17.真夜中の密会と砕け散った白いナイト
「あの男は危険だ。見た目通りのバカだと思っていたら火傷するぞ、シェリー」
バーデンが黒いマントをひるがえしながら歩いて、ベッドに腰かけた。まだここが自分の部屋だって実感が湧かない。一晩しか寝てないから……? あと五回ぐらい、この素敵なお姫様ベッドで眠れば、実感が湧くのかも? 私が銀の葉をかたどったシャンデリア、重厚な織り模様のソファーとテーブルセットを眺めていれば、不機嫌そうな顔になった。
「おい、聞いているのか? シェリー。あの男は危険だ。敵だと思って動いた方がいい」
「でも、排除できないもん。それに表面上は味方でしょ? どうするの。排除したとしても、リスクしかない。王室が敵に回るだけ」
「排除しなくてもいいんだ。向こうに非力な存在だと思わせておく」
「……まあ、痛めつけて支配しようと思ったって、できないけど」
「あの男は俺達を観察しにきたんだ。シェリー、俺とお前が一体となって動けることは隠しておいた方がいい」
「バーデン。あの人のどういうところを見て、敵だと思ったの? あなたのことだから、何も理由がないわけじゃないでしょう?」
黙って笑うバーデンに近付き、頬に両手を添える。奥の窓から陽が射し込んできているのに、部屋は不思議と仄暗い。夜明け前の光と昼下がりの光が混じった、不思議な明るさで満たされている。私の手に手を重ね、バーデンが愉快そうに笑う。黒かった瞳に、血のような赤色が混ざり始めた。
「俺は尻尾を出さない。でも、あいつは出した。騒ぎに乗じて、レナードの血を盗んだんだ」
「レナード。お気に入りなのね?」
「そうさ、死なせるには惜しい……。あいつはお前と似たような匂いがする」
「殿下と私、ちっとも似てないと思うけど?」
「いいや、似ているさ。お前らが気付いていないだけで、根っこが似ているんだ。二人とも、何にも期待してない。期待するメリットが見出せないんだろうなぁ。期待すること自体、無駄だと思って生きてやがる」
「……何に期待して生きていくの? 他の人は一体、何に期待しているの?」
「色んなことにだろ。お前ほど、自分に頓着しない人間はいない。不幸になりたいと思っちゃいないが、ここで今すぐ死ね、と言われたら死ぬ。俺はお前のそういう、軽やかな歪みを気に入っているんだ」
「軽やかな歪み……」
バーデンの言っていることがよく分からない。でも、何となくその言葉がすとんと腑に落ちた。軽やかな歪み。私は絶望も、嘆くこともしていないから? バーデンのなめらかで、石のように冷たい肌を撫でれば、胸の奥にほこりが積もってゆくような気がした。
「……方法が分からないだけじゃない?」
「方法?」
「期待する方法も、絶望する方法もよく分からない。ただ、与えられた指示をこなすだけ。それでいいと思うし、それ以外、何も考えられない……。でも、殿下は私に何かを考えて欲しそう」
「あいつの言う通りに生きることはないさ。そうだろ?」
「でもね? 悲しい顔をするかもしれない」
「悲しい顔……?」
「うん。私、殿下に悲しんで欲しくないし、物言わぬ死体になって欲しくないの。……ねえ、これって異常なことだとは思わない?」
今まで、殺せなかった人なんていなかったのに。ユーインは特別だから別。初めてできたお友達のサナちゃんのことだって、殺せたのに。過ぎてみれば、大したことがないなと思える。誰を殺したってそう考えてきた。バーデンの頬から手を離し、肩に両手を添える。私のことを静かに、血のような赤色が滲む、黒い瞳で見つめてきた。
「それなのに、殿下だけは殺せそうにない……。殺したら、何年経っても後悔しそうなの。怖い。悲しむ顔が見たくない」
「いいんじゃないか? 守るのが使命なんだし。それに、殺したい欲が消えたんだろ?」
「そうなの! 消えちゃったんだ……。さっき首に傷をつけて、血が出ているところを見たからかもしれない。それに」
「それに?」
「血、血を見るより、キスされたことにどきどきしちゃって……。おかしいとは思わない!? だって、血を見たら興奮するものでしょう!?」
「今まで血をそういう目で見ていたのか、お前は」
「うん。だって、叔父様が血を見て興奮するのは、人間の性だって言ってたし! それに、もうすぐ死ぬ合図でしょ? でも、キ、キスで、もう少しで殺せそうな、あの高揚感が味わえるなんて……」
「お前にも、まだそういう感情が残ってたか」
呆れたように腕を組みながら、バーデンがふんぞり返る。その真っ黒なマントが清潔とは限らないんだから、できたらベッドに座って欲しくないんだけどなー……。バーデンの肩から手を離し、自分のくちびるに指を添える。あの時は何とも思わなかったのに、今になってどきどきしてきた。そういう魔術をかけられたのかもしれない。
「……でも、いいの。いつか殺せるようになるかもしれないから」
「血がもったいないとは?」
「思わない。それよりも、私に殺せない人間がいるっていうことがショックで、プライドに障る……」
「そういう思考回路になったのか、へー」
「いつまでも同じ考えの人間なんていないの。……もう、ユーインもいなくなっちゃったし、もしも殿下が、私以外の女性を大切にする気なら殺して、バーデンと逃げる」
「じゃあ、そうするか。王家の人間から逃れるのは中々骨が折れそうだが、まあ、いけるだろう。なにせ、俺は他の人外者とは違う。話を元に戻すぞ、シェリー」
「うん。今は殿下を殺す気がないからいいの。指示にも従うし、守る。それで? ロダンさんが殿下の血を盗んだのね?」
「ああ、間違いなく敵だ。味方じゃない」
「そう。じゃあ、対処しなきゃ」
しっかり話を聞くため、バーデンの隣に腰かける。手慰みのつもりなのか、白い手袋をはめた手を擦り合わせ、煙を生み出した。もくもくと膨れ上がってゆく灰色の煙が、徐々に形を変え、ロダンの顔に変わった。黒いもじゃもじゃのヒゲまで、ちゃんと再現されている。実物よりも、不敵な笑みを浮かべていた。
「いいか? あいつは国王側の人間だ。それに頭がおかしい」
「うん。それは見ていて何となく分かったけど……」
「モリスは王子側で、国王側の人間とは対立している。それをまず理解しろ。王宮の勢力図を頭にいれろ」
「勢力図を……?」
「ああ。少数だが、王子様を次期国王にと推す連中もいる。ただ、これは何も分かっていないバカどもだな。王子様が病弱だと、本気で信じきっているらしい」
「なるほど。お飾りが欲しいのね?」
「そういうことだ。あと、この国の王太子様が少々やんちゃでな……。女遊びが激しいし、国民からの評判が悪い。病弱で真面目そうな、元王太子様の方がいいんじゃないか、という声が上がることもしょっちゅうだ」
「なるほど、そういうこと……」
「そうだ。モリスとロダンの話に戻すぞ」
バーデンが器用に手を動かし、小さいロダンを作り上げた。にやにやと笑いながら、さらに煙をこね、ロダンの操り人形を作り出す。何故か、そのロダンは黄色と赤のフリルドレスを着ていた。……バーデンは、ロダンさんのことが気に入らなかったみたい?
「一等級国家魔術師とはいえども、序列がある。モリスはロダンの上だ。モリスは王子様側の人間で、ロダンは国王側の人間。二人の仲はあまりよろしくない。にも関わらず、モリスが大事に大事に守っている殿下を、一ヶ月間守ると宣言した。俺達が来たとたんにだ」
「つまり、監視ってこと?」
「そう。モリスと国王の仲が悪いってところも、頭に入れておけ。すなわち、殿下と国王は仲が悪い」
「ややこしい~……」
「つまりはだ。国王はモリスが突然、独断で雇ったハウエル家の生き残りと俺を警戒している。王子様に力をつけて欲しくないんだろうよ」
「父親なのに?」
「……王子様は元王太子だ。今の王妃、すなわち愛した女の息子に王位を継がせたいんだろうなぁ。癒しの血さえなければ、殺していただろう」
ぐしゃっとロダンの人形を潰し、せせら笑った。じゃあ、私はロダンさんを警戒すればいい。国王は味方じゃなくて敵。
「積極的に何かすることはないんだろうけど……。でも、どうして血を盗んだんだと思う?」
「さぁな。裏切れない誓約を交わしているからそうだな、国王の命令か、気まぐれかのどちらだ。ロダンとて、他国に売ろうとは思っていないだろ。できないし」
「なるほど。じゃあ、どうする? 今夜。血を取り戻す?」
「まあ、待て。ここでお前が行ったら大問題だ。あくまでもお前はにぶちんの、お荷物の少女でいろ。変に頭が回ると知ったら、警戒するに違いない」
「じゃあ、どうすればいいの? 私の目を盗んで、殿下の血を奪うなんて!」
「落ち着け、シェリー。冷静さを欠いた者から、足をすくわれる。それに、エナンドがいるだろ? あいつを使おう」
「なるほど。じゃ、そうしよっか」
「軽いな。もう少し粘るかと思ってた」
直接会いに行って、血を奪い返したいわけじゃない。隣に座ったバーデンに微笑みかけると、赤が混じった黒い瞳を細め、手の甲に手を重ねてきた。
「ロダンや他の人間がいる場合、あれはなしだ。それと、俺をただの人外者扱いしろ。俺も適度にわがままを言うから」
「だから、思い通りに動いてくれなかったのね? いつも言わなくても動いてくれるのに」
「奴らを警戒させたくない。俺達は無能なふりでもしていようぜ。なぁ? エナンドもそう思うだろ?」
「んっ?」
バーデンがぱちんと指を鳴らせば、音もなく部屋の扉が開いた。そこには、気まずそうな表情のエナンドが立っている。
「……悪い。俺だって色々考えてるんだよ。本当にシェリーちゃん達が味方かどうか、よく分からないし」
「いい心がけだ、エナンド。協力しようぜ。俺達が味方だってことを、嫌というほど分からせてやる」
それはくせなのかと、問いかけるまでもない。この御方は人の目をまっすぐ見れなくなった。いいや、俺の目を見れなくなったと言う方が正しいかもしれない。
……頭がおかしいと噂の俺に、拒絶されたのがそんなに堪えたのか。でも、俺だって人の子だ。それに、奥さんに出会ってだいぶマシになったわけだし? 王城の庭が見える窓の前に立って、頑なに背中を向けている。
俺が他に何かしていた方が気がまぎれるかなと思って、何となく、やりたくもないチェスを続ける。俺が適当に黒い駒を動かせば、向かいの椅子に座った、黒い人型の影がくすくすと笑った。よーくよく目をこらせば、それは布や長いネックレスをまとっているように見える。
「ルールを理解できなくて、適当にやっているでしょう? ロダン」
「ああ、いい。あんたの説明は分かりにくい! それにだ、俺がたとえルールを完壁に理解したって、勝てる気なんてしない。まー、あれだ。あんたがチェックメイトって言うまで、適当に駒を動かしていたらいいんだろ? 置けないところだけ教えてくれよ」
「あらまあ、張り合いがないこと。それに、ここへはチェスをしにきたわけじゃないんでしょう? 早く陛下にご報告しなくては」
「えー? だって、聞く気がないじゃん? 面白い子だったのになぁ」
それとも部屋に入った瞬間、立ち上がって、俺に背中を向けた陛下の肩を掴んで、拗ねちゃった彼女のご機嫌を取るかのように、キスでもすれば良かったか? ……さすがにこの冗談を聞くと、陛下が怒りそうだ。やめておこう。
「ロダン? お前がいつも、無駄話ばかりするからだろう。手短に済ませてくれ」
「えええええっ? 嘘でしょう、陛下! 俺のお喋りをやめさせようったって、そうはいきませんよ? ……ああ、まるでルールが理解できてないから分からんな。これ、あんたと俺、今、どっちが勝ってんの?」
「もちろん、私です。素人にも手加減しない主義ですの」
「おー、おー、嫌な主義だこと! 俺にもちったぁ、花を持たせてくれよ……そうだ、ハウエル家のあの子! 面白いんですよ、本当に。陛下、聞く気がありますか!?」
俺の番が回ってきたので、適当にまた黒い駒を動かした。彼女がふと、何かを言いたげに揺れ、「そこには置けませんよ」とだけ言う。嘘か本当か分かりゃしない。でも、どうだっていい。頭の中はあの面白いハウエル家の子でいっぱいなんだから。想像以上だった!
「語りたい~、語りたいなぁ~!! 陛下、語らせてくださいよ~! あはは」
「……手短に話せ。どうだ? 悪い影響を与えそうか?」
「んんんん、どうでしょうねぇ~。ただ、殿下はかなり気に入っている様子でしたよ。こう、年の離れた妹をかまうような、おかんのような感じ?」
「おかん……」
「なにせ風変わりな子でして! 信じられますか!? あのほんの一瞬の数十秒だけで、俺が使う治癒魔術を推測し、それを利用して再生不可能にした! それも呪いと魔術が混じったものです。呪いっていうのは扱いが難しい。少しでも、その呪いと相性が悪い魔術を組み合わせれば、倍になって返ってくる。それなのに、いとも容易く、躊躇せずに使ってみせた……」
慣れているんだろうなぁ、あの子は。何回も何回も使ってなきゃ、あの一瞬で魔術と呪いを組み合わせて、使うことはできない。しかも、俺の魔力を利用した。あんな魔術を使っておきながら、ほぼほぼ魔力は減っていないはずだ。厄介な魔術は厄介な分だけ、消費する魔力量が多い。臓器を再生する魔術もだ、かなり多くの魔力を使う。
俺が不器用なことを見抜いて、簡単だが、多くの魔力を消費する治癒魔術を選択すると予想し、それと相性がいい呪いと魔術を組み合わせてかけた。俺がちょっと警戒して、かけられた魔術を解析すれば、気が付けたことだった。完壁にしてやられたわけだよなぁ、俺は。ああ、笑いが止まらない。ここまで愉快なことなんて、早々に起きやしない!
「それにだ! それも体を動かしながらですよ!? 自分の足先に呪いと魔術をかけるという、なんとまあ、命知らずなことをしでかして、相手を蹴り飛ばした……。ありゃあ天性の才能というべきですよ。それとも、彼女に恐怖心っていうものはないんですかね?」
「足先に宿すと、一体どうなるんだ?」
「十秒以内だったっけ? どうだった?」
「五秒以内ですね。魔術と呪いが組み合わさったものは非常に不安定で、扱いが難しい……。自分の体にそれをかけた場合、五秒以内に相手の体に移さなくては、こっちに降りかかってくる」
女の影が静かに呟く。考えたってぞっとする。俺ならできないし、しようとも思わないんだから。失敗するかもしれないという不安は、魔力を揺らがせる。
「普通、しないんですよねー。ああいうこと! だって、倍になって返ってくるんですよ? 少しでも精神が乱れたら終わりだし。彼女は失敗するという未来を思い描かない。だからもしも、メイドちゃんに子宮を潰す呪いが移せなかった場合はー?」
「さあ。種類にもよりますから」
「えーっ? 冷たいなぁ! そこはキリッとした顔で、こうなるでしょうね~って言うところじゃない?」
「ふふ」
軽く笑うだけで済ませやがった。やれやれ、ノリが悪い。頑なに窓を見ていた国王陛下が苛立って、鎖骨の辺りを掻き出した。あれ、神経質そうに見えるからやめた方がいいのになー。
「それで? あと他には?」
「えーっ、驚かないんですか? つまらない。まあ、魔術師じゃない方にはしっくりきませんかねえ。とにかくも、彼女は強い。魔術師にありがちな、接近戦が苦手だっていうこともない」
「……敵に回れば、脅威となるか?」
「そんなに息子が怖いのなら、あんたが塔にこもっちゃどうです? 陛下。俺からすれば、気にしすぎとしか言いようがない状況なんですけど?」
「こら! 失礼でしょう、ロダン。仮にも国王陛下に向かって」
「……あんたはこの状況に疑問を抱かないわけ? ああ、それとも、人の心がないから分からないとか?」
黒い影の手がぴたりと止まり、また、何事もなかったかのように白い駒をつかむ。あちゃ~、無駄だったか。ま、こいつは何を言っても揺らがないか。でも、俺の予想は裏切られた。つかんだ白い駒────それは馬だった────をいきなり、手で握り潰した。ばきんという硬質な音を立てて、白い駒の破片が飛び散る。ひゅーっと口笛を鳴らせば、黒い女の影が静かに、こっちを睨みつけてきたような気がした。
「……その子に私も興味が湧いてきました。無垢で残酷な、可愛らしいお嬢さんなんでしょう?」
「でも、手を出さない方がいい。とっくのとうに契約している人外者がいるから」
「あらあら。よほど質の良い魔力を持っているのか、それとも、変わり者で魅力的なのか……」
「魅力的なんでしょうねえ。実に人外者好みの外見でしたよ。人外者は美しくて、目がイッちゃってるような、そう! まさしく俺みたいな人間を気に入るじゃないですか!」
「ふふふ、ロダンさんは相変わらずですね。久々に会うからどうかと思っていましたけど、変わらなくて何よりです」
「俺は死ぬまで変わらないよ~。ねえ、陛下?」
後ろの背もたれに体を預けて、足をぷらぷらと動かしていれば、陛下が大きな溜め息を吐いた。背中しか見えない。部屋は薄闇に覆われていて、白い破片が飛び散った、チェスの盤上と窓際のカーテンしか見えない。今夜は三日月が出ているらしく、それらしい光が部屋に射し込んでいた。
「……引き続き、あいつを監視しろ。余計なことを考えられたら、たまったもんじゃない」
「モリスの方は? どうします? あのおっさん、喧嘩早くて俺の腕、毎回折られかけちゃうんですよね~」
「モリスの方も、引き続き監視しろ。あいつに敵うのはお前しかいない」
「へいへい、仰せのままに。ああ、そうだ」
「どうした? まだ何か語るつもりなのか」
「……陛下、後悔ってしてます?」
椅子から立ち上がって、にっこりと微笑みかければ、窓を背にして立っている陛下が嫌そうな顔をした。よく見えないが、不機嫌そうな空気を漂わせている。見つめていると、スリッパを履いた足元を見下ろし、口を開いた。
「後悔するべきなんだろうなとは思っている。……どうだ? これで満足か?」
「はいはい、満足ですよっと。あんたはもうちょいわがままに生きるべきだった。それができたら、歪まずに済んだものを……」
でも、言ったってしょうがない。時間は巻き戻せない。もう意味はないというのに駒を持ち上げ、影が誇らしげに「チェックメイト」とささやいた。
「おー、おー、俺の負けか。おめでとうさん。じゃ、ありがとう。もう俺は帰るよ」
「そのお嬢さん、しばらくはレナード殿下の護衛でいるんでしょう?」
「陛下がクビにしない限りね」
「面白いから、やめさせないで雇い続けましょうよ。陛下、どうなさいますか?」
「あなたがそう言うのなら……」
「ふふ、ありがとうございます。いつか会えるのが楽しみだわ、そのお嬢さんと」
黒い影が品よく両手を合わせ、微笑んだ。やれやれ、あのお嬢さんは厄介なものに好かれる性質らしい。俺と一緒だ。国王の私室を出て、しばらく廊下を歩いてから角を曲がれば、渡り廊下に差しかかった。これは別棟に行く渡り廊下で、両側の出窓から、芝生敷きの庭が見下ろせる。
出窓はソファーと合体していて、座れるようになっているし、金模様の壁には美しい女性や猫の絵が飾ってあって、見ているだけでも楽しい。お気に入りの場所の一つだ。そんな渡り廊下をふんふんと、鼻歌を歌いながら歩いていれば、見慣れない人物を発見した。
エナンドだった。赤髪にグリーンの瞳を持った少年で、昔は俺に懐いていたが、いつしかよそよそしい態度を取るようになった。ま、成長して分かるようになってきたんだろ。色々と。昼間に見かけた時とは違う格好をしている。白いTシャツの上から、黒いジャケットを羽織っていた。壁にもたれていたが、俺を見つけた瞬間、こっちへ向かってきた。
「やあ、こんばんは! エナンド君。珍しいなぁ~、こんな真夜中に一体何の用だ? 殿下に何かあったのか?」
「こんばんは、ロダンさん。返して貰いたいなと思って来たんですよ。分かります?」
「いいや、ちっとも分からないなぁ。何か借りてたか?」
「はい、レナード様の血を」
「……えっ?」
さすがにひゅっと、冷たいものが背筋をかすめていった。……バレていたのか。バレていたら、誓約に項目が追加されること間違いなしだ。二度と、殿下の血を奪わないようにってね。それと、殿下の護衛も外される。減給されて奥さんに怒られる……。
冷や汗を掻きながら、懐にある血が入ったフラスコ瓶のことを考えていると、エナンドが余裕たっぷりの笑みを浮かべた。さっきの部屋とは違って、顔がはっきり見える。壁のランプに照らされた顔は、昼間とは違って、酷薄そうに見えた。
「誰にも言いませんから、返して頂けませんか?」
「……あちゃ~、見られていたのかぁ」
「はい。俺も一応護衛ですよ? レナード殿下の。それに血の匂いがしました」
「んん、だよねえ~。エナンド君は鼻が利くわけだし。はいっ、どうぞ! 悪かったな、奪って」
俺が懐から出したフラスコ瓶を、満足そうな顔して受け取った。ちぇっ。娘が季節外れの風邪を拗らせているからって、奪っていくんじゃなかったか。殿下の血を薄めた市販薬じゃ、効かなかったんだよな~。治癒魔術をかけると、免疫力が落ちるからだめだって奥さんが言うし。くちびるを尖らせ、口笛を吹いていれば、俺が渡したフラスコ瓶を丁寧にハンカチで包んでから、見上げてくる。
「……どうして奪ったんですか? まさか、殿下と陛下を裏切るおつもりですか?」
「そんなまさか! ただ、娘の一人が風邪を引いていてね……。原液じゃないと効かないと踏んで、奪い取っただけ。ようするに私的な利用さ」
「ならいいんですが。ロダンさんは何を言っても、嘘臭く聞こえますね」
「ショック~。じゃ、程々にしなよ。お散歩も! ここに来るの、禁止されてるだろ?」
「……ええ、それでは失礼します」
廊下の壁にかけてあった絵に触れると、それが小さな扉に変わった。あー、なるほど。そうやって入ってきたのか。エナンドが静かに扉を開けると、またたくまに姿が消えた。器用だ。顎に手を添え、何の変哲もない民家の部屋と、小さな子供が描かれた絵を観察する。
「ふーん、なるほど? ま、俺は優しいから残しておいてやるよ。出入り口を塞いだりなんかしない」
これからが楽しみだ。さて、いつか殿下は秘密に辿り着くんだろうか。先週刈り込んだばかりの黒髪頭をがりがりと、音を立てて掻きながら、渡り廊下を歩いてゆく。
「そうなると、モリスが悲しむだろうなぁ……。必死で隠してるっていうのに。でも、あのお嬢ちゃんは絶対に絶対に、余計なことをする! 何の根拠もないけど、そんな感じがするんだよね~」




