34.嵐の前の静けさ
「おはようございますっ!!」
「どぅえっ!?」
眠っていたエナンドさんのお腹に飛び込んでみたら、苦しそうにうめいて、背中を向けた。痛かったのか、お腹を抱えて「うお、えっ、あ……」って呟いてる。しぶしぶベッドに乗り上げ、くしゃくしゃに絡まった赤髪を撫でてみると、苦しそうに息を吐き出した。爽やかな白地に、青チェック柄のパジャマを着ている。チェックが大きくておしゃれ。さっさと灰色のトレーナーと、チェック柄の短パンに着替えちゃったけど、パジャマでも良かったかもしれない。楽そう。後ろからほっぺをつんつん突いてみたら、ようやく嬉しそうに笑った。
「おはよう、シェリーちゃん。どうしたのかな? 俺は今、心底、明け方にトイレ行っておいて良かったって思ってる最中だよ……。君はどうかな? 今、何を考えているのかなぁ」
「昨日、言ってたでしょ? カイのことが羨ましいって。だから起こしに来てあげたんです。嬉しいでしょ?」
「ああ、うん。でも、俺が言ってたのは夜中の話で朝の話じゃ、」
「目玉焼きに飽きてきたから、他の食べ物を作って欲しいんですけど、どう思います? レナード殿下、がっかりしちゃうでしょうか」
「一生作って貰うって豪語してたわりに、飽きるのが早いね……!?」
「その時の気分で口にしていただけですから」
「そっか、分かった。思考を放棄しよう。これまでの付き合いから、深く考えるのが無駄だってことはよく分かってるんだ。さすがの俺も学ぶさ」
普段より流暢に喋って、体を起こした。大きく「ふわぁ~」とあくびしたあと、背中を掻き出す。赤髪がくしゃくしゃで新鮮だった。前に起こしたことがあるけど、その時より髪がくしゃくしゃだった。私がベッドに座ったまま、つられてあくびしていると、穏やかに笑う。
「それで? 俺がカイを羨ましがってたから、起こしに来てくれたんだ? ありがとうね、シェリーちゃん」
「どういたしまして。今日、目玉焼きをどうしても食べたくない気分だったんです」
「なるほど、俺を起こしに来た理由はそれか~……。起こしてくれるのはありがたいんだけど、出来たら、お腹に飛び乗るのをやめて欲しいんだけどなぁ」
「ごめんなさい。カイに飛び乗ったって聞いて、羨ましがってたからやってみたの」
「ん~、俺も悪いか。シェリーちゃん? 今度からしなくてもいいから。次は優しく、ほっぺたにキスでもして起こして欲しいかな!」
「分かりました、いいですよ」
「えっ」
だらしなく膝を立てていたエナンドさんが、一瞬で硬直した。減るものじゃないし、バーデンにキスして起こす時だってあるし、大したことなさそうだからいいですよって言ったんだけど、言わない方が良かったかも? まじまじと見つめ返していれば、ぷっと吹き出した。
「じゃあ、お願いしようかな! んー、でも、今すぐして欲しい気分だな……。待ちきれない」
「分かりました、気絶させますね」
「えっ!? ま、待って、ちょっと待った! 俺が悪かった!! 気絶って? なんで!?」
「えっ? だって、私にキスして起こして欲しいんでしょう? 明日しようかと思っていたんですけど、今すぐして欲しいって言うから。気絶させたあと、ほっぺたにキスすればいいんでしょう?」
何を言っているんだろう、もう、この人は。今起きてるんだから、寝かせる必要があるでしょうに。私がベッドから腰を上げて、近寄ってみると、怯えた様子で後退った。
「ああ、そういう……。大丈夫、待てるから! 明日にして貰えるかな!?」
「遠慮しなくてもいいんですよ、ほら。痛みを与えることなく、気絶させますから」
「ご、ごめん。いいよ。朝ご飯食べなくちゃいけないからさ、俺……。気絶して二度寝してる場合じゃないんだ。ありがとう、気持ちだけ受け取っておくよ!! それじゃっ」
じりじり迫っていたら、慌ててベッドの上から逃げ出した。裸足なことに気が付き、スリッパを履いたあと、洗面所へ逃げてゆく。ベッドの上で不貞腐れていれば、どこからともなくバーデンの笑い声が聞こえてきた。何となくベッドの下を覗き込んでみると、凶悪な犬の姿をしたバーデンが潜んでいた。黒い毛は硬そうで、ごわごわしていて、目元には傷が走ってる。よだれが出ていて可愛くなかった。ベッドの下を覗き込みながら、思わず眉間にシワを寄せてしまう。
「シェリー、いいのか? 王子様に怒られるぞ?」
「ねえ、どうしてそんな凶悪な犬の姿をしてるの? やめて欲しいんだけど」
「どんな姿になろうが俺の勝手だ。そんなことよりも、あの男の言うことを聞くのはやめておけ」
「それも私の勝手でしょ。ほっぺたにキスぐらい、いいじゃない。大したことないでしょう」
「……お前の行動は意味が無いようで、意味がある。何が目的だ? シェリー。俺はそれが聞きたくて、わざわざここに潜んでるんだぞ」
ごくたまに、叔父さんがぞっとした顏で私のことを見つめる。父親とそっくりだな、って消え入りそうな声で呟いていたことを思い出した。でも、目的って二つあってもいいんじゃない? 殺すまでの束の間、仲良くしたくて、そうしたことがある。叔父さんに怒られちゃったから、やめたけど。頭に血が上ってきたから、元の体勢に戻る。ちょっとだけ視界が揺れた。
「私ね、目的達成と感情が別なの。完全に分けてあるの。バーデンはそれを知っているかと思った」
「分けているというよりも、罪悪感がまるでないんだろう。欠如している」
「もーっ、いいから! 聞き飽きたから、その台詞は! 殿下との関係性に悩むよりも、周辺の情報を漁るのが先だなと思って。だからまず、元婚約者さんのことが知りたいの。エナンドさんなら絶対知っているだろうから」
カイは口を割らなかった。レナード殿下に聞いても、笑うだけで教えてくれない。エナンドさんは軽いから聞きたくなかったんだけど、聞かなくちゃ。洗いざらい全部を調べたあと、殺すか、生かすか、ここでずっと一緒に暮らしていくのかを決めたい。天井に向かって手を伸ばしながら、眩しくないシャンデリアを見つめる。私は普通になれない。
だからとりあえず、レナード殿下のことを隅々まで調べよう。どうして癒しの血を持っているのか。どうして唯一、生き残っているのか。どんどん知っていけば、いつか心が揺り動かされる瞬間が来るかもしれない。腕をおろして、今度は手のひらを見つめる。部屋はしんとしていて、冷たかった。寒さが服の隙間から、忍び寄ってくる。
(そっか、私。殿下のことを好きになりたいんだ……)
ねえ、ユーイン。誰かに恋したら私、もう一度お姉ちゃんになれるの? 私の何がいけなかったんだろう、全部かな……。レナード殿下のことが好きになれたら、ユーインも思い直してくれるかもしれない。お姉ちゃんってまた、昔みたいに呼んでくれるかもしれない。また会えるかもしれない。ベッドの上で膝を抱え、ぼんやりしていたら、エナンドさんが戻ってきた。くしゃくしゃの赤髪が綺麗になっていた。
「どうしたの? シェリーちゃん。落ち込んだりして」
「……分かりますか?」
「もちろん。レナード様のこと?」
「いいえ、違います」
「あれ、違った? じゃあ、何だろう。また弟君のことかな?」
「そうです……。私、ここが居心地良いから泣かずに済んでいるんですけど、やっぱりユーインにどうしても会いたくて。ユーインにいらないお姉ちゃん認定されたのが、すごく辛いんです。離れていったことだけじゃなくて、それが一番辛くて」
「可哀想に、弟君とはまた会えるよ。大丈夫? シェリーちゃん」
隣に腰かけ、肩を抱き寄せてきた。振り払う気にもなれなくて、目を閉じる。……エナンドさんは女好きだから、多少甘えたら教えてくれるかもしれない。胸元にゆっくり手を添えてみると、嬉しそうに笑い、「シェリーちゃん」と甘く呟きながら、私の頭に頬ずりしてきた。どうして疑わないのか、ぜんっぜん分からない。
「……ねえ、エナンドさん。エナンドさんは私の味方ですよね?」
「もちろん。カイと喧嘩でもした? また」
「教えて欲しいのに、教えてくれないんです。レナード殿下の元婚約者について」
「あ~、婚約とは言っても正式にしてないよ。口約束だから。レナード殿下のお母様が結んだ婚約で、その、ね? 亡くなったから、自然消滅しちゃってさ」
「お母様が……」
「そう。四大公爵家の内の一つ、何だっけ? 忘れた。その家の奥様とレナード殿下のお母様が仲良くてさ。まあ、人から聞いた話なんだけど。これも。年齢が近いからって早々に、三歳か二歳? の頃に結婚させましょうって口約束して。あ、なんで正式にじゃないかって言うと、陛下の反対に遭ったからだって」
びっくりするほど、べらべら喋ってくれる……。大丈夫? って言いそうになった。でも、大した情報じゃない!! カイが私に意地悪してたんだ、教えてくれたら良かったのに。レナード殿下もレナード殿下で、大したことないから教えてくれたら良かったのに!
「ねえ、どういう人でした? ローザ様は」
「ん~、おっとりした美人でね。レナード様とよくお似合いだったよ。だから、俺としては彼女と結婚出来なかったから、駄々こねてるんだと思ってたんだけど、違ったね~。すっかりシェリーちゃんに夢中になっちゃってさ」
「夢中に? ……そんなことよりも、二人はデートしてたんですか?」
「嫉妬かな? してたよ。あんまりにもレナード様が女性を拒絶するもんだから、じゃあ、口約束だったけど、一時的に婚約していた女性をあてがってみたらどうだって話が出てね。まあ、それでも陛下は渋ったみたいだよ。王妃様がごり押ししたんだって」
「どなたから聞いたんですか? 随分と詳しいですね」
「一時期、王妃様付きの侍女と仲良くしてたから」
「なるほど、把握出来ました……」
軽くて汚い。嫌になって離れたら、もう一度、慌てて抱き寄せてきた。
「ごめん、余計なこと言って。俺が悪かった! ごめんね? でも、今はシェリーちゃん一筋だから安心して?」
「別に嫉妬したわけじゃないんです! ただ、軽くて汚くて、信用ならないなと思っただけです」
「そんな、汚物を見るような目で言わなくてもさ……。だけど、俺はシェリーちゃんのことが好きだよ。初めて見た時から気になってたんだ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない、本当だよ。信じて。君ほど可愛い女の子は見たことがない。何していても可愛いし、変わったところも好きだよ」
「……」
何を食べたら、雲みたいに軽い台詞が吐けるんだろう。ちっとも響かない。どうせなら、重たい言葉を言って欲しい。顔を横に向けていたら、覗き込まれた。苛立って見返した瞬間、動きが止まった。エナンドさんの深いグリーンの瞳が見開かれ、息を呑み込む。頭のどこかで私が、「利用しちゃえばいいのよ」とささやいた。思った以上に速く近付いてきて、キスされる。くちびるは湿っていて、柔らかかった。
「……ねえ、シェリーちゃん。レナード様のことが好き?」
「分かりません。でも、好きって言って貰えたら、好きになるような気がします」
「もう俺にしちゃわない? あの人はずっとああだよ」
「……禁止されているのに、私に手を出すんですか?」
「スリルと刺激がなきゃ、生きているとは言えないよ。これも幻獣の性質なのかな……」
もう一度キスしてきたから、受け入れた。でも、体に手が伸びてきたから、嫌になって立ち上がる。案の定、慌てた様子で手首を掴んできた。
「ごめん、待って! もうしないから……」
「ローザ様って今、何をしているんですか?」
「何ってもう、どこぞの経営者と結婚したはずだよ。時代も変わったよね。金さえあれば、貴族のお姫様と結婚出来るようになった」
「じゃあ、未練ってどうなんでしょう? あるんでしょうか」
「……レナード様はシェリーちゃんのことが好きだと思うよ。ただ傷付くのが嫌で、一歩踏み出せないだけで。ん~、あとは反抗心から? 王妃様への」
「かもしれませんね。それじゃ、おやすみなさい」
「起きるつもりでいるんだけど、俺は……。シェリーちゃんは寝るの? これから」
するりと、エナンドさんの手が離れてゆく。手首に残った感触が少しだけ気持ち悪かった。くちびるをごしごし拭いてから、扉を開けて、石造りの廊下に出る。レナード殿下は私のことが好き? そうは思えない……。無性に寂しくなっちゃった。数分ほど扉に背中を預けて、ぼんやりしていると、「ピィピィ!」と甲高い鳴き声が響き渡る。はっと見上げてみれば、頭に白い小鳥が降り立った。
「……モリスさん? ごめんなさい、ちょっと待ってください。場所を移動します」
「ゆっくりで大丈夫だから」
穏やかな低い声が聞こえてきた。変な感じ! この真っ白くて可愛い小鳥ちゃんから、おじさんの声がするなんて。首を傾げながらも、移動する。今日は殿下のこと、起こさなくてもいいかも。体に移ったエナンドさんの香水の匂いで、ばれちゃうかもしれないし。もう怒られたくない。カイが眠っている隣の部屋を開けようとしたら、弾かれた。ばちっと、静電気とよく似た刺激が指先に走る。
「んっ、んんん~……!! 開けてみせるっ、絶対に!」
「シェリー? どうした」
モリスさんが戸惑って聞いてきたけど、無視して、扉に魔術をかけた。すぐにもろもろっと、黒い砂になって崩れ落ちる。部屋に入って、眠っているカイのお腹に飛び込んでやろうと思ったんだけど、またレナード殿下に怒られたら、辛いからやめる……。真面目な顔で「次はお尻を叩いて叱るよ」って言われた。カイにお尻をぺんぺんされているところを見られたくない。一生、絶対に絶対に、私が死ぬまでバカにすると思う!! 死んじゃったあとも、枕元に立ってバカにすると思う!
「い、い、行きましょう……。我慢します。そうだ、バーデン? ねえ、聞こえてるでしょ。私の代わりにカイを起こして、仕返ししてから、レナード殿下を起こしてって言ってくれない?」
「……俺は伝言係じゃない!」
「ううん、私が一時的にそうだって決めたんだから、そうだよ。じゃあ、よろしくね」
「お前らの自信は一体、どこからやってくるんだよ……。まったく」
足元の影から顔を出していたバーデンが、ぶつくさ文句を言いながら、影にまた沈んでゆく。落ち込みつつ、螺旋階段を上っていると、肩に止まった小鳥が美しい鳴き声を披露してくれた。チルチル、ピチュピチュと、朝の冷たい塔に音楽が響き渡る。
「わあ、綺麗ですね……。モリスさんって、どうしてそんなに器用なんですか?」
「昔から僕には魔術しかなかったからね。人と関わるのが苦手で、腕を磨いたんだ。一人で魔術を披露していたら、人が集まってくるかと思ってさ」
「そんな時があったんですね? 意外です」
「……君は昔の僕と似ている。だから大丈夫、保証するよ。君も五十過ぎたら、少しは変わってる」
「ふふっ、はい。ありがとうございます。それで? どうして来たんですか?」
「ああ、禁術について話しておこうと思ってね。でも、大丈夫。朝ご飯の時間を奪ったりしないから」
明日は雨が降りそうだ、とでも言っているような調子で告げてきた。……忘れてた! 禁術のこと。嫌な予感がする。首筋がちりちりする。まるで、レナード殿下と初めて会った時みたい。強制的に、胸が高揚する感じが襲いかかってきた。
「禁術……。モリスさん、一体何を企んでいるんですか?」
「最後の悪あがき、かな。どうにも王妃様の言葉が忘れられなくてね」
「王妃様の言葉が……?」
「そう、しきりに言っていたよ。自分はどうなってもいいから、この子だけは幸せにしたい。自由にさせてあげたいってね。生んだことがないからよく分からないけど……。いやぁ、女性というものはすごいね。子どもを守るために、全部を投げ出してしまうようなところがあるから」
「モリスさんにお子さんはいるんですか?」
「いるよ、可愛くない子どもが四人もね。まあ、僕が仕事ばっかりで、家庭を大事にしなかったことが悪いんだろうけど」
他人事のように言ってるけど、拗ねている感じだった。変なのー、私のお父さんだったら、絶対にそんなことは言わないのに。私のお父さんならきっと、優しい笑顔で「シェリーは大事な娘だよ」って言ってくれる。ユーインと私、どっちが好きなのか聞いてみたら、ひそやかな笑みを浮かべて、「本当はシェリーの方が好きなんだ。でも、内緒だよ」って言ってくれたことがある。目に涙が浮かんできちゃった。ごしごしと強く擦れば、悲しみが薄れてゆくような気がした。
「……お父さんに会いたいです。いいですね、モリスさんの息子さんはいつでも好きな時に会えて」
「どうして息子だけなんだ? 娘もいるぞ」
「娘さんはきっと、お父さんであるモリスさんに会いたくないと思います!」
「……」
待ってて、お父さん。私、いつか失敗したらそっちに行けるから待っててね。また会えたら、公園で一緒にブランコしようね。私がどんなに大きくなっていても、しわくちゃのお婆ちゃんでも、お父さんは可愛がってくれるかなぁ……。死んじゃった人は自由に姿が変えられるって聞いたことがあるから、お父さんが私だって、ちゃんと分かるように、小さい時の姿で会いに行くね。ごめんね、お父さん。
(私、ユーインをちゃんと育てるって約束したのに。仲良くしようと思ったのに出来なくてごめんね、お父さん。普通になれなくてごめんなさい……)




