」
「はい」
穏やかだけど、苦しさが混じった声だった。罪悪感があるみたい? つぶらな黒い瞳を見つめていたら、居心地悪そうに羽根を震わせる。
「じゃあ、もう行くよ。すまない、僕の、バカなあやまちに巻き込んでしまって」
「あやまち? あやまちですか」
「そう。狩りに参加したのが間違いだったんだ。うぬぼれていた。いいや、何とも思っていなかったんだ」
「狩りって? 何ですか、それ」
「……癒しの、癒しの血を持った人間を探し出すためのものだよ。調査だとかなんとか、綺麗な言葉で包み込まれていたけど、違う。あれはれっきとした狩りだった」
「それに参加して、レナード殿下の、ええっとお母様を? 連れてきたんですか」
「そう、死んだ。後悔しながら死んでいった」
額がすうっと冷たくなっていった。あまりにも重たい言葉で、レナード殿下が死んじゃったらどうしようって毎日考えてる私にとっては、苦しすぎた。額に汗が浮かんでくる。でも、分かった。これで。どうして、モリスさんが非人道的な禁術に手を染めようとしているのか。
「……自分が探し出した女の子を、解放するためにモリスさんは動いてるんですね?」
「ああ、いいな。その例え方は。気に入った。彼女は安らかに眠れていないだろうからね。そろそろ解放してあげないと」
「彼女……」
「随分と年下だったから。最初は何とも思ってなかったけど、途中からは、陛下よりも仕える価値がある女性だと思うようになって。いやあ、レナード殿下も可愛らしかった。不思議と、王妃様が抱いている生まれたばかりの王子様を見て、父性に似た何かがふつふつと湧き上がってきたんだよ。守らなくてはと思った。最初から全部、僕が悪かったのに」
今日は随分と饒舌ですね、モリスさん、とは言えなかった。白い小鳥が体を震わせながら、うつむいた。
「すまない、シェリー。謝っても過去の行動は取り消せないけど、せめてもの謝りたい」
「いいえ、大丈夫ですよ。二人でレナード殿下のことを幸せにしてあげましょうね!」
「ああ、そうだな。一緒に怒られようか」
「はい! では、またあとで」
「またあとで」
窓辺に立って、飛び去ってゆく小鳥を眺める。ワンピースと同じ色の青空が、目に染みていった。眺め続けたら、あとで視界に黒い影が現れるのに、太陽の光を眺め続けてしまう。
「……ねえ、バーデン? まだ反対しているの?」
「当たり前さ。どうする? シェリー。考えは変わらないのか? 逃げるのなら今だぞ」
「怖いの、私。レナード殿下が死んじゃうのが。自分よりも先に死んでしまうのが」
「っくそ! あーあ……。そういうことを言われたら、無理に止められんな」
「バーデンにも、死んで欲しくない人がいるんでしょう? 分かってくれるでしょう?」
「シェリー。痛いところを突いてくる」
後ろに立ったバーデンが、手を伸ばしてきた。懇願するかのように、止めるかのように強く、私の両肩を掴んできた。でも、止まらない。やめる気はない。
「レナード殿下のことが好き? って聞かれたら、違うよとしか言えないんだけどね」
「違うのか。もう恋人同士にしか見えんが?」
「うん。だって、いまいちわくわくしないんだもん。恋人が出来たばかりのユーインはもっとわくわくしてたよ? 私はただ、レナード殿下に死んで欲しくないだけ……。私の話を聞いてくれて、慰めてくれる人がいなくなるのって、考えただけで辛いから」
「そうか。……シェリー、後悔しないといいが。お前がどこまでも」
後ろから抱きついてきて、頭のてっぺんにキスをした。外は夏の清々しい雰囲気に包まれていて、気持ち良さそうだった。もうすぐで、レナード殿下が採血から戻ってくる。早く行かないと。窓の向こうにある景色を目に焼きつけたくて、見つめ続けた。何の意味もない行為なんだけど、これは。
「バーデン、反対しないでね? 私にとって、バーデンも大事な人だから。人じゃないけど」
「……可愛く甘えようったって、そうはいかないぞ? シェリー」
「どうしても反対するようなら自殺する。私の命が人質よ」
「おい!」
「私が死ぬと退屈でしょう? 頑張って呑み込んでね。さあ、行かなきゃ。早く」
バーデンの腕をほどいて、スリッパから、歩きやすいバレエシューズに履き替える。もう何も言ってこなかった。本当だ。レナード殿下の言う通り、バーデンはそれなりに私のことを大事に思ってる。
部屋の扉に手をかけ、振り返ってみると、何を考えているのかよく分からない表情を浮かべ、静かに佇んでいた。赤い瞳は澄んでいて、まるで人形のよう。見慣れた黒いローブと白いシャツが、いつもとは違って、誰か知らない人が着ている服に見えた。
「ねえ、私が死んだら悲しいの? バーデン。私の体を奪って、人として生きていきたいのかと思ってた」
「八十年もそうやって生きてたら退屈しそうだ。今、こうやってお前を見続けている方が断然楽しい」
「そう。ありがとう、バーデン。じゃあ、行ってくるね」
「……こういう状況で、お前に礼を言われたのは初めてだな。王子様に感謝しなくちゃな」
「いつもお礼ぐらい言ってるでしょう? 行ってきまーす」
やたらとしみじみした表情で頷き、お父さんのように腕を組んだバーデンを置いて、塔を出る。塔に戻ってくる前にレナード殿下を捕まえて、モリスさんの執務室へ運ばなきゃ。外は暑くて、強い陽射しが目の奥を刺してきた。でも、風が涼しくて気持ちいい。汗ばんだ首筋を、強い風が冷やしてゆく。
風で膨らんだ青いスカートを見下ろしながら、芝生の上を歩いていると、すぐにロダンさんとレナード殿下が見えてきた。黒いローブをはためかせているロダンさんが気付いて、にっと笑う。獰猛な笑みだった。青い瞳を細めている。いつもの黒いもじゃもじゃのヒゲが無いから、年齢より若く見えた。
(……この人が敵にならなきゃいいんだけど。ううん、殺さなくてもいい。別に。無力化さえ、出来ればそれで)
きっと、首を突っ込んでくる。ちらっと足元の影を見たら、任せろと言わんばかりに、影の中にいるバーデンが唸り声を上げた。久々に、バーデンに体を貸す必要があるかもしれない。最近、あれをしてないからちょっとだけ不安。でも、大丈夫。記憶は残っている。どうすればいいのかは、私の体が知っている。前へ進み出て、軽くお辞儀をすると、レナード殿下が嬉しそうに駈け寄ってきた。だぼっとしたベージュ色のシャツが、風に揺れている。
「シェリー! 迎えに来てくれたのか、ありがとう」
「いえ。……レナード殿下にちょっとお話がありまして」
「話? どうしたんだ?」
「やあやあ、やあやあ! シェリーちゃん、どうも久しぶり。おじさんのことは無視かな~?」
「大事な話があるんです、レナード殿下に。だから、さようならっ!」
私が腕を掴んで、レナード殿下を引きずって連れて行こうとしたら、案の定、にこやかに止めてきた。私の肩を掴み、動かせないようにする。ワシに捕まったら、こんな気持ちになるのかな……。
「話って? そうそう、モリスさんは元気かな? やたらと二人で話し込んでるじゃないか」
「モリスとシェリーが……?」
「おっと、大丈夫ですよ。レナード殿下! なんせ年が離れすぎている。それに、モリスのやつは愛妻家ですよ。三人も子ども作って、まだ惚気話をするぐらいですから、」
「別に二人の仲を疑っているわけじゃない。ただ……不気味なほど、モリスはいつも通りだな」
「うーん。あれは表情と心を完全に分けて生きてるんですよ。俺は思っていることが全部顏に出ちゃうタイプですから、羨ましい限りです」
「……シェリー? モリスと一体、何を話しているんだ?」
蜂蜜色の瞳が不安げに揺れる。どうしよう? このまま、適当に話をして切り抜けて……。だけど、こちらの動きを全部知られている。禁術をかけるには、長い時間と集中力が必要になる。モリスさんの邪魔をさせるわけにはいかない。静かにロダンさんを睨みつけると、青い瞳をさらに細め、愉快そうに笑った。顎に手を添える。つるつるで肌触りが良さそう。
「ふぅん。まさかとは思うが、国王陛下の意に反するようなことはしてないよな? シェリーちゃん。もしもそうなら、手加減はしないぞ?」
「何のためらいもなく、そうやってまっすぐ聞いてくるんですね?」
それなら話が早い。戦った方が早い。久しぶりに強敵と戦うからか、心臓がざわざわしてきた。強烈な喜びが湧き上がってくる。痛いのは嫌い。でも、戦っている相手を殺した瞬間、とてつもない達成感に襲われる。またあの達成感を味わいたい。……今回は殺しちゃだめなんだけど。全力で戦っても、死なない相手だし、大丈夫。勝てるかどうか、腕や足が残るかどうか。笑みが浮かんできた。私の笑顔を見て、すっと、青い瞳から光を失くす。もう笑ってない。
「俺の敵か、味方か? 聞くのはそれだけだ、答えろ」
「っロダン、やめてくれ! もしもシェリーに何かしたら、」
「まあまあ、レナード殿下。落ち着いてくださいよ。女が欲しいのなら、こちらで新しいのを用意しますから」
「……は?」
「モリスも悪趣味ですよねえ。わざわざハウエル家の生き残りを、あなたにあてがうだなんて」
「関係ない。シェリーはシェリーだ」
「いやいや、ありますよ。あなたがたのご先祖が何をしたのか、まったくご存じないので?」
ロダンさんの腕を掴んでいたレナード殿下が、顔色を悪くして黙り込む。何があったんだろう? まったく知らないからよく分からない。過去を知っても、私は私だから。何も変わらない。ぼんやりと見ていたら、ぎゅっと、ロダンさんが笑顔でレナード殿下の肩を掴んだ。
「あなたがやっていることは、ひいじいさんやひいばあさんと一緒ですよ。いや、祖父母と言った方がいいか? 代々、ハウエル家の女を慰め者にしてきた。男は道具扱いで、ストレス解消の相手」
「……違う! 俺は他のやつらとは違う。シェリーのことがただ純粋に好きなんだ」
「考えてもみてくださいよ、重要なのはあなたの血筋だ。感情じゃなくて。あなたの祖父が慰め者にしてきた女の子孫を愛するだって? 馬鹿げたことはよしましょうよ。代々、ハウエル家を骨の髄までしゃぶりつくしてきたんだ。利用してきた」
ああ、そうだったんだとしか思わない。でも、レナード殿下はそうじゃないみたいで、今にも倒れそうな顔色をしていた。紙のように真っ白。怒りがふつふつと湧き上がってくる。会ったこともない人が、会ったこともない私の親戚に何かしていたって、レナード殿下は変わらない。私も変わらない。ナイフを握り締める。ロダンさんが嘲るような笑みを浮かべ、ひたすら優しい声で話しかけていた。レナード殿下の肩に、しっかりと手を置いて。
「まあまあ、落ち着いてくださいよ、レナード殿下! 今の状況は歪んでいる。そうは思いませんか? 彼女を手放した方がいいですよ。まあ、レナード殿下はお優しいから、きっと罪滅ぼしのつもりなんでしょうけど」
「……嫌だ。それだけは絶対に嫌だ! 最初はそうだったけど、今は違う」
「ん~、二人は離れた方がいいんですよ。だって、敵同士じゃないですか。あなたは仇なんですよ? 彼女にとって。そのへん、ちゃんと理解していますか?」
「もう黙って、ロダンさん。私にとっての仇はあなただけだから」
こんなに怒ったのは久しぶりかもしれない。カラス姿のバーデンが腕に乗ってきた。ああ、今すぐ暴れ回りたい。この男を死体にしよう。レナード殿下が私を見て、「シェリー」と小さな声でささやいた。優しい王子様、どうして私に親切にしてくれたのかよく分かった。
「シェリーちゃん、憎くはないの?」
「どうして? ユーインとレナード殿下以外、好きな人なんていないのに?」
「あ~、障害があればあるほど燃えちゃうタイプ?」
「そうですね。殺せるはずがない人を殺したくなっちゃう」
「……レナード殿下、もうやめましょうよ。ただの自己満足ですよね? 罪滅ぼしだなんだと言って、シェリーちゃんに優しくするのは、自慰とさほど変わりない」
「ロダン!!」
「でもさぁ、もう一度聞くよ? シェリーちゃん。俺の敵? 味方? それだけ分かればいいから、俺は」
「敵です」
体を低くして、突っ込む。考える余裕を与えない。とにかく動く。私の意図を組んでくれたバーデンが、たちまち黒いマントで覆ってくれた。一瞬、黒い波が押し寄せる空間に行ったと錯覚してしまうほど、目の前が黒くなった。指先にレナード殿下の手が触れる。すかさず抱き寄せてから、羽交い絞めにして、首筋にナイフを当てると、マントが溶けて消えた。反応し損ねたロダンさんが、レナード殿下の首筋にナイフを当てている私を見て、苦々しい表情を浮かべる。
「すみません、レナード殿下。殺す気はないので、ちょっとだけ大人しくしていてくださいね?」
「……殺されたとしても、文句は言えないと思ってる」
「あなたの、えーっと、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんでしたっけ? 私の親族に酷いことをしたからですか?」
「そうだ。俺に……君の行動を批判する権利はない。好きなようにしたらいいと思う。嫌味でも何でもなく、心からそう思ってるんだ」
「残念。私のことが好きだから、私に殺されたいと思ったわけじゃないんですね……」
「行くぞ、シェリー!」
戦うことよりも、逃げることを優先したみたい。バーデンが黒いマントで私達を覆い隠そうとした瞬間、手首を掴まれた。火花が散って、まつげが焼け落ちる。熱い! とっさに目を保護する魔術を使ったら、私の手を掴んでいたロダンさんが笑った。
「あ~、早いなぁ。性格読まれちゃってる? 俺。目玉を焼こうと思ったのに」
「っいい加減にしなさい! ロダン!」
「うっ!?」
一番嫌われたくない相手の顏。つまり、ロダンさんの奥さんの顏に変身して、奥さんの声で怒鳴ってみたら、予想通り怯んで、手を放した。何も勝つ必要はない。でも、ちょっとぐらい、ちょっとぐらい、嫌がらせがしたい……!! 私がロダンさんのことを、ぎゅっと固く握り締めた拳で思いっきり、殴り飛ばしてみたら、レナード殿下が歓声を上げた。
「やるなぁ、シェリー! すっきりしたよ、ありがとう!」
「はい! じゃあ、行きましょうか」
「えっ? 行くってどこに?」
「ごめんなさい。少しだけ眠っていてください」
びっくりしているレナード殿下の目元を、優しく手で覆い隠した瞬間、罪悪感に襲われた。ごめんなさい、レナード殿下。目が覚めたら、素敵な現実が待っていますから。もう家畜扱いされることなんてない。あなたが決めたらいいんです、全部。血を与えるか、与えないか。あなたのこの先には自由が待っている。




