2.血が映えそうな白い肌を持った、私の王子様
かろうじて陽が射し込んでいる、薄暗い部屋の椅子に、その人は腰かけていた。さっきまで王妃様がいたのか、アンティークらしき丸テーブルには茶器が並んでいる。空になったティーカップに、食べかけのスコーン。真っ白なテーブルクロスに散ったお菓子の欠片と、使われていたであろうスプーンとフォーク。
誰かがいた形跡が残ってる。まじまじと見ていたら、王子様が苦笑した。逆光で顔がよく見えない。灰色がかった、上質な青いスリーピースを着ている。顔はよく見えなかったけど、この綺麗なスーツにぴったり、似合う顔立ちをしているんだろうなと思った。呆気に取られていれば、隣に立っていたモリスさんが一歩前に進んで、軽くお辞儀をした。
「レナード殿下、申し訳ありません。お疲れのところを」
「いや、いい。大丈夫だ。王妃様にはまた同じことを言われたよ。それで? どうしたんだ? お前がそんな年の子を連れているだなんて珍しい」
「王妃様のご命令でして……。新しい護衛を増やせと」
「ふぅん。護衛ねえ」
金色に輝くジャガード織りのカーテンに、びっくりするぐらい、高い天井と豪華なシャンデリア。華やかな装飾がほどこされた椅子とテーブルに、カウチソファー。古い空気と紅茶の香りが漂っていた。窓からの陽射しでさえも美しい。うっとりしてしまうほど、繊細なレースカーテンのおかげかもしれない。優美な植物文様が描かれた、絨毯の上にレース柄の光が落ちている。これら全てがまるで、夢のようでぼうっとしちゃう。綺麗。言葉では言い表せないほど、綺麗。写真を撮ってみたい……。
「シェリー? ほら、ご挨拶を。レナード殿下だよ、今日からお仕えする」
「ちょっと待て、モリス! 勝手に決めるな。それにしても、こんな可愛い子が護衛だって? 俺の?」
褒められてる気がしなかった。どちらかというと、バカにしてるみたい? 私がむっとしていると、鷲姿のバーデンが呼応して、「ギャアッ、ギャアッ」と鳴きながら翼を動かした。それを見て、また笑う。
「ああ、そうか。人外者が俺の護衛をするのか。それとも魔生物? 幻獣?」
「いいえ、バーデンは人外者です。銀等級の。そして、護衛をするのはこの私です! こう見えて強いんですよ?」
「どのくらい?」
「どのくらい……」
「シェリーはあのハウエル家の子供ですよ。生き残りです」
「なんだって? ハウエル家の?」
「ご存知なんですか? 殿下」
聞いてみると、居心地悪そうに身じろぎして「多少は」と呟いた。多少……。私、あの家で何があったのか知らない。知って、パズルのピースをかき集めたって意味がないもん。やることをやるだけ、人を殺すだけ。現実は何も変わらない、何かを知ったってね。足元に視線を落としていると、王子様が軽く溜め息を吐いた。
「生き残りというよりかは、粛清した側の子供だろう? それともまさか、知らないとか?」
「はい。シェリーには何も教えていないそうです。……ご安心ください、レナード殿下。強さは僕が保証しますよ」
「まいったな。厄介な子を連れてこられた……」
「厄介……」
どこに行っても、そんな扱いをされる。ユーインだけだったのに、私の傍にいてくれるのは。一緒にいて落ち着くのは。胸元をぎゅううっと、握り締めていれば、モリスさんが苦笑して一歩下がった。
「ご理解ください、レナード殿下。これも王妃様の指示なんです」
「ふぅん、子供は作らないと言っているのに……。何をどう言えば、諦めてくれるかな?」
「無理でしょう。頑固で生真面目な御方ですから」
「本気でそれが、人のためになると思っているらしい。……ああ、すまない。お前の前で言うことじゃなかったな? 許せ」
「いえ……。ただ、その血を絶やすのはあまりにも惜しい。もう、殿下お一人だけなんですよ。この世で癒しの血を持つ人間は」
「探せば、同族がまだどこかに潜んでいるかもしれない。それで? この子を連れて帰る気は?」
「ありません」
振り返ってみると、モリスさんがにっこり微笑んでいた。怖い……。圧を感じる。慌てて王子様を見てみれば、同じくにっこりと微笑んでいた。甘い微笑みなのに、目が怖い。ここでようやく、目が慣れてきて見えた。焦げ茶混じりの黒髪に、澄んだ蜂蜜色の瞳。宝石がはめこまれているみたいだった。そして、ゆるやかに弧を描いたくちびると端正な顔立ち。
(この人は……まるで、王子様になるために生まれてきたみたい。綺麗。こんなに綺麗で、王子様らしい人は見たことがない)
白くてなめらかそうな肌に、時折、見せる不遜な表情。堂々とした佇まいはいかにも王族といったところで、目の前でひざまずく人間を見ても、眉一つ動かさないんだろうなと思った。品の良さに圧倒されてしまう。凝視していると、いきなり目が合った。心臓が軽く飛び跳ねる。どうしよう? 大丈夫かな……。
「分かった。じゃあ、面接する。お前はもう下がれ、モリス」
「ありがとうございます、レナード殿下。それでは」
「あっ、モリスさん。ま、待って……」
私には荷が重いような気がする! 品定めするわけじゃない、不思議な眼差し。見つめられると、自然と鼓動が速くなる。手を伸ばして、ローブの端を握り締めれば、銀縁メガネの向こうにあるグリーンの瞳を細めた。
「大丈夫。殿下は優しい方だから、懐に入ればこっちのもんだよ。頑張れ、シェリー」
「あっ、は、はい……」
そ、そんなこと言われるとそれしか言えない~……!! 泣きそうになっていると、バーデンが面白がって「じゃあ、またあとでな」と言い、消えちゃった。ぼふんと白い煙が上がる。ああ、どうしよう? 二人きりになっちゃった。面接って一体何を話せばいいの? 受けたことないから、よく分からない。森の中でたわむれる雌鹿と乙女の絵が彫られた、美しい扉の前で立ち尽くしていると、背後の殿下が笑った。
「怖がらなくてもいい。こっちにおいで? シェリー」
「は、はい……」
子供を宥めすかすような、甘い甘い声。それなのに、低くて心地良い。この人が神様から貰ったギフトの中で、一番良いのは声に違いない。そう思っちゃうぐらい、ずっと聞いていたい声だった。おそるおそる、足を進めて近付けば、よりいっそう笑う。何が面白いんだろう? そんなに。聞いてみたいような気がするけど、怖くて聞けない……。
この現実離れした空間が、私を萎縮させている。傍に立つと、蜂蜜色の瞳でまっすぐ見上げてきた。綺麗。びっくりするぐらい、顔が綺麗に整ってる。何も言えないでいると、そっと優しく、私の両手を握り締めてきた。
「シェリー。分かっているか? 自分がこれから何をするか」
「わ、分かってます……。私はもう、人を殺さないって決めたんです。ユーインに嫌われちゃったから」
「ユーイン? 恋人?」
「いいえ、弟です。あと、私は誰ともお付き合いしたことありません。殿下はそういう女性がお好きなんでしょう? モリスさんがそう言ってました!」
「……」
「あれ? 違いましたか? でも、経験豊富な女性が嫌いって聞いて、」
「違う、誤解だ。俺はただ、この血をもう絶やそうと思っているだけ。我が子に俺と同じ思いをして欲しくない」
「俺と同じ思いを……?」
ぱっと手を離して、自分の額に手をあてる。でも、もう片方の手はしっかりと私の手を握り締めていた。王子様の手、綺麗……。私みたいにケロイド状の傷が残っていない。それまで何も気にしたことなかったのに、急に自分の手が醜く見えた。この手は血に濡れていて、誇れない。ユーインが私を嫌って、離れていった。無言で手を見つめていると、ようやく話し出した。
「俺は今、家畜同然の生活を強いられている」
「家畜同然の? 王子様なのに? ひょっとして、ベッドに稲わらでも敷いて眠っているんですか? 大変! 肩と首が凝るでしょう?」
「いやいや。もしかしたら、稲わらの方が寝心地良いかもしれないよ……っと、そうじゃなくてだ。俺はただ、毎日血を搾り取られて生きている。そのためだけに生かされている存在なんだ」
「な、なるほど。けっこう過酷な生活をしているんですね……?」
「っふ、うん。痛い思いはしてないんだけどね? でも、いなくてもいい存在かな。血がなかったら」
「殿下」
「シェリー、頼むから帰ってくれないか? 怖がらせたくない」
私の両手を握り締め、懇願するような眼差しを向けてくる。この人はどうして、澄んだ目をしているんだろう。憎くはなかった? この状況に追いやった人達のことが。そうせざるを得ない自分のことが。選べない惨めさに、この人は泣いたことがないのかもしれない。だから、こんなにもまっすぐ、私のことを見つめてくるんだ……。知らず知らずのうちに、ぎゅうっと強く手を握り返していた。痛かったのか、少しだけうめく。
「帰りません。護衛でも、夜の相手でも何でもしてみせます」
「じゃあ、しょうがないか」
椅子から立ち上がって、急に両手を伸ばしてきた。とっさに振り払いそうになったけど、何とか耐える。怪我をさせちゃったら大変! 限界まで目を見開いていれば、私の腰にするりと手を回し、顎を持ち上げてきた。距離が近い、息が止まる。透き通った蜂蜜色の瞳が、ゆっくり細められる。ああ、綺麗。宝石みたい……。
「これでも、帰る気にはならない?」
「なり、なり、なりません……!! だって私、どこも行くところがない。家に帰っても一人ぼっちなんです」
「シェリー?」
怖い怖い。急に怖くなってきた! 思い出しちゃった。はっきりと明確に。ユーインが家を出て行っちゃった、ユーインが家を出て行っちゃった!! 私を置いて家を出て行っちゃった。お母さんと約束したのに。私がユーインの足を治して、面倒をみるって約束したのに。なのに、置いてった。私だけだった。色々してあげなくちゃと思っていたのは私だけだった。ユーインは、私を必要としていなかった。私だけが必要としていた、置いていかれた。私なんて、必要とされていなかった!
「だ、だから、怖いんです! 家に帰るのがっ……!!」
「シェリー!? 急にどうした!?」
いきなり手を振り払えば、動揺して手首を掴んできた。嫌だ嫌だ、怖い!! 考えないようにしないと、考えないようにしないと! ユーインが私を置いて、家を出て行ったなんて考えないようにしないと! 熱い涙があふれ出してきた。怖い、怖い。ユーインだけは私の傍にいてくれるかと思ってたのに。立っていられなくなって、泣きながらうずくまる。
「私、私、今までの努力とか苦労とか、全部否定されちゃったんです……あれもこれも全部無駄だった! 私、あれをしたのは、人を殺したのは、全部ユーインのためだったのに……。全部、ユーインのためだったんです。ユーインのために人を殺したのに、ユーインのために生きてきたのに、何も意味がなかった! 無駄で、どうしようもなく私、バカで」
「悪かった、シェリー。怖がらせて悪かったから……」
「ねえ、殿下? 私に生きる意味をください。じゃないと、死んでしまいます。人のためにしか生きていけない人だっているのに、ユーインはそのことを分かってくれなかった。私はもう、自分の道を見失ってしまったのに」
「シェリー……」
涙をこぼしながら顔を上げると、床に膝をついた殿下が呆然とした顔になる。生きる意味が欲しい。私はもう、見失っちゃったから。途中で見失っちゃった道って、また現れるのかな? もう現われないような気がする。人のために生きるレールしか、残されていないような気がする。今さら、自分のために生きていけない。
「ねえ、殿下? 私、間違っていますか? 必要とされたいんです、あなたに……。この国の王子様であるあなたが認めてくれたら、少しはユーインも私のことを許してくれるような気がして」
「許す……?」
「はい。きっと、ユーインは私に怒っているんです。私が、ユーインのために人を殺したから怒っているんです、きっと。だから、私が立派な人になったら、ユーインが帰ってきてくれるかもしれない。王子様の子供を生めば、少しは誇らしい姉だって、そう思ってくれるかもしれないから……」
「間違ってる。間違ってるよ、シェリー」
私が伸ばした手を優しく掴みながらも、否定する。ひどく悲しそうな顔をしていた。まるで、私が何もかも全部間違っているみたい。なんで? どうして。どうして、ユーインは私から離れていっちゃったんだろう……。ぼんやりしつつ、涙を流していると、指先で涙を拭ってきた。ユーインの温かい手を思い出す。
「間違っているんだ、その考えは。きっと、ユーインは君にそんな仕事をして欲しくなくて……」
「違うと思います。だって、昔からなんだもん。私がこの仕事をしているのは」
「……昔から?」
「はい、子供の頃からしています。それなのに今さらユーインは、」
「一人だって言ってたけど、家族は?」
「両親はテロに巻き込まれて亡くなりました。あと、バーデンは家族なんかじゃありません。信用できない人外者なんです」
「そうか……。じゃあ、君を雇うことにするよ」
「本当ですかっ!? ありがとうございます!!」
「ただし! 絶対に絶対に、俺に迫らないでくれ。約束できるな?」
「できません。それがお仕事なので」
「シェリー……」
私の肩を掴んでいた殿下が、がっくりと落ち込む。だって、私はそれが仕事なんだもん……。むーっと不貞腐れていれば、気を取り直したかのように顔を上げる。
「じゃあ、護衛として雇えない。どうする?」
「ど、どうするって……」
また、じわっと涙があふれ出てきた。視線だけで懇願していると、徐々に顔色が悪くなっていった。しばらくの間、無言で見つめ合う。私の涙が頬を伝って、ぽたたっと流れ落ちた瞬間、降参だと言いたげに両手を上げる。
「分かった! じゃあ、雇う! 雇うから泣かないでくれ……頼む」
「はい、ごめんなさい……。ありがとうございます」
丁寧に、指先で涙を拭ってくれた。嬉しい。久しぶりかも、こんなに優しくして貰えるのは。にこにこ笑いかけていると、急に表情が曇る。
「いくつなんだ? シェリーは」
「十九歳です。殿下は?」
「俺? 俺は二十四歳」
「そうなんですね……。だから、王妃様は焦っているんでしょうか? 三十歳になる前に子供を作って欲しいんでしょうね」
「まだ、あと六年もあるんだけどなぁ。ま、いいや。次、王妃様に会うのはいつ?」
「へっ?」
「面談、したんだろ? 定期的に報告するはずだ、俺とのことを」
「……いいえ、お会いしたことはありません」
「本当に?」
「はい。モリスさんとも今日が初対面です」
「えっ!? あいつ……」
苛立った様子で立ち上がり、黒髪頭を掻きむしる。お高そうな青いスリーピースを着て、そんな仕草をすると学生に見えた。
「落ち着いてるように見えるけど、お若いんですね」
「シェリーの方が若いだろ。じゃあ、一旦家に帰ってくれないか? 確か住みこみだよな?」
「はい! でも、殿下が今日引っ越してきてもいいよと言ってくださったら、モリスさんも許してくれると思います!!」
「圧が強い。帰る気がないんだ……?」
「一旦、荷物を取りに帰る気はありますよ。でも、だめですか? 怖いんです。一人ぼっちになると、ユーインに捨てられたことを思い出しちゃいそうで……」
「分かった。じゃあ、帰って掃除をしなくちゃな。ああ、そうだ。二人ほど護衛がいるんだ、今」
「えっ!? 私以外にも!?」
「うん。だから紹介する。気が合うといいんだけどなぁ……どうかな」
頭を掻きながら、私に背中を向ける。なんだかうずうずしてきた。飛びつきたい! 床から立ち上がって、思いっきり飛びつく。ついでに逃がさないよう、がっちりとお腹に手を回しておいた。
「わっ!? シェリー!?」
「はい! すみません。急に背中を見ていたら、飛びつきたくなっちゃって」
「そうか。まだまだ子供なんだな……」
「でも、初潮はきているので妊娠できますよ?」
「そういう生々しい発言はやめてくれ!! 聞きたくない!」
「分かりました。でも、本当に私と子供を作る気はないんですか?」
「ないからもう離れてくれ……。変わってるなぁ、本当に」
ぎぎぎぎと、力をこめ、私の腕をほどこうとしていたけど、途中で諦めた。抱きついたまま、ご機嫌でミルクピッチャーを川の中に落としてしまった歌を、ふんふんと鼻歌で歌っていれば、苦笑する。ぬっと手が伸びてきて、私の頭を撫でていった。
「よしよし。……シェリー、君が王妃様と通じてなきゃいいんだが」
「会ったことないから、通じていませんよ! バーデンに聞いてみます?」
「いや、いい。信用ならないからな。俺はカイとエナンド以外、信用していないんだ」
「モリスさんのことも?」
ぴたりと、私の頭を撫でていた手が止まった。どうしよう? まずいことを聞いちゃったのかもしれない。嘘吐きエレンを許して欲しいのという歌を、ふんふんと鼻歌で歌っていれば、また笑う。
「どうしたんだ? シェリー。急にまた歌い出したりなんかして」
「ごめんなさい。まずいことを聞いちゃいましたか? 私」
「いや、別に……。ただ、モリスは俺の血を必要としてる人間だから。ああ見えて打算的だし」
「打算的」
「うん。気をつけるんだよ、シェリー。俺のことも、モリスのことも信用しちゃだめだよ。個人的な考えで動けない時があるんだ」
「それは、王族だからですか?」
「そうだね。あと、できれば諦めて出て行って欲しい、早く」
力が抜け落ちた私の腕をほどき、向き直る。仄暗い笑みを浮かべていた。心臓が飛び跳ねる。まただ、さっきと同じ感覚。ふと、白い首筋に目が吸い寄せられた。あの白い首筋をすぱんと切って、赤い血が出てきたら多分、この人はもっと綺麗な人になれる。
「ねえ、殿下の首筋って綺麗ですね? ナイフの刃が、すっと通りそうな首をしている」
「……」
「ふふふ、護衛ですから。大丈夫ですよ、安心してください。襲いません!」
顔色悪く、首筋に手を添えた。……何だろう? この気持ち。多分、血が映えそうな白い肌を殿下が持っているから、こんな気持ちになる。ドキドキする。今まで、誰を見てもこんな気持ちにはならなかったというのに!
「じゃあ、荷物をまとめてきますね! またのちほど~」
「あ、ああ。またのちほど……」