13.それは一種の独占欲と恐怖と、混乱
かつてなく、自分の心が揺らいでいるのが分かる。今まで、人を殺していればそれでいいと思っていたのに。叔父さんの言う通り、何も考えずに人を殺す。お前は何も考えなくてもいい。そうしていれば、ユーインの下へ帰れる。ユーインのことが養える。お前が殺したやつらに苦しめられている人達だって、助けられる。それで救える。
『だから何も考えずに殺せ、シェリー。余計なことは何も考えるな。でないと殺されるぞ? ユーインの下に帰りたければ、あいつが欲しがるものを買ってやりたければ、何も考えずに殺せ』
叔父さん。叔父さんは正しかった。今の私は弱くてぼろぼろ。一気に熱い感情が流れこんでくる。指先に触れた、殿下のくちびるが忘れられない。指先が熱くて、まだあの温度と感触が忘れられない。私を優しく抱き締めてきた腕と、温かい眼差し。醜いケロイド状の傷で覆われている手を、何回も何回も、握り締めてくれた。
『大丈夫だよ、シェリーは俺の傍にいるだけでいいから』
『でも、そんな仕事をしていたのは俺のせいだ。ごめん、姉さん。もう一生頼らないから。今後は、自分のために生きていってくれ。まだ間に合う』
『いいんだ、もうそういうことはしなくて』
『それが普通なんだよ、シェリー。怪我をするのが怖いと思うのは、普通のことなんだよ』
『何も考えずに殺せ、シェリー。でないとユーインが悲しむぞ。お前が帰ってこなきゃ、あいつはどうなる? どう暮らしていく?』
『何もしてないよ。でも、俺のためにもう生きなくていいから。俺のために犠牲になる必要はない』
『俺と一緒にお客さんをもてなしてくれたらいい。でも、何もしなくていいんだよ。シェリー。傍にいてくれたらそれで。あと、元気だったらそれでいい』
『その時はカイとエナンドが対処する。君はもう戦わなくてもいいんだよ、シェリー。人を殺さずに生きて行くんだ』
頭がぐちゃぐちゃになっておかしくなる。どれ? どれが正しいの? 誰が間違ってるの? 私の考えが間違ってるの? 嘘だ、嘘だ。叔父さんが言ってたんだもん、合ってる。
『ごめん、今までありがとう。できたら、もう人は殺さないで欲しい……。他の仕事を探して、真っ当に生きていって欲しい。自分で稼いだお金は、自分のために使って欲しい。俺もそうするから、姉さんもそうしよう。離れるんだ、その方がお互いにとっていい』
はっきりと、あの日のユーインの言葉が蘇ってきた。私、私……。本当にこれでいいの? 大丈夫? 間違ってないの? 誰か助けて。どうすればいいのかよく分からない。美しい薔薇園に青いタイル。美味しくてさくほろの甘いクッキーに、びっくりするほど、綺麗なワンピースと新しい靴。優しい眼差しに温かい手。あの時、悲しそうに微笑み、私を見つめてきた殿下の顔をふっと思い出した。
『いいんだ、もうそういうことはしなくて』
いいの? 本当に。何もしなくていいの? ただ、傍にいるだけでいい……。ぐしゃっと、丁寧に梳かされた黒髪を掴む。淡いピンク色の薔薇で作られたトンネルの中で、ずっとしゃがみ込んでいたら、頭がおかしくなっちゃいそうだった。
柔らかい風と鳥の声。血の匂いがしない、地下室も見当たらない。あのカビ臭い地下室が見当たらない。ここには優しいものと紅茶しかない。私を見て、嬉しそうに笑う殿下の顔を思い出した。もう一度、ぎゅうっと、自分の黒髪を握り締めれば、口の中に苦いものが広がってゆく。
「ねえ、バーデン。いるんでしょう? そこに。どうしたらいいと思う? 私」
背後で誰かが笑った。濃密な気配が立ち昇り、虹色の艶を放っている貝製のタイルに、黒い影が差した。異形の者に見える。強い光なんて射し込んでいないのに、濃い影が映し出されている。いつもの姿になっているのか、影が男性の形になっていた。
「お前の好きなようにしたらいい。さあ、どうする? ここから逃げ出すか?」
「ここから逃げ出す……?」
「そうだ。嫌なら逃げ出そう、シェリー。生活は何とでもなる。俺が養ってやる。ここにいるのが嫌なら逃げ出そうぜ、シェリー」
逃げ出す。そのことは考えたことがなかった、いつだって。逃げる? どうしよう。逃げたいの? 私は。逃げたいのかもしれない、殿下から。でも、どうなるの? あのまま一人で、嫌な笑い方をして過ごしていくのかな……。
どうしたらいいのかよく分からなくて、目に涙が浮かんできた瞬間、誰かが「シェリー!」と私を呼んだ。バーデンが舌打ちをして消える。振り返ってみると、白い煙が残されているだけだった。薄くなってゆく白い煙の向こうから、焦った表情のレナード殿下がやって来た。息を荒げている。
「シェリー! 良かった、いなくなってなかった、ここにいた」
「えっ?」
「ごめん。追いかけるべきかどうか迷っていたんだが……このまま放置していたら、シェリーがいなくなるような気がして」
優しい微笑みを浮かべたまま、両膝に手をつく。泣き出しそうな気持ちで見上げれば、ふっと笑った。幼い子供にするみたいに、よしよしと、私の頭を撫でてくれる。
「良かった、追いかけてきて。迷子みたいな顔してる」
「殿下っ!」
「っと、よしよし。つらかったな? 悪い、すぐに追いかけなくて」
思いっきり飛びついても、嫌な顔をせず、笑って抱き締めてくれた。ほっとする。間違っているのかもしれない。でも、ここにいたい。腕が鈍って、いつか人を殺せなくなっちゃったとしても、ここにいたい。逃げなくてもいいや、別に。ふがふがと、ほんのり薔薇の良い香りがするスーツを嗅ぎ回っていると、殿下が苦笑した。
「よしよし、落ち着け。……悪かった、急に距離を詰めたりして」
「大丈夫です。ただ、ここでの暮らしが怖くなってしまって」
「ん? まだ二日も経っていないのに?」
「そうでした……。い、一日で私、甘やかされちゃってます!! こっ、このまま、誰のことも殺せなくなったらどうしよう? 腕鳴らしに、カイのことを殺してみてもいいですか!?」
「やめてくれ。冗談か本気か、よく分からないな……」
「本気です。たとえ知り合いであろうとも、私、殺せるんです。叔父が念のためにって言って、私に友達を作ったあと、殺すようにって命じてきました」
「どうしたんだ? ……殺したのか」
「はい。それが嫌ならユーインを殺せと言われたので、殺しました。でも、苦しませないように一撃です。あ、だけど、二番目の友達は苦しめて殺しました。そういう経験も必要だからと言って、叔父が用意してくれたんです」
その時、悲しみが麻痺しちゃった。だからもう一度、あの時の状態に戻りたい。誰かに心を乱されたくない。できたら躊躇せずに、殿下のことを殺せるようになりたい。温かいのはもう嫌だ、怖い。さっきの甘くてざわざわする感情も嫌だ。殿下から離れて、見上げてみると、呆然としていた。普通とは違うから? 殿下は自分の手で、友達を殺したことがないのかな……。
きょとんとしていれば、私の頬に触れてきた。これも嫌い。むずむずする。甘くてくしゃくしゃな紙を、胸いっぱいに詰め込まれた気持ちになる。睨みつけていると、殿下が涙ぐんだ。なんで、どうして? 私が睨みつけちゃったから? 今度は私が呆然とする番だった。
「……可哀相に。そんなことをさせられて、それが異常であるということにも気付いていない」
「異常? どうして。そういう家なんだから、当たり前でしょう?」
「上手く言えないが、根本的に間違っている。考えがずれている。シェリー、本当はそういうことをしなくても良かったんだ。君のお父さんはなんて言っていた?」
「私の……お父さん?」
どうしてここで、私のお父さんの話が出てくるんだろう。なんて言ってたっけ? 忘れた。記憶の中にいるお父さんはいつも、にこにこと優しく笑っていて、苦しんでいない。苦しんで? 血塗れにもなっていない。血塗れ?
だって、お父さんと私達はあの家で暮らしていた。綺麗な緑色の芝生と赤いお花。花壇に沢山お花を植えた。いつ咲くかなって聞いたら、当分咲かないよって笑って言ってた。遠くの方には青い海が見える、坂道だらけの穏やかな街……。
「分かりません。お父さんは叔父さんのお兄さんだったんですって。叔父さんは……お父さんのことが好きだったかどうかも、よく分からない。でも、唯一親切にしてくれたお兄さんだったって」
「そっか。ごめん、何も思い出さなくてもいいよ。戻ってクッキーを食べようか」
「クッキー! で、でも、こうやって色々と優しくされていたら、戻れなくなっちゃいそうで怖いんです……!!」
レナード殿下が私の手を引っ張り、淡いピンク色の薔薇のトンネルを抜けて、向こうへ行こうとしていた。怖いから、踏ん張って行かないようにする。あそこは光があふれていて、のんびり紅茶を楽しんで、美味しいクッキーを食べて、悲しくなったら抱き締めて貰える場所。
怖い。血の匂いがしないのは落ち着かない、死体が見たい。私が踏ん張って、行かないぞと主張していれば、殿下が振り返って笑う。あ、もう変身を解いていたんだ。病気の殿下じゃない。目の下にクマが無いし、いつもの綺麗な王子様に戻ってる。また、蜂蜜色の瞳が優しくとろけた。
「大丈夫。俺はずっとずっとシェリーに優しくするから」
「えっ?」
「一時的なものだと思うから、怖いんだろう? 大丈夫、急に突き放したりしないから。俺と一緒に暮らしていこう、ここで。……それとも嫌か?」
「いいえ! 嫌じゃありません。私もここで一緒に暮らしたいです」
そう言った瞬間、今まで抑えつけていたものが一気にあふれ出てきた。ここにいたい。私だって、普通の家に生まれた女の子みたいに、武器を持たないで暮らしてみたい。苦しめるのも、苦しめられるのも、もう嫌だ。でも、すさまじく苦い罪悪感が這い登ってくる。いいの? だめなんじゃないの? 何もせずにここで暮らして、メイクしたり、綺麗な格好をしたりするのは、悪いことのような気がする……。
涙がぼたぼたと、目からこぼれ落ちてきた。レナード殿下が黙って、私の涙を拭う。指先が優しかった。目を閉じて、大事にされる幸せに酔いしれた。ずっとずっとここにいたい。苦しいのも、痛いのも、何もないここにいたい。でも、ここにいたら、ある日突然夢から覚めて、何もかもを失ってしまいそうで怖いの。
「殿下、怖いんです。お願いです、私のことを許してください……」
「つらかったね、シェリー。抑えつけていたのかもしれないが、シェリーはもう好きなように生きていっていいんだよ。もう、人を殺す日々には戻りたくないんだろ?」
「そ、そうなんでしょうか……? 嫌だって思っちゃだめなのに?」
「思ってもいいんだ、シェリー。叔父さんの幻影を消せ」
「幻影を?」
「そう。シェリーは今ここにはいない、叔父さんの言うことに従って動いているような気がする。でも、いいんだ。気にしなくて。俺の言葉だけ気にしていたら、もうそれでいいから」
「そうなんでしょうか?」
「ああ、そうだよ。今までと何も変わらない。叔父さんの言葉を気にしていた頃と何も変わらない。シェリーは俺の護衛で、いわば臣下なんだから」
「臣下……」
そっか、お仕えすると思っていたらいいのかな? そう思うと、気が楽になってきた。私がぱぁっと笑顔を浮かべ、見上げてみたら、優しく微笑みかけてくれた。手はまだ頬に添えられていて、くすぐったい。
「じゃあ、お仕えしていったらいいんですね? これからも!」
「そうだ、深く考えなくていい。カイとエナンドと一緒に、俺の傍にいてくれたらそれでいい」
「分かりました! じゃあ、戻ってクッキーを食べます!」
「うん、叔父さんのことはもう気にしないように。これからどうしていったらいいのかは全部、俺が代わりに決めてあげるから。分かった?」
「はい! じゃあ、そうしますね」
「よし」
殿下が満足げに頷き、光があふれる方へ歩いていった。私もそれについていく。繫がれた手は少しだけ冷えていて、硬い。死人の手とは違う、生きている男性の手。
(あれ? これでいいのかな。いいんだよね? ユーインは私の好きなようにって言ってたから、これできっと合っているはず……)
今度はお客様用のソファーに座って、クッキーを食べた。殿下がにこにこと優しく微笑みながら、おかわりの紅茶を注いでくれた。紅茶を口に含めば、じんわりとした熱さが広がってゆく。美味しい。私、これでいいんだ?
色んな疑問が湧いて出てきたけど、殿下が「深く考えなくてもいい」と言っていたから、考えないようにする。そうだ、叔父さんの幻影を消さないと。もういいんだ、消して。今度からは殿下の言うことに従って、生きていく。それでいいんだ、私。これが自分でちゃんと選んだ道だから。
「ねえ、殿下? このあとはどうするんですか? 美味しくクッキーを食べちゃっていますが……」
「ああ、うん。このあとは塔に戻ろうか。俺は血を提供してくるから、好きに過ごしていていいよ」
「血を提供? ですか」
「うん、搾り取られに行ってくる。そうだな。そのあと、慰めてくれたらそれでいいかな……」
隣に座っているレナード殿下が、手に持ったティーカップを空虚な眼差しで見つめている。殿下のお仕事でもあるのかな? 血を提供するのは。お皿に並べられたクッキーを、一枚つまんで食べる。ほろっと、口の中で崩れていった。美味しい。ざくほろ食感のスノーボールクッキーもお気に入り。私がにまにまと笑って、食べていたら殿下が笑う。
「そういう顔を見ていると、ほっとするなぁ」
「そうですか? ちゃんと役に立てていますか!? 私っ!」
「うん、もちろん。……ああ、そうだ。俺は城内で昼食を摂ってくるから、シェリーはエナンド達と一緒に食べてくれ。あ、カイとは無理して一緒に食べなくてもいいからな? あと、殺しちゃだめだからな!?」
「分かってますよ、もーっ! ユーインと約束したので、もう人は殺しません」
「……俺と約束したからじゃないのか」
「へっ?」
ゆったりとお茶を飲んでくつろいでいた殿下が、はっとして動きを止める。不思議に思って見つめていたら、取り繕うような微笑みを浮かべ、カップをソーサーの上へ戻した。
「すまない、忘れてくれ。とにかく、上手くやっていかなくても別にいいから、流血沙汰だけは避けて……」
「もしかして、私がユーインのことを気にしてたら嫌なんですか?」
「……わざわざ、離れていった弟のことをそこまで気にすることはないんじゃないかなと、思ってはいるけど? あー、やめよう。さすがに大人げない」
「大人げない」
「そう。あまりにもシェリーが、ユーインユーインって言って、落ち込んだりするからつい、もやもやしてしまって……」
ばつが悪そうな顔をして、口元を押さえる。もしかして、これが嫉妬なの? 首を傾げていたら手元を見つめ、自嘲めいた笑みを浮かべた。でも、私だってそういう気持ちになる時はある。
「わ、私だって、殿下がカイ、カイって、カイばっかり呼んで頭を撫でたり、クッキーをあげていたら、もやもやしちゃいますよ!?」
「うーん、そういうことをする気はないから大丈夫だって。シェリーの方が可愛いよ」
「ほ、本当に? 本当にですか? 本当に!?」
「うん、もちろん。……ああ、だめだ。そろそろ時間だな。行きたくないんだけど、行かなくちゃいけない」
腕時計を確認したあと、かなり憂鬱そうに笑い、私の手を握り締めてきた。殿下がおもむろに両目を閉じ、肩にもたれかかってくる。お、重たい。ずっしりしてる。何だか新鮮……。ユーインはもう、こういうことをしなくなったから。以前はバスや電車に乗ったらしてくれたけど。嬉しくなって、手を握り返せば、急に元の位置に戻った。
「さあ、もう行かないと。俺は一人で行くからそうだな、シェリーはここでクッキーを食べていてもいい。終わったら片付けておいてくれ」
「はい! 任せてください!」
「……片付ける際はバーデンに任せず、エナンドとカイに任せること。くれぐれも、決して壊さないように!」
「壊したりなんかしません! だってほら、こんなに可愛いティーポットなのに! 大事に扱いますよ?」
私が焦って、薔薇の絵付けがされたティーポットを持ち上げてみると、笑った。……良かった。落ち込んでたみたいだけど、元気になって。
「シェリーはそういうのが好きなのか? ティーカップとかポットとか」
「はい。今日、初めて知りました。今まで並べてあるところを見ても、惹かれなかったんですが、こうして紅茶を注いで、クッキーを載せてみるとすごく可愛くて……」
ふちがうねうねと波打っている、ペールグリーンのお皿にクッキーを並べてみると、すごく可愛いし、美味しそうに見える。なんだか雑誌に載っている写真みたい。今度はクッキーの欠片がついたお皿を、ほれぼれと眺めていたら、殿下がくすりと笑った。
見てみると、穏やかで優しい微笑みを浮かべている。そんな微笑みを向けられるたび、ぽうっと、胸の中の小さい蝋燭に火が灯ったような気持ちになる。暖かい。辺りには、ほんのりと薔薇の香りが漂っていた。青いタイルが敷き詰められた庭の片隅に、ひっそりと、黄みがかった白い薔薇が咲き誇っている。
「じゃあ今度、街に食器を見に行こうか。きっと気に入るものが見つかる」
「いいんですか!? ……おしのび?」
「そう、おしのび。まあ、公務で外に行くことなんてないんだけど」
「そうなんですか? 王子様なのに変ですね」
「陛下が……父上がそう決めたことだから。さて、と。本当に本当に気が進まないけど、そろそろ行かなきゃな」
そう言って力なく笑いながらも、立とうとしない。膝と膝の間で両手を組み、じっと、憂鬱そうな表情で見下ろしていた。見ていられなくなって、殿下の手に触れる。手に触れたとたん、こっちを見つめてきた。虚ろな蜂蜜色の瞳。さっきは優しく光っていたのに。
「私に何か、できることはありますか? 何でもしますよ!」
「本当に? 何でも?」
「はい。殺して欲しい人はいますか? あっ、だ、だめだった……。じゃ、じゃあ、拷問にかけて欲しい人はいますか!? 殺さなければきっと、セーフなはずです!」
「っふ、いや、拷問もだめだと思うよ?」
「えー……。じゃあ、私の存在意義がなくなっちゃう」
悲しくうつむけば、優しく私の手を握ってくれる。慰めてくれるのかな、と思って振り返ったら、急に顔を近付けてきた。息が止まった。ちょっとの間だけ、至近距離で見つめ合う。次は私の頬に手を添え、さらに近付いてきた。
「んっ!? んんんんっ?」
「……目を閉じてくれ、シェリー。頼む」
びっくりしていたら、笑って懇願するかのように言ってきた。真剣な蜂蜜色の瞳を見て、何も言えなくなる。これが殿下の望んでいることなら、仕方ないとは思わない? ユーイン。人殺しをするより、キスする仕事の方がましだと思うの。ユーインが聞いたら、怒るかな……。静かに両目を閉じたら、殿下の気配が近付いてきた。ひたりと、紅茶で濡れたくちびるが張りついてくる。濡れた紙に、テープがくっついちゃった感じ。
初めてのキスはあっという間で、紅茶とバターの香りがした。おかしくなってくすくすと笑っていれば、殿下が微笑みを深める。
「どうしたんだ? シェリー。キスの感想は?」
「ふ、ふふっ、クッキーの、クッキーの香りがするんです! ねえ、私、さっきまで苺ジャムクッキーを食べていたから、苺の味がしたでしょう?」
「そうだね、苺の味と香りがした。じゃあ、行ってくるよ。またあとで」
「はい! 行ってらっしゃいませ」
レナード殿下が私の額にキスしたあと、名残惜しそうな顔をしてもう一度、くちびるにキスしてきた。くすぐったい。どんなものかなと思って身構えていたけど、大したことなかった。良かった。殿下がガゼボを出て、淡いピンク色の薔薇で出来たアーチの前に佇む。まるで、一枚の絵のようだった。私を見て、優しく微笑む。
「じゃあ、行ってくる。またあとで」
「はい! またあとでーっ」




