33.いつも通りの朝とお揃いの気持ち
射し込んできた朝陽で目が覚める。ベッドの上には誰もいなかった。空気がひんやりとしていて、鼻先が芯まで冷え切っている。今、くしゃみをして鼻水が出たら、冷たくなってそう。何も考えずに、ふかふかの枕に頭を置いたまま、じっと天蓋の内側を見つめたけど、薄暗くてよく見えなかった。でも、徐々に深いグリーンの布地が見えてきた。
「……ねえ、バーデン。いないの?」
返事は無い。いないみたい。私、普通の女の子になれるのかな? 昨日したことを思い出して、ぎゅっと手を握り締め、おでこへ拳を当てる。向いてない。知ってた、知ってたよ、バーデン。ユーイン、叔父さん、レナード殿下。私はどう足掻いても、普通の女の子にはなれない。でも、この塔で暮らしていきたい。胸の底にもやもやが溜まっていく。私、どうしたらいいの?
「そうだ、レナード殿下に指示を仰ごう。もう自分で考えて動くの、やめちゃおうかな……」
落ち込みながらも、体を起こす。殿下を起こしに行かなくちゃ。朝ご飯を食べる前に、喋るのが日課になってきた。ベッド近くに置いてあったスリッパに足を入れ、洗面所へと向かう。くすんだ金の装飾で彩られた鏡に、白い陶器製のボウル。床のタイルは白と黒でトランプみたい。洗面台の脇に置いてあったコップ────ホテルのように、白い布の上にガラス製のコップが並んでいる────を手に取り、口をゆすいでから、歯ブラシをくわえる。
鏡に映った私はずっと、不機嫌そうな顔をしていた。頭がぼんやりする。ミントグリーンのレースとフリルがついた、ネグリジェを着た私は私じゃないみたいで、混乱する。なんだか変な気分。まだ慣れない。
(私って、どこに行っても馴染めないかもしれない……。でも、いいや。それで。魚だって陸で呼吸出来ないもの。それと一緒よね)
すぐに肺呼吸なんて出来ないから。すぐに人を殺したことを忘れて、普通になんて暮らせないから、これでいいんだと思う。悩んだって、私が変わるわけじゃないし、根っこは何も変わらないもの。悩めば悩むほど、自分が疲れちゃうだけかもしれない。丁寧に歯を磨いていると、自分の赤紫色の瞳がすぅっと細くなっていった。
(昨日の……フェリテさん? 何だっけ、名前忘れちゃった。殿下の元婚約者の知り合い)
情報を引き出さなくちゃ。でも、意外と気の強そうなところがあったし、仲良くなったら楽しいかもしれない。今日、お手紙を書こう。殿下の元婚約者であるローザ様が今、どうしているのかを知りたい。情報が欲しい、誰にもばれずに密かに。
(……殿下が私のことをいまいち好きにならないのは、誰も寄せ付けないのは、その婚約者さんのことが気にかかってるからじゃないかな、ってエナンドさんが言ってたけど……。一体、どういうご令嬢なんだろう)
私がハウエル家の生き残りだって聞いたら、ものすごく気の毒そうな顔をしていたし、何も知らないふりをして、お手紙を出したら教えてくれるかもしれない。上手に使わなくちゃ、誰にも気取られずに。でも、お友達になっても楽しいだろうな。
ミント味の歯磨き粉を口から追い出すために、冷たい水を口に含む。いつもここの水は、歯茎に染みる冷たさだった。ぺっ、ぺってしたあと、お腹付近のバーにかけてあったタオルで、口を拭いてから、鏡を見つめる。静かに私が見つめ返してきた。うん、大丈夫そう。いつもの私に戻ってる。次はレナード殿下から貰った、淡いピンク色の石鹸に手を伸ばす。花弁や茎が練り込まれていて可愛い。
(今、私が嗅ぎたい匂いってなんだろう……?)
泡立てネットに石鹸をこすりつけ、丁寧に泡立てる。すぐにもっこもこの白い泡が生まれた。手をひっくり返しても、落ちなくて面白い。弾力があってふわふわむちむち。慎重に匂いを嗅いでみると、蜂蜜バタートーストの香りがした。そうだ、この前食べて美味しかったんだ! 表面がかりっと焼けたパンに、染み込んだラベンダーの蜂蜜とバター。よだれが出てきた。今日も食べよう、殿下を起こして。
一生懸命、顔中に泡を広げていたら、ゆっくりとレナード殿下の匂いに変化していった。ベッドに潜り込んで、首元や鎖骨の辺りを嗅いだから、こんな感じの香りがした。フレッシュなオレンジとライムによく似た甘酸っぱい香りと、洗いたてのリネン、汗の匂い。深く吸い込んだら、心臓が羽根で撫でられたかのように、そわっとした。早く会いに行きたい!
乱暴に泡を水で流したあと、タオルに顔を埋めて、化粧水をぶしゃっと噴射する。目に入りそうになった、ちょっと痛いかも……。でも、皮膚から、朝靄がたちこめる薔薇園のような香りが漂ってきた。甘くて爽やかで、瑞々しくて、ほんのり深みもある。両手でぱんぱんと顔に馴染ませたら、終了。
「うん、これでよし! 日焼け止めは……ひ、日焼け止めはあとでにしよう。だって、室内に太陽が浮かんでるわけじゃないもの」
朝起きたら塗るんだよって言われてるから、後ろめたい。逃げるように洗面所をあとにして、部屋に入る。バーデンはまだ帰っていなかった。静かで誰もいない。奥の格子窓から、透明な陽射しが降り注いでいた。ぐちゃぐちゃになったシーツを無言で整えてから、両開きのキャビネットを開けて、黒いニットワンピースを取り出す。
長袖なんだけど、塔の中はこれぐらいでちょうどいい。ここは春の匂いが届かない、冷たくて寒い塔だから。着替えて、黒髪を梳かして、ローファーを履く。微妙に合わないけどいいや、これで。この靴を履いて、出かけるわけじゃないし……。歩いて扉の方へ行き、ゆっくり押し開いたら、一気に冷たい空気が流れ込んできた。自然と背筋が震える。寒い。血管の奥まで染み込んでいきそうな、嫌な寒さ。名前をつけるとしたら、孤独を掻き立てるような寒さよね。これって。
「うーっ、寒い! バーデン? いないの?」
「……俺がいたって、どうせ追い払うだろうが」
「珍しいね、影の中にいるの」
足元の影が、バーデンの形に変わっていた。揺れ動いて、笑い声を上げる。
「王子様と好きなだけイチャイチャしたいんだろ? してこいよ」
「うん。でも、イチャイチャじゃないよ。あれ。殿下が私を好きなようにしているだけだから」
「よく言う、呆れた」
不満そうなバーデンの影をぎゅむって、踏んづけたあと、石造りの廊下を歩いて、螺旋階段を下る。寒い。寒くて震える。ものすごく寒いわけじゃないのに、雪も降っていないのに、しんしんと雪が降っているんじゃないかって、思ってしまうような寒さ。早く会いたい、殿下に。
息を潜め、ゆっくりと扉を押し開く。部屋の中は薄暗くて、ベッドに近付くと、規則正しい寝息が聞こえてきた。こっちに背中を向けている。ローファーを脱ぎ、いそいそとベッドに乗ってみたら、低い笑い声を立てた。
「おはよう、シェリー」
「……起きてたんですね?」
「うん。今、二度寝中」
「ねえ、嫌気が差しましたか?」
「何に? ああ、昨日のこと? 仕方ない、大丈夫だよ。この話はもうやめようか」
「でも、血が出てないのなら大丈夫かなって思ってたんです。傷付けてないでしょう? 私」
「傷付けてないけどね。でも、ああいうことはやっちゃいけない。少しずつでも、分かっていって欲しいんだけどなぁ……」
紺色のパジャマを着たレナード殿下が寝返りを打ち、手を伸ばしてきた。苦しそうな笑みを浮かべていた。……そっか。レナード殿下が落ち込んじゃうから、悩ませることになっちゃうから、自分で考えて行動しないと。もう、ナイフを当てないようにしないと。首の後ろが熱くなった、ひりついている。ぼすんと胸の辺りに顔を埋めれば、不思議そうな様子で頭を撫でてきた。
「どうした? シェリー。大丈夫か? また変なことを考えていないだろうな?」
「はい、大丈夫です。もう殿下を悩ませないようにしますね……」
「ちょっと、いきなりそんなことを言われたら怖いなぁ、って、ごめんごめん! 犬みたいだな!?」
ふがふがと鼻を鳴らしながら、頭を擦りつけると、笑って撫でてくれた。しぶしぶ擦りつけるのをやめて、毛布に潜り込む。毛布の下で優しく抱き締めてくれた。ああ、良い香りがする。眠っていた人の匂いの中に、ほんのりと甘い香りが混ざっていて素敵。頬をゆるめて、深く息を吐き出せば、さっきよりも強く抱き締めてくれた。薄暗いし、寒いし、もうこのまま眠っちゃいそう……。
「ゆっくりでいいから、努力してみてくれ。シェリー」
「はい。昨日、驚いちゃいましたか?」
「うん、もちろん。どうした? 当たり前のことを聞いたりして」
「驚いたって聞いたら、抑止力になるかなって……ふわぁ~あ、もう眠たいです。このままぐっすり眠っちゃいたいです」
「シェリー」
そわそわするぐらい、甘い声でささやきかけてきた。慌てて背中を向けたら、腕を伸ばして、後ろから抱き締めてくる。私の黒髪に顔を埋め、すーっと深く息を吸い込んだ。ぞわっとする、くすぐったい。
「レ、レナード殿下?」
「甘くて良い香りがする。不思議だな、シェリーから前に使ってたシャンプーの香りがするの」
「そうでしょうね……?」
「このまま寝かせたくない」
「でも、眠たいです。一緒に二度寝しませんか? まだ多分、八時にはなってないと思います。七時十六分ぐらいだと思います」
「細かいなぁ、可愛い」
「わうっ!?」
急にレナード殿下が黒髪を掻き分けて、首の後ろにキスしてきた。くすぐったくて、いまだに慣れない……。逃げようかな、どうしようかなと思って、もぞもぞ動いていたら、おかしそうに笑って拘束してきた。
「だめだろ? シェリー。慣れなくちゃ。これはそのための練習なんだからさ」
「しなくてもいいです、お腹が空きました!」
「まあまあ、そう言わずに。昨日の……ヴィオレッタさんだっけ? 彼女と文通するんだろ。俺も手紙を書こうかなぁ」
「……内容によっては、手紙を破り捨てます」
「なんだ、送らないで欲しいって言って拗ねるかと思ったのに。つまらないな」
くすくすと愉快そうに笑いながら、今度は体を起こして、首筋にキスしてきた。吸い上げて、赤い跡をつけようとしている。皮膚に触れる舌の温度と、感触に気恥ずかしくなってきて、毛布の中にくるんと逃げてみれば、笑いながら「シェリー!」と呼んできた。ぽんぽんと、毛布越しに背中を叩いてくる。
「ごめん、嫌だった? もうしないから出ておいで~、シェリー?」
「……信用出来ません! ねえ、殿下。私はきっと一生、普通にはなれないと思います! でも、傍にいて欲しいって、寂しいって思いますか?」
「思うよ。シェリーといると、肩から力が抜けるから」
「昨日みたいなことがあっても? ユーインは……認めたくないけど、私のことが嫌いになっちゃったんだと思います。私がいつまでも、肺呼吸出来ないから」
「肺呼吸? 言っている意味がよく分からないけど、そのままでいいんじゃないかな? 別に。昨日みたいなことはあるかもしれない。でも、それでいいよ。もう」
「どうしてですかっ!?」
「わっ!? きゅ、急に出てきたな……」
毛布から飛び出せば、蜂蜜色の瞳を見開いて、驚いた表情になる。このままだとよくない。ぼんやりそれが分かるのに、どうすればいいのか分からない。開き直ればいいの? それとも何かをする前に、いちいち誰かに聞いたらいいの!? ベールをかぶるようにして、毛布をかぶって立ち上がり、見下ろしていると、レナード殿下がおかしそうに笑った。優しく蜂蜜色の瞳を細め、手を伸ばしてくる。
「変わる時は嫌でも変わるよ。それと、ここに来てから随分と変わったから」
「本当に……? 変わりましたか、私。何も変わっていないような気がするんですが!?」
「まあまあ、落ち着いて。そんなに経ってないのに、随分と変わったから。大丈夫だよ、おいで」
「はい……」
毛布から手を放して、レナード殿下の肩にしがみつく。良い匂い。この匂いが一番好きかも。リネンから移っているのか、パジャマから洗いたての香りが漂ってくる。水の匂いと石鹸の香り、汗の匂い……。ちょっとだけ男性的な香りでほっとする。しがみつきながら、すんすん匂いを嗅ぎまくっていると、くすぐったそうに笑った。
「こらこら。煽ってる? ひょっとして」
「煽ってなんかいません……。お腹が空いたから、殿下の匂いを嗅いで我慢しているだけです」
「どういう意味だ!?」
「お腹が空いている時、良い匂いのものを嗅ぎたくなっちゃいませんか? ついつい屋台の、串焼きの匂いを嗅ぎに行ってしまう時がありまして」
「そっか、俺は屋台の串焼きかぁ……」
「はい。ちゃんと好きって言ってくれない人のことは、好きになりませんから」
「……急に、何を」
レナード殿下がぎゅっと強く、私のことを抱き締めてきた。よく分からないけど、つらそう。どうやったら前みたいに、本心に触れられるのかな? もう一度、絶望した顏が見たい。レナード殿下は整ったもので、繊細な心をコーティングしているような気がする。中に甘いホワイトチョコが詰まってる、とびっきり苦いチョコレートみたい。両目を閉じて、静かに黙っていたら、お腹がぐうぐうと鳴り出した。殿下が背中を震わせ、笑う。
「た、食べに行こうか……。ご飯」
「次、笑ったら殿下のことを無視します!! 殿下の分のご飯も食べちゃいますからね!? いいですか!?」
「うん、ごめんごめん」
「反省してない……」
「してるよ、大丈夫」
膝から降りて離れると、急にキスしてきた。突然、爆発したみたいにキスしてくる。頭を抱え込んだかと思ったら、今度はベッドに押し倒された。こうなったらもう、誰にも止められない。きつく、私の手を握り締めていた。骨張った指が当たって痛い。
(……お腹が減ったなぁ。早く終わって、食べれるようになるといいけれど)
私の首筋に赤い跡をつけたり、噛んだりして、気が済んだ殿下に「一旦、外に出てくれ」と言われたから出る。数分後、黒いタートルネックとズボンに着替えたレナード殿下が出てきた。手を繋いで、一緒にリビングへ行ってみると、もうすでにエナンドさんが起きて支度していた。オレンジがかった赤いニットの上に、黒いエプロンをつけている。ミトンをはめた両手で、グラタン皿を持ったエナンドさんが、こっちを振り返った。お、美味しそう! リビングに、チーズが焼けた良い匂いが充満している。
「あ、おはようございます。レナード様。シェリーちゃんもおはよう、確かグラタン好きだったよね? 食べる?」
「食べます! どうしてグラタンがあるんですか!?」
「俺が作ったからだよ~。昨日のポテトサラダに、ベーコンをぶち込んで、チーズのっけて、焼いただけだけのグラタンだけど、大丈夫?」
「大丈夫です! エナンドさんの手抜きグラタン、楽しみです」
「んっ、んん~……サラダすら上手に作れない子にそれ言われるの、きついなぁ」
コルクで出来た鍋敷きの上に、熱々のグラタン皿を置きながら、苦笑を浮かべる。リビングに入って、ぴたっとエナンドさんの背中に密着しつつ、ふんふんとチーズの匂いを嗅いでみた。
「ごめんなさい! 謝るから、グラタンの一番美味しい部分だけください。おかわり!」
「まだ食べてもいないのに!?」
「エナンドさんの分も食べたいです。チーズが一番美味しいところをください!」
「え~? 俺、女の子には甘いからそうしたいところなんだけどさ、あの、レナード殿下? 視線が背中に突き刺さっているので……」
「俺の分は? あるのか?」
「ありますよ。猛烈にグラタンが食べたくなっちゃいまして。どうせ俺が食べているのを見て、みんなが食べたい、食べたいって言い出すだろうから、人数分作っておきましたよ。ちゃーんと」
お腹に回した私の手を、ぽんぽんと叩きながら言う。レナード殿下がほっとしたように笑い、近付いてきた。
「ありがとう、助かった。それにしても今日は早いな、起きるの」
「あれ? 遠回しに、どっかに行けって言ってます? シェリーちゃんと二人きりになりたかったんですか? 消えましょうか、俺」
「いやいや、そんな必要は無いから大丈夫だって」
にっこりと微笑みながら言うエナンドさんに対して、レナード殿下が負けじと微笑み返す。私がエナンドさんに懐いているのが気に食わないみたい? 試しにひしっと、エナンドさんの腕に腕を絡めてみたら、びっくりして「シェリーちゃん!?」と言ってきた。
「実験です!」
「なるほど。俺が犠牲になる実験ね……」
「……目玉焼きを焼こうと思ってたんだけどなぁ。いらないか、今日は」
「はい! その代わりに、蜂蜜バターパンを作って貰えませんか? あれが美味しかったんです」
「いいよ。パン、どれぐらいの薄さに切る? おいでおいで」
手招きされたから、エナンドさんから離れて駈け寄る。満足そうな笑みを浮かべていた。缶詰やパスタ、コーンフレークなどが入っている木の戸棚から、袋に包まれたパン一斤を取り出す。その間、ぺたっと密着していても嫌がらない。むしろ、嬉しそうに笑っている。虫のようにくっついている私をそのままにしながら、手を洗い、木のまな板にパンを載せた。手にはパン用ナイフを持っている。
「じゃあ、どうする? 今日は。分厚く切るか、薄く切るか」
「ほどほどに分厚く切ってください!」
「えっ、どれぐらい……?」
「んーっと、男性の指二本分ぐらいでお願いします」
「……想像が出来た。自分の想像力の高さが嫌になるぐらいにね」
「そうなんですか? 不思議」
「まあ、シェリーはそうだよな。そうなるよなぁ」
肩をすくめたあと、軽く笑った。後ろから覗き込んでみると、慣れた手つきで指二本分ぐらいの厚さに切ってくれた。それを網に取っ手がついているフライパン……? みたいなものに載せたあと、火持ち棒を掴み、ゆらゆらと揺れている炎へ突っ込んだ。
「あ、ごめん。パン焼き器をのけてくれ、シェリー」
「パン焼き器って言うんですね? これ」
「正式名称は知らない。でも、これでもっぱらパンを焼いて食べてるから、俺達はそう呼んでる」
「なるほど。はい、どーぞ!」
「ありがとう、助かったよ」
コンロの上に火を載せたら、すぐに分裂して小人が現れた。そこへどすんと、乱暴にパン焼き器を載せてみたら、不満そうに「キュッ、キュウ」と鳴き出す。本当にたまーにだけど、この炎は鳴くし、動く。
「ペットが飼いたいですね、レナード殿下……」
「えっ? うん。でも、俺にはバーデンがいるからなぁ。おいで」
「あっ、また浮気してる!!」
「浮気してるとは失礼な。せっかく気を使ってやったというのになぁ」
足元の影からぬっと、黒い手を伸ばしてきて、またたく間に男性の姿へ変わる。レナード殿下に軽く抱きついたあと、黒いカラス姿に変わった。バーデンがふんと胸を膨らませ、レナード殿下の肩に止まる。
「ねえっ、なんでなんでー!? 嫌いだったでしょ、レナード殿下のこと! 今でもちょっとバカにして、王子様って言ってるくせに!」
「おいおい、懐いているように見えるか? この俺様が?」
「見えるもん、だって~……」
「はは、俺の魔力をたまにあげてるんだよ。シェリーと契約していないっていうのは、本当だったんだな」
どこかしみじみと呟いてから、腕を真っ直ぐ伸ばした。意図を察したバーデンが、すかさず腕へ降り立つ。もうレナード殿下のペットみたい! むうっと頬を膨らませていれば、レナード殿下が慌てて「そうだ、パン、パン! 焦げないようにしないと」って言って、ひっくり返すためのトングを手に取った。
「ああ、良かった。焦げてない。蜂蜜は何がいい? シェリー。選んでおいで。そうだ、冷蔵庫からバターも取ってきてくれ。あとバターナイフも」
「はぁ~い……」
「バーデン、そろそろ戻ったらどうだ? 地味に重たいし」
「軟弱な! 俺ぐらい、肩に乗せておけ。シェリーはいつもそうしてるぞ?」
「んー、シェリーはああ見えて筋肉ついてるから。それに、肩が凝ってなくて羨ましい」
「何の話だ」
「いや、俺はさ、肩が凝りがちだからさ……」
「あとで揉んであげましょうか?」
「うん。じゃあ、頼もうかな~」
しばらくしてからテーブルの上にずらりと、エナンドさんが作ってくれたポテトグラタンに、レタスと赤玉ねぎのサラダ、昨日の残りのクラムチャウダーと、蜂蜜バターパンが並んだ。全部のお皿のふちに、赤い花と黄色い花が描かれていて、ちょっとだけレトロで可愛い。珍しく甘いものがとことん摂取したくなったから、飲み物はココアにした。表情がある、白い陶器製のマグカップに淹れてみた。
わくわくしながら見下ろしていると、寝不足なのか目の前に、クマを作ってぼんやりしているカイ(黒いパジャマ姿だった)が座る。隣には、にこにこ笑顔のエナンドさん。私の隣はレナード殿下で、サラダに入っていたミニトマトをフォークで突き刺しながら、不思議そうな顔をする。
「珍しいな、カイがそんな顔をしているなんて」
「昨日……真夜中に突然、こいつに起こされまして」
「えーっ!? お前、シェリーちゃんに起こされたのか! いいなぁ!」
「人の話をよく聞けよ……。真夜中に起こされたって言ってるだろ? 腹に、腹に飛び乗られた……」
「シェリー!? そんなことしちゃだめだろ!?」
「むあっ、むふぇも、わるひらっへ、なひゃんれはのれ……」
「ごめん、まったく分からない。食べてからにしようか」
「ぐっすり眠ったような顔してて腹立つなぁ、こいつ……」
もごもごと口の中に、蜂蜜バターパンを入れながら喋ってみると、レナード殿下が困惑して首を振った。甘くて美味しーい! 直火であぶられ、かりっとしたパンの表面に、ほんのり向日葵の種のような味わいがするバターと、甘くて爽やかなラベンダー蜂蜜が染み込んでいて、とことん美味しい。
表面がよく焼けているのに、中がふわふわで甘いパンを噛み締めるたび、じゅわっと蜂蜜バターが滲み出てくる。舌が喜んでいた。味わいながら食べていると、エナンドさんがげっそりした様子のカイを肘でつついた。
「なあなあ、何も無かったのか? シェリーちゃんと!」
「強いて言えば、腹に三回飛び乗られた。俺が動揺して、砂に変わるのが面白いらしい」
「……俺の毛皮とお前の砂ボディ、どっちが上だと思う? あれかな、シェリーちゃんは砂派なのかな?」
「問答無用で、お前の部屋にぶち込んでやれば良かったよ。あーあ、飯食うか」
「エナンド? シェリーを狙わないって約束したよな?」
「も、もちろんですよ。でも、レナード様が煮え切らない態度で、つい」
「……俺がシェリーのことを好きになっていないんじゃなくて、シェリーが俺のことを好きになっていないんだ」
その言葉に、ぴたっと手が止まる。どうしよう? 蜂蜜バターパン、後回しにした方がいいかな……。レナード殿下を振り返ってみると、寂しそうな微笑みを浮かべていた。本心に触れたいって、誰よりも思っているのはレナード殿下なのかもしれない。そう思わせるぐらい、寂しそうな笑顔を浮かべていた。
「好きですよ、蜂蜜バターパンよりかは!」
「まあ、シェリーの本心なんて誰にも読めないか……」
同じことを考えていたんだ、私達。それが嬉しかったから、もうこれでいいかな? って思えた。でも、朝ご飯を食べたあと、しこたま怒られた。ローザ様のことを調べる前に、カイに告げ口させない方法を先に調べた方がいいかもしれない……。




