29.エナンドの大したことない秘密とハーブコスメ
コロナになったので、治るまで更新休みます
レナード殿下がスーツ姿の綺麗な女性と一緒に、応接室へ入っていった。そわそわして、部屋中を歩き回る。扉一枚、隔てた向こうで喋ってる。それだけ、それだけなんだけど……。しなやかに伸びた蔦と百合の花が描かれた絨毯はふかふかで、パンプスを履いた足に優しかった。
いつもと違って、黒髪をまとめてるから落ち着かない。首筋がスースーする。綺麗なライラック色のワンピースに、淡水パールのイヤリングと、贈って貰った蜂蜜色の宝石がついたネックレス。それに合わせて、殿下が必死で見つけ出した試供品の、淡いピンク色のグロスを塗ってくれた。べたべたで気持ち悪い。でも、くちびるがつやつやで可愛いよって言って貰えたから、舐め取らずに我慢している。
本当は子犬が鼻を舐めるみたいに、べちょべちょと舐め取って解放されたい。時間が経てば、べたべたが落ち着くからって言われたけど、本当かなぁ? ゆったりと肘掛椅子に座って、待機しているエナンドとカイの方を見てみる。奥の細長い格子窓から、さんさんと眩しい陽射しが降り注いでいた。金色のフリンジがついた深紅のカーテンに、昔から使われてきた重厚感のある、アンティーク家具の数々。天井はびっくりするほど高くて、百合の花の形をしたシャンデリアが吊り下がっていた。
「ねえ、気にならないの? 二人は。もしかしたら、殿下が暗殺されちゃうかもしれないのに?」
「それはねーよ。……あの方の血には、途方もない利用価値がある。気の毒なことだけど」
「じゃあ、どうして前の王妃様は暗殺されちゃったの? おかしいでしょう、その理論でいくと」
「大丈夫だよ、シェリーちゃん。そう心配しなくてもさ。前の王妃様が暗殺されてしまったのは、レナード様がいるからだし。替えがきくからだね、ようするに」
「……全身の血だけで、何百人と救えるんだろうなぁ。いや、何千人か?」
「よせよ、カイ。そういう血なまぐさい話はお断りだ」
双子のように見える二人が、ひそひそと小声で何かを話し合った。仲良く並んで、椅子に座っている。お揃いの黒いジャケットに白いシャツ、黒いスラックス。ちゃんとしたボディガードに見えた。眩しい陽射しが降り注いでくる部屋の中で、ぼんやりとたたずみ、話し合っている二人の姿を眺めていると、おもむろにこっちを振り返った。さすがのカイも、今日は顔を隠していなかった。砂に変身する予定が無いからって言って。
「おい、シェリー。うろちょろ歩き回っていないで、こっちに来い。クッキーだの、パイ菓子だの、食うっつって張り切ってただろ?」
「うん……。でも、レナード殿下のことが気になるから」
「まあまあ、おいでよ。シェリーちゃん。普段はじっくり話が聞けないからさ、話を聞かせて欲しいなぁ」
まるで野良猫を誘うように、手招きをした。じっと見つめれば、真意がうかがえない笑みを浮かべる。しぶしぶ二人の方へ行って、向かいに腰掛けた。今日は落ち着かない。ぴったりしていて綺麗なワンピースを着せられたし、動き辛くて窮屈なパンストを穿かされたし、くちびるにべたべたを塗りたくられちゃったし……。ふうと溜め息を吐けば、エナンドが壮大な景色を見た時と同じ、感嘆した表情を浮かべる。
「いやぁ、本当に女性ってメイクと服装で変わるよなぁ。そうは思わないか? カイ。シェリーちゃん、すっごく綺麗だよな?」
「……どうして俺に話しかけるんだ? 聞くなよ、そういうことは」
「だって、シェリーちゃんに襲われかけたんだろ? 羨ましいなぁ! あれからどうですか? 心境の変化はって、いって!! ごめんごめん、悪かったから」
「絶対思ってねーだろ。次言ったら、目の前で砂に変身してやるからな? 覚えとけよ」
カイが不機嫌そうな顔をして多分、エナンドの足を蹴り飛ばした。エナンドが身をかがめて、自分の足を擦り、嫌そうな顏になる。
「うへぇ、勘弁してくれ。怖いじゃん? は、鼻の骨とかさ、見えるの……」
「ほんの一瞬だけなんだから、見なきゃいいのに」
「俺は幻獣だから、動体視力が良いの! 繊細なの!!」
「きめえ、ちょっと黙れ」
二人がわちゃわちゃと騒ぎ出した。私のことなんてどうでもいいみたい。明るいところで変身するのを見たことがあるけど、頭蓋骨をチラ見せしている感じだった。エナンドの言う通り、人の体が崩れ落ちて砂になる瞬間、鼻の骨も見える。すっかり冷めて、ぬるくなってしまった紅茶を飲むと、焦る気持ちが静まっていくような気がした。
「ねえ、エナンドさんは変身しないの? 私、見てみたいです」
「んっ、んん~、シェリーちゃん、動物は好き?」
「好きですけど。特に猫ちゃんや子犬ちゃんが好きです」
「じゃあ、俺のことも好きになってくれるかもなぁ~」
「やめとけって。レナード殿下から禁止されてるんだろ?」
「やれやれ、まったく。俺の毛皮がご自分の魅力をしのぐと思っているらしいよ? 俺としては良い勝負だと思ってるんだけど」
「この毛皮バカめ」
吐き捨てるように言った。エナンドが素知らぬ表情を浮かべ、まるでホテルでお茶をするマダムのように、紅茶を品良くすする。私がここへ来て一週間以上経つからか、ようやく打ち解けてくれた。……また、扉の向こうが気になって見つめる。ぴっちりと閉じられた扉は木製で、艶やかな輝きを放っていた。
絶対あれ、誰かが毎日磨いでいると思う。だって、虫の背中みたいにぴかぴか輝いているんだもん。私も真似して、ティーカップを持ち上げ、紅茶を飲んでみる。美味しい。でも、味がしなかった。口当たりだけは良くて、喉の奥へ滑り落ちてゆく。並べられたジャムクッキーも、チョコ味のラングドシャも食べる気にならない。
「レナード殿下のことが気になります。あと何分ぐらいで終わるんでしょう?」
「ん~、いつもは大体一時間半から二時間ぐらい? 結構話し合ってるよなぁ。カイ?」
「うん。まー、暇なんだろうけど、待っとけ」
「あれだろ。シェリーちゃん、レナード様と距離が近かった、あの美人なお姉さんを気にしてるんだろ? 今頃書類じゃなくて、お互いの顔を見つめ合ってたりして~。はは……って、ごめん!! やめよう、一般人だし! 相手! やめよう!?」
私が無言で椅子から立ち上がれば、エナンドが慌て出した。変なの、様子を見に行くだけなのに。眉をひそめ、無言で睨みつけていると、焦ったような笑みを浮かべ、「落ち着こうか? シェリーちゃん」と言ってくる。カイは静かに片眉を上げていた。光が入ると、銀色に見えなくもない瞳が睨みつけてくる。おまけに、えらっそうに足を組んでいた。
「何もしに行きませんよ、大丈夫です」
「クッキー! クッキー好きだよね!? そ、それか俺が元の姿に戻るから、背中に乗って遊ぶ?」
「禁止されてるだろ? やめとけって。何回も言わせんな」
「カイは真面目すぎるんだよ! ばれなきゃいい話だろ? それに悪いことするわけじゃないんだし」
「レナード様に強く睨まれて、ぴーぴー泣いてたのはどこのどいつだ? 今度は仲裁してやらないからな」
「……あー、だもんなぁ。カイはシェリーちゃんに襲われかけてからというものの、レナード殿下との仲に亀裂が入ってるもんなぁ」
わざとらしい口調を聞いて、カイがぴくりと動いた。レナード殿下は嫉妬深い。だから、私がエナンドと遊ぶのも嫌がっている。……それに毎日、私に首輪をつけていた。今日はさすがにつけなかったけど、毎朝絶対につけられる。溜め息をつけば、胸元でブローチのふりをしていたバーデンがぴょんっと、床に飛び降りた。
絨毯の上で黒い羽根のブローチが震え、またたく間に一人の男性へ変化した。おしゃれしたい気分なのか、燕尾服に身を包んでいる。バーデンがいたずらっぽい笑みを浮かべながら、黒い紳士帽を取った。ご丁寧に、ステッキまで持っちゃって。
「そんなに暇なら、盗聴でもするか? シェリー」
「ううん、いいの。大丈夫。そんなことよりも、無理やりエナンドさんを元の姿に戻してくれない?」
「えっ!?」
「可能は可能だが……。この上等な燕尾服に、毛がつくのだけは避けたいな」
「シェリーちゃん、変身してあげよっか? その代わり、レナード殿下には内緒にしててくれる?」
「いいですよ。じゃあ、内緒にしてあげます」
「なんで上から目線……?」
「だって、私が頼んだわけじゃないでしょ? だからです」
勝手に変身するって言ったんだから、私が丁寧にお願いする必要なんてどこにもないもん。待ちくたびれて、拗ねながら首を傾げれば、急にでれっとした顏になる。
「いいねえ、シェリーちゃん! いくらでも変身してあげるよ、それじゃ」
「……おい。知らないからな?」
「しつこい! 大丈夫だって、ばれなきゃいい話なんだしさ」
「あーあ。そういうところがあるよなぁ、お前って」
「早く早く!」
「なんだ、つまらん。俺が遊んでやる必要はないのか……」
バーデンが言葉通り、つまらなさそうな顔をしながら、白い煙へと変わっていった。煙の中を通って、にこにこ笑顔のエナンドの下へ行く。赤い髪にグリーンの瞳。顔立ちは整ってるけど、軽薄だから惹きつけられない。レナード殿下はどうして、あんなにも吸い込まれそうな蜂蜜色の瞳をしてるんだろう。エナンドには吸引力が無いと思う。
「じゃあ、変身して貰えませんか? 私、何だかんだ言ってエナンドさんが変身しているところ、見たことありません」
「……いいねえ、やっぱり。そうしているのを見ると、どこかのお嬢様みたいだよ。シェリーちゃん」
色気が滲んだ笑みを浮かべながら、こぼれ落ちた黒髪を掬い上げる。とっさに手首を掴んで、捻り上げちゃった。エナンドが「いたたたっ!?」と叫んだ瞬間、我に返ったけど。
「あ、ごめんなさい。つい」
「つ、つい……!?」
「いつもならそうですね? このあと、首の後ろにナイフを突き刺します。叔父さんがケチだから、銃じゃなくてナイフを使えって言うんですよ。銃弾代がもったいないんですって」
「分かった、ごめん!! 俺が悪かったから!」
「……あーあ、懲りないやつだなぁ」
カイがさくさくと、ラングドシャを食べながら呆れた顏になった。殺しても意味がないから、ぱっと手を放す。エナンドがつんのめって、転びそうになった。慌てて体勢を整えてから、恨めしそうな顏になる。
「だめですよ? 体幹が出来てないですね。殿下の護衛たるもの、体幹ぐらい鍛えておかなくちゃ」
「た、戦う時は大体、元の姿に戻ってるから……。ごめん、嫌だった?」
「微妙に嫌でした。次、やったら腕の骨を折ります」
「あっ、うん。ごめん。じゃあ、変身しようかな……」
文句を言いたそうにしてたけど、ふいっと目を逸らした。浅く息を吐き出してから、黒いジャケットの襟を正す。幻獣はぱっと見て、幻獣だと分からない。獣人だと耳や尻尾が出てるけど、幻獣は出ていない。中には変身した時に、目と毛の色が変わる幻獣もいる。用心深く見つめていたら、白い霧に包まれた。
鼻先が冷たくなる。ひんやりした、空気が。とっさにナイフを掴もうと思ったんだけど、諦める。今日はどこにも仕込んでいないし、傷付けちゃだめ。エナンドのことは傷付けちゃだめ。自分に言い聞かせていると、あっという間に、一人の男性が大きな獣へと変身する。赤い。赤い毛並みの大きな獣。耳は丸っこくて、足には飾り毛が生えている。胸元には、ふさふさのオレンジと赤が混じった毛が生えていた。メスライオンをオスにして、赤とオレンジにした感じ……?
「なんだ。幻獣って言うから、もっと幻想的な感じだと思ったのに。つまんないの!」
「つ、ま、つまら……」
「おい、傷付くからやめてやれ! 何でも、触った時の質感が自慢の毛皮なんだとよ」
「へー。じゃあ、触ってみようかな?」
レナード殿下がずっと、綺麗な女性と部屋で二人きりだからイライラしちゃう。ショックを受けて呆然とたたずんでいる、赤いメスライオンみたいな、エナンドに近付いて手を伸ばしてみたら、びっくりした。確かにすごい! 触れた瞬間、しっとりとしていて、極上の毛並みだっていうことが分かった。よく見てみれば、毛の一本一本が輝きを帯びている。手触りに夢中になって、両手でしっかりもふもふしていたら、自慢げにふふんと胸を張った。
「な? 俺の毛並みは美しいだろ? シェリーちゃん!」
「はい。そうでもないように見えるのにまるで、シルクに触ってるみたい……」
「そうでもないように……。シェリーちゃん、悲しいよ。俺。こんなに尽くしてるのになぁ、日頃から!」
触ったことないけど、洗いたてのシルクってこんな感じなのかな? って思わせるような手触り。なめらかで、しっとりとしていて、指先を毛皮の奥まで埋めれば、ひんやりとする。夢中になってしまって、太い首に腕を回し、豊かな赤い毛並みに顔を埋めてしまった。頬がつやんとしていて、うっとりしてしまうほど、艶やかな毛に包まれる。
「はーっ……気持ちいい! ねえ、乗ってみてもいいですか? エナンドさん!」
「どうぞどうぞ」
「あ、カイは何か面白い話をしてくれる?」
「は?」
「それか砂に変身してみてよ。今、つまんないの!」
「お前、レナード様に甘やかされすぎじゃねーか? 言えば叶うと思いやがって」
「だって、バーデンがそうなんだもん。カイが私に合わせてくれたらいいんじゃない?」
「幼少期の環境が影響してるのか……」
バーデンとはもう少し大きくなってから会ったんだけど、教えてあげない。ふんだ! エナンドの背中に乗って、つんと顎を逸らせば、やらなくてもいいのに空中に花火を咲かせた。音が出ない花火で、ティーカップやポットの上に、色鮮やかなグリーンや赤の花火が炸裂する。
小さい花火が、何度も何度も花開いた。カイを見てみると、鬱陶しそうな表情を浮かべ、手のひらを上に向けている。エナンドは私を喜ばせようとしているのか、徐々にスピードを上げて、部屋の中をぐるぐると回り出した。
「あーあ、退屈! つまんない、帰りたい」
「っおい、ここまでさせておいて……!!」
「早くレナード殿下、出てこないかなぁ。ねえ、いつ出てくると思う?」
「さあ、いつだろうねえ。もうちょっと待とうね、シェリーちゃん」
「はーい……」
不貞腐れながら遊んであげていると、出てきた。物音を聞きつけて、エナンドが素早く私をおろし、人の姿に戻る。待っていると、茶髪をゆるくおろした綺麗な女性が出てきて、にっこりと微笑んだ。青い瞳に柔らかい茶髪を持った女性で、グレーのスーツを着こなしている。
女性がすぐに扉を支え、レナード殿下が出てくるのを待つ。体が弱い王子様のふりをしたレナード殿下が、ゆったりと出てきた。清潔感あふれる装いで、かっちりと上までボタンを留めた白シャツの上から、薄いペールグリーンのジャケットを羽織っている。下は細身のジーンズ。女性らしさを感じさせるような服装なのに、不思議と王子様らしさが漂っていた。あれかな、爽やかだから? 私と目が合った瞬間、ふっと微笑む。
「お待たせ、シェリー。待ちくたびれただろ?」
「い、いえ、大丈夫でした! のんびり過ごしてましたよ」
「のんびり……? のんびりねえ」
「まあ、あながち間違っちゃいないな。俺達が疲れただけで、本人はのんびりしていただろうとも。ああ、そうだとも」
「何か言った? カイ、エナンドさん」
微笑んで振り返ってみたら、二人とも、黙って視線を逸らした。もーっ、余計なことは言わないで欲しいのに! レナード殿下が笑って、駈け寄ってきた私の腰に手を添える。
「そっかそっか。飽きただろ? じゃあ、庭園でも散歩して帰ろうか」
「はい! そうしましょうか」
「ああ、でも、待って。さっきは紹介出来なかったら、紹介したい。シェリーに合いそうなコスメとスキンケア用品を選んで、持って来てくれたバートンさんだよ。こちら、俺の新しく出来た恋人のシェリー。可愛いでしょう」
曖昧な笑みを浮かべた女性が会釈して、名乗ってくれた。名前はクラリス・バートン。目鼻立ちがはっきりした美人なんだけど、柔らかい雰囲気と色気を併せ持っていた。さりげなく私の全身を眺め回したあと、青い瞳が鋭くなる。でも、一瞬だけだった。私と目が合った瞬間、にっこりと微笑んでくれた。最初から睨みつけてきたカイよりはましで、尖っていた神経が少し落ち着いてゆく。
「よろしくお願い致します、シェリー様。それにしても、レナード殿下は女性に大人気ですね。ついこの間、子爵家のご令嬢と破局なさったばかりですのに」
「……付き合っていたと思っているのは彼女だけじゃないかな? 実際は違う。付き合ってもいないし、別れてもいない。知り合いの一人だ」
「さようですか」
それ以上、何も言えないみたいだった。曖昧な微笑みを浮かべたまま、別れの挨拶をして去っていった。ほっとエナンドが胸を撫でおろす。
「レナード様……!! ひやひやしましたよ、もう、俺は。目の前でああいったことをして欲しくないんですけど?」
「仕方がない。恋人がいるって言ってるのに、言い寄ってくる向こうが悪いんだ」
「……やっぱり、そうなんですか?」
「ああ、大丈夫。見え透いた口説き文句に引っかかるつもりはないよ、シェリー。どうせ王妃様か父上の息がかかってくるんだ。言い寄ってくる連中、全員が金を握らされているのかと思ったらぞっとするよ。あー、疲れた」
うんざりとした様子で溜め息を吐いて、私に抱きついてきた。背中に手を回してみると、肩に顔を埋めてくる。そんな様子の私達を見て、エナンドが棘のある声で言い放った。
「でも、レナード様はつまみ食いしてますよね?」
「……まあ、二、三回は? 大丈夫、避妊薬を盛ってるから」
「つまらないなぁ。もう少し慌てるかと思えば」
「シェリーの目の前で慌てたって、無意味だろ?」
真意がうかがえない声で言う。でも、やっぱり言い寄られてたんだ。むかつく。とりあえず、レナード殿下の胸元を押し返しておいた。嫌な気しかしないから。すると、レナード殿下が面食らった表情を浮かべる。
「どうした? シェリー。暇だったからか? それとも、俺が女性と二人きりだったから?」
「両方です」
「両方かぁ、シェリーらしい。そうだ、俺が監修を務めた石鹸やコスメがあるから見てくれ。気に入るものがあるといいんだけど」
「じゃ、俺達は外で待機してますねー」
「よろしく」
カイだけが律儀に「失礼します」と言って、部屋から出て行った。扉が閉まった瞬間、レナード殿下が機嫌良さそうに笑う。つけているネックレスの宝石と同じ、蜂蜜色の瞳。宝石とは違って、いきいきと輝いている。私の手をうやうやしく取って、入っていた部屋に案内してくれた。
大きな深紅のソファーが一つと、肘置きがついたソファーが二つ、低いテーブルを挟んでいる。テーブルの上には、綺麗に包装された石鹸やコスメ用品が散らばっていた。まるで、一つ一つじっくり検分したみたい。ぼんやり眺めていると、レナード殿下が進むようにと促してきた。一緒にソファーへ座る。目の前にまず、並べられたのは石鹸だった。
私が毎日、水で顔を洗ってるから。ボディソープで洗えばいいんじゃない? って言ったんだけど、止められた。金色の文字で“第一王子のハーブコスメ”と、社名が記されている。固くてほんのり冷たい石鹸を持ち上げれば、真ん中に記された、金色の文字がきらりと光り輝いた。柔らかなクリームイエローの包装紙に、白い花々と蜜蜂の柄がプリントされている。可愛くて綺麗。しげしげ眺めていれば、殿下が嬉しそうな声で説明してくれた。
「それは代々、妖精達が自分の肌を整えるために使っていた花なんだ。ニキビや肌荒れにも効く。その花と、妖精達が採った蜂蜜を使ってる」
「へえ……。でも、時々しかニキビは出ません。普段使いには向かないですよね?」
「いやいや。でも、シェリーには香りが良くて、美白効果があるものがいいかな? 誰しも香りに酔うって言われてる花があって、それを使った石鹸はどう?」
「誰しも酔う?」
「そう、その人の好きな香りに変化する。昔は媚薬にも使われていた。傾国の美女だったルシルが発見して、栽培してたから、ルシルって言われてるんだけど。はい、これ」
どこかはしゃいでいるように見えた。深い赤紫色の包装紙に、ふちがピンク色の真っ白い花が描かれている。花弁は肉厚で重なっており、中央にある丸いめしべは赤紫色、立ち並んだおしべは淡いピンク色だった。どことなく妖艶な雰囲気のお花。鼻にくっつけて嗅いでみると、鉄臭い匂いがした。血の匂いがする。
「……でも、私、血の匂いなんて好きじゃないんですけど」
「血の匂いが!? おかしいな、その時嗅ぎたい香りがするって話だけど……あ」
「さっきの女性を殺したいって思っていたからですかね? 出来ないから気付かないようにしてたんですけど、石鹸にはばれていたみたいです」
「俺と二人きりで話していたから?」
「それもありますけど、違います。今、レナード殿下に近付く人間は全員排除したい気持ちなんです」
「物騒だな……」
自分でも、イライラしてるのが分かる。なんで? どうして。もう一度すんっと嗅いでみれば、甘ったるい匂いがした。それと紅茶の匂い。あ、クッキーが食べたいなと思っていたら、バタークッキーと蜂蜜、渋みのある紅茶の香りへと変化していった。ふんふんふんと、必死で石鹸を嗅いでいたら、レナード殿下が勘違いして慄く。
「そ、そんなに血の匂いが嗅ぎたかったのか……」
「違います! 今はバタークッキーの良い香りがします」
「なら良かったけど……。じゃあ、石鹸はそれにしようか。次は化粧水だな」
「化粧水」
「大丈夫、ハーブウォーターだから。さっぱりしたものを選んで貰った」
レナード殿下が倒れているコスメ用品に手を伸ばして、あるガラス瓶を手に取った。綺麗だった、香水瓶にしか見えなかった。底は少しだけ濃いピンク色で、蓋に向かうにつれ、淡いピンク色になっている。濃淡があって美しい。薔薇の色でも、誰かのくちびるの色でもない。
例えるのなら夕暮れ時、ピンク色に染まった空の色。端が徐々にピンク色に染まっていって、星々が夜を告げる。脳内で鮮やかに、夕暮れ時の空が浮かび上がってきた。しかも、淡いピンク色のサテンリボンまで巻かれている。中の液体はかすかに、銀色に煌めいているように見えた。
「こっ、これにします! 綺麗……」
「これ? 意外だな。俺としてはフレッシュな香りのローズマリーと、シトロネラと」
「いらないです。なんとかネラよりも、こっちの方がいいです!」
「……なら良かった。それは聖女の花と呼ばれているエレノアローズをふんだんに使った化粧水で、約五十本ほど入ってる」
「五十本ほど!?」
「そう。気に入るなんて意外だったな。一応見せてみようと思って、見せただけなんだけど」
「これにします!」
「分かった、好きにすればいいよ」
ひしっと胸元で抱き締めれば、苦笑した。気に入らないのかな? でも、私はこれがいい。そのあと、フォーム状で出てくる日焼け止めを勧められた。面倒臭がりの私にぴったりで、しゅわしゅわっと、肌に泡を馴染ませるだけで完了する。
他にも美味しそうなチョコの香りがするリップクリーム、薔薇の花にキスをするだけで、くちびるが赤く色づく口紅とか、色々あった。どれもあんまりそそられなかったけど、良い香りがするものばかりだった。嬉しい! 腕いっぱいにコスメ用品を抱えて、部屋に帰ると、バーデンがベッドに寝転がって雑誌を読んでいた。雑誌から目を離さず、口にする。
「おかえり、シェリー。どうだった?」
「コスメを沢山貰った! ねえ、良い香りなの。全部! 明日から、ううん、今日からこれを使うんだ」
「……幸せか? シェリー。今は」
雑誌を胸元に置いて、問いかけてきた。真剣な赤い瞳をしている。幸せ? 幸せってなんだろう。ユーインがいることが幸せだったんだけど。あと、ごくたまに叔父さんの奥さんに連れられて、パフェを食べに行くのが楽しかった。フルーツが沢山載せられたパフェ。
腕の中からごろりんと、ファンデーションが転がり落ちた。中には折りたたんだシートマスクが入っていて、それを顏に乗せて待つと、顏の隅々までファンデーションが行き届いて、肌に馴染むんだって。バーデンにそう言おうって、思ったんだけど、言葉が出てこなかった。じっと、私が何か言うのを待っている。
「……本当の幸せは壊れちゃったの。お父さんとお母さんが死んじゃった時に。だから、今は偽物の幸せなんだけど、幸せ。だって、レナード殿下が毎日目玉焼きを焼いてくれるから!」
「そっか。ならいい。お前を連れて、あいつのもとへ行こうと思ったんだが」
「何それ? あいつって?」
「聞けば泣くぞ~、あいつ。いやぁ、泣きはしないか。どうせ澄ました表情でシェリーがそう決めたのならいいって言うだけだな」
「誰? あいつって」
私が腕にコスメを抱えたまま、ベッドに飛び乗ってみると、バーデンがせせら笑った。熱心に雑誌を見ている。腕の中から何個か、コスメが転がり落ちていった。
「内緒。会いに行くか? でも、二度とここへは戻ってこれないぞ」
「……ちょっとだけ、遊びに行くとか出来ない? 日帰りとか!」
「だめだ、手放して貰えない覚悟で行かないと。あの王子様にはもう二度と会えない」
「じゃあ、いいや。行かない! ねえ、バーデンって私の味方なの? それとも敵?」
「決まってるだろ? 俺はシェリーがシェリーでいる限り、味方だ。ああ、つい、喋りすぎてしまったなぁ……」
にっと笑って、また雑誌を読み始める。……考えるのはやめよう。バーデンと私は他種族で、一生分かり合えないんだから。




