プロローグ
「ごめん、姉さん。もう会えない。連絡もしてこないで」
ユーインが赤紫色の瞳で、まっすぐ私のことを見つめてきた。頭の中が真っ白になる。私と同じ黒髪に、深い赤紫色の瞳を持った弟。よく似た顔立ちの弟が、なにか得体の知れないものに変化したような感じがした。言葉が出てこない。なんで、どうして? 私のスウェットにしがみついている、虹色のトカゲ姿のバーデンが愉快そうに笑い、動いた。
「……ユーイン、一体どうして?」
ようやく、声らしきものが喉の奥から出てきた。ユーインが気まずそうな顔をして、玄関先に置いてあったトランクを持ち上げる。やだ、もう本当に行っちゃうんだ!! 悲鳴が出そうになった。よく分からないけど、ユーインが私を捨てて、どこかへ行こうとしている。思わず、トレンチコートの袖口を引っ張って止めてしまった。
「ねえ、待って! どうして? 私、ユーインに何かしちゃった!?」
「何もしてないよ。でも、俺のためにもう生きなくていいから。俺のために犠牲になる必要はない」
「犠牲? 犠牲って何のこと!? 足のことを言っているのなら、本当に本当に気にしなくていいから! 私が、私がしたくてやったことなの! ユーインは何も悪くない、あなたのせいで削ったものなんてひとつもないから!」
「……姉さん」
いつから、ユーインは私のことを姉さんと呼ぶようになったんだろう。昔は気弱な笑顔を浮かべて、「お姉ちゃん」と呼んでくれていたのに。涙が浮かんできた。お願い、行かないで。ユーインにまで立ち去られたら、私は……。どう生きていったらいいのかよく分からない。その時、両親のお願いが足枷じゃなくて、支えになっていたことに気がついた。“お姉ちゃんなんだから、よろしくね”。その言葉が私の支えになっていたのに。袖口をぎゅうっと掴めば、ユーインが低くうめいた。
「離してくれ。もう行かなくちゃいけないから」
「ねえ、私の何が悪かったの? お願い、教えて……。これでもう終わりじゃないよね? そうだ、向こうでの生活費はどうするつもり? だ、だから? 最初からこうするつもりだったから、どこの高校に行くのか教えてくれなかったの!? ねえ、ユーイン!」
「そうだよ、ごめん」
あっさり認めてから、傷だらけの私の手を握り締めてきた。温かかった。いつも冷たい私の手とは大違い。その温もりにほっとしていると、痛みをこらえるかのような表情を浮かべ、私の指先にそっとキスをした。
「ユーイン」
「ごめん、俺は……今まで甘えすぎていたんだ。もう少し早く気がつけば良かった。気づいたって、どうにもできなかったんだろうけど」
「どういうことなの? ちゃんと言ってくれないと分からない」
「この傷も俺のせいでついたんだ。一生消えない」
「違う。違う、これは相手が悪いだけであって……」
「でも、そんな仕事をしていたのは俺のせいだ。ごめん、姉さん。もう一生頼らないから。今後は、自分のために生きていってくれ。まだ間に合う」
間に合う? 一体何が。沢山聞き返したいことがあったけど、何も聞き返せなかった。ユーインも目にうっすらと涙を浮かべていたから。呆気に取られていると、持っていたトランクを床に置いて、私のことを強く抱き締めてきた。
「ごめん、今までありがとう。できたら、もう人は殺さないで欲しい……。他の仕事を探して、真っ当に生きていって欲しい。自分で稼いだお金は、自分のために使って欲しい。俺もそうするから、姉さんもそうしよう。離れるんだ、その方がお互いにとっていい」
「嫌だ!! ねえ、ユーイン。忘れたの!? だって、今までずっとずっと二人で生きてきたのに!」
「だめだ。それじゃだめなんだよ、姉さん。外の世界を知って、常識を身につけて欲しい。大丈夫、姉さんはまだ十九歳なんだから。いくらでもやり直せる」
「ユーイン……一体どうして? 急にそんなことを、」
「ごめん、今までありがとう。言葉では言い表せないほど、感謝している」
それなのに、私から離れていくんだ。ユーイン。ぼんやり佇んでいると、辛そうな表情を浮かべ、頬に触れてきた。名残惜しそうに、ゆっくりと頬の輪郭をなぞったあと、手が離れてゆく。それが最後になった。何度も振り返ったのち、玄関ドアを開けて、とうとう立ち去ってしまった。全身の力が抜けて、へたり込む。白い壁にもたれたら、じわっと涙が滲み出てきた。寒い。早く立ち上がってリビングに行かないと。それなのに、気力が湧いて出てこない。何もできない。
「ねえ、バーデン。私の何が悪かったと思う……?」
「可哀相に、シェリー。弟に裏切られた気持ちでいっぱいか」
ショートパンツのポケットから、黒い鱗を持ったヘビが出てくる。すぐさま、バーデンが変化した。見上げてみると、黒髪に赤い瞳の男性になっている。いつものように、黒い手袋をはめ、黒いローブをまとっていた。何となく、その目が赤スグリみたいだなと思った。
「裏切られた……?」
「そうだ、手塩にかけて育ててきた弟なのに。どうする? 殺しに行くか? 手を貸すぞ、シェリー」
「いらない。私が欲しいのはお人形じゃないから。ちゃんと、私の意見に逆らう弟が欲しいの。バーデンだって、そういう気持ちになる時があるでしょ?」
「ああ、あるな。思い通りになってしまう人間ほど、つまらないものはない。どいつもこいつも弱くてもろい」
「私も?」
「いいや。お前はあっという間に壊せそうな、繊細なものに見えて、なかなか壊れやしない……。いつだって、心の根幹が揺らがない」
「心の根幹が……?」
「ああ、そうだ。そのままでいてくれ、どうか。変わらないでいてくれよ、愛しのシェリー。愛してる」
床に膝をつき、私の長い黒髪を手に取って口づけた。バーデンの“愛してる”は、いつも不穏ね。そんな軽口も叩けなくて、ぼうっと座り込む。どこか機嫌良さそうに、私のことを抱き寄せてきた。すっぽりと腕の中におさまる。両目を閉じれば、さっきのユーインの顔が浮かんできた。真剣な目をしていた。もうこのまま、眠っちゃおうかな……。今はなんだか、すべてを忘れて眠りたい気分。肩口に顔を埋めてきたバーデンの頭を、ぽんぽんと撫でてやる。低く笑って、さらに体を締めつけてきた。苦しい。背中が痛い。
「バーデン、苦しいからもうちょっと腕の力を緩めて。それから、それから……」
「それから?」
「私を抱き上げて、ベッドに移動させて。もう疲れたの。ひと休みしてから出かけなくちゃ」
「どこに行くんだ? シェリー。どんなことでもお安い御用だが」
「ボスに会いに行く。もう仕事はできないって伝えに行かなくちゃ。ユーインがね、人を殺して欲しくないんだって。そう言ってたの」
「ふぅん。人を殺さないお前に、一体何の価値がある?」
「そう思ってたんだけど……。ねえ、普通の女の子になった私は嫌い?」
バーデンがうやうやしく、私のことを抱き上げた。肩に手を回して、しっかり抱きつけば、喉を鳴らして笑う。バーデンは人外者で、私とある契約をしている。契約というより、約束かも? 気が抜けないんだけど、こういう時は甘えてもいいと思う。多分。両目を閉じていれば、廊下を滑るように歩き、私の部屋のドアを開け放した。
「嫌いになんてならないよ、シェリー。だって、お前は一生普通の女の子になれやしない……。この手で、今までどれだけの人数を殺してきたんだ?」
「さぁね、覚えていないの。数えるなんてそんな、悪趣味なことはしないから。中には一人、二人と、いやらしく数えてる人もいるけど。ぜんぜん楽しくない……」
「そうか。俺が代わりに数えてやったら良かったな。それだと、悪趣味なことにはならないだろう?」
「どうだろ。なるんじゃない? それに、これからはゼロだから。もう人は殺さないの、誰も」
「ああ、つまらん! 付け入る隙が減るじゃないか。まったく……。ユーインもユーインで、余計なことをしてくれた。あのボウズめ」
「殺さないでくれる? ユーインのことを」
「もちろん。心が壊れたお前はつまらんからな」
「そう、良かった」
バーデンはこういう時、嘘を吐かない。ゆっくりと私を、薄暗い部屋の中にあるベッドへおろした。真っ赤な瞳が、暗闇にひそむ猫みたいにらんらんと輝いてる。人外者特有の光る瞳は、見ていて面白いから好き。さっき、ユーインがしてくれたように、私もバーデンの頬をなぞる。手のひらでゆっくりと。すると、いぶかしげに赤い瞳を細めた。
「……どうした? 寝るんじゃないのか」
「着替えなくちゃ。寝ると、何もかもが終わってしまいそうで怖いの。クローゼットの中から、小花柄のワンピースを出してくれる?」
「俺はお前のメイドじゃない! この力はそういうことをするためにあるんじゃないんだぞ!?」
「じゃあ、立って歩いて、手動で服を取り出せばいいじゃない。お願いね?」
「まったく、良い度胸をしてやがる。ほらよ。あと、下にもズボンを履くんだろ?」
「ズボンじゃなくて、ペチコートね。ありがとう。そうだ、トレンチコートも取ってくれない? まだ肌寒いでしょ」
「ほらよ!」
ちょっとだけキレながらも、魔術で引き寄せてくれた。ばさっと私の頭上に落ちてきて、思わず笑う。笑うような気分じゃないのに、本当は。バーデンに後ろを向いてと頼めば、しぶしぶ背中を向けた。見られても別に気にしないんだけど、ユーインが気にするから、私も気にするようにしてる。
「ねえ、どうしてユーインは私を置いていったんだと思う?」
「変わって欲しかったんだろ、お前に。でも、あいつもあいつでお前と同じように、考えが捻じ曲がってるからよく分からんけどな」
「なぁに? 捻じ曲がってるって。私はともかく、ユーインは捻じ曲がってないから。まっすぐだから!」
「たまに姉弟だなと思うよ。変なところがよく似てる」
人間のように笑って、腕を組んだ。バーデンは人間との生活が長いみたいで、たまにそういうことを言う。変なの、人外者じゃないみたい。トレンチコートを羽織って、茶色い革のポシェットをさげる。いつもならスニーカーにするけど、今日は黒い編み上げブーツにした。玄関ドアの前に立ち、黄金色の鍵をドアノブに近付ければ、ふっと鍵穴が現われる。
「ねえ、いーい? バーデン。ないとは思うけど、もしも私が折檻されそうになったり、殺されそうになったら助けてね?」
「分かった。血が二滴ほど落ちたら助けてやる」
「うん。じゃあ、それでいいから。あ~、緊張しちゃうなぁ。ボスの機嫌が良いといいんだけど」
「どうだろうな。それはさておき、新しい職場が見つかるかどうか……」
「人外者のくせに、そういう常識的なこと言わないで!! いいもん、いざとなったら叔父さんに働き口を探してもらうから!」
「怒るなよ、そんなに。扱いづらいな」
出現した鍵穴に鍵を差し込めば、今度はベルが現われた。黄金色の巨大なベル。ひもをぐっと引っ張れば、ビーッ、ビーッとすさまじい音が鳴って、ベルの中から慌ててハトが飛び出してきた。その隙に、バーデンがカラス姿になって、私の肩に降り立つ。いつも、事務所に行く時はこの姿になって遊んでる。前みたいに、書類にふんを落とさなきゃいいけど。ドアノブを掴み、押し開く。
「この演出、無駄だと思う! ハトが出てくるようにしなくてもよくない?」
「まあ、そう言うなよ。何か意味があるんだろ、意味が」
「ボスのことだから、絶対ないと思う……」
ドアを開けると、そこは書類とゴミが散乱した事務所だった。相変わらず、事務机いっぱいにガラクタが広げられている。どこかのゴミ捨て場から拾ってきたような三輪車にテディベア、押し車に自動車の模型、小さい女の子がごっご遊びに使いそうな人形とホウキに、汚れたバケツと古着……。カラス姿のバーデンが、嬉々としてガラクタの方へ飛んでいった。山の上に降り立ち、ふんとえらそうに胸を張る。
この惨状に意味があると思っている男はデスクチェアに座り、オットマンに足を載せ、文庫本をアイマスク代わりにして眠っていた。器用だ。本が、顔からずれ落ちたりしないのかな? 今日も今日とて、薄汚い黒色のスーツを着てる。触りたくないけど、触らなきゃ。ぐごー、ぐごーと、呑気にいびきをかいて眠っているボスの肩を掴み、揺さぶる。
「ねえ、ボス! せっかくベルを鳴らしたのに! 起きてくださいよーっ!」
「……どうして、俺がお前ごときのために起きなきゃならない? 理由を聞かせてくれよ、クソガキ」
「やめたいんです、殺し屋の仕事を。あと、情報局のお手伝いもやめます。今後、魔術師はあなた達だけで、殺してくださいって伝えておいてください!」
「そう伝えるのは簡単だがな……。どうした? 給料はたっぷりとやっているだろう? 何かあれば、お前の叔父さんに睨まれるのはこの俺なんだ。勘弁してくれよ、まったく」
寝起きとは思えないほど、すらすらと文句を言い出した。もー、いっつもこうなんだから! じっとりした目で睨みつけていると、溜め息をつき、顔に載せてあった文庫本を回収する。目覚まし時計だったみたいで、ページには残り時間が表示されていた。それから、疲れて充血した青い瞳を私に向けてくる。ぼさぼさの黒髪といい、伸びた不精ヒゲといい、不潔としか言いようがない。
「それで? 俺を睨みつけていないで、口があるのなら理由を話せ。どうした? 何があった? 無慈悲なシェリー」
「やめてよ、そういう変なあだ名で呼ぶのは! ……ユーインが出て行っちゃったんです、ボス。人を殺すような私は嫌いだって」
「そうか。いい機会だから絶縁しろ。前から思ってたが、お前ら姉弟は距離が近過ぎだ。良かったな、離れられて」
「ボス!! だから、仕事をやめるって言いにきたのに!」
「それとこれとは関係ないだろうが、まったく。嘘でも何でも吐いて、騙しておけ。そんで、こっちからの仕事は請け負え。情報局の方はもういいから。ようやく新人が使いものになってきたところだし」
「恋心を利用するの?」
「あ?」
立ち上がって体を伸ばしていたボスが、けげんそうにこっちを振り返る。ボスの怖い奥さんに言いつけちゃおうっかな~。情報提供の見返りに、ボスを説得してくれるかもしれない。とにかく、この人を納得させないと始まらない。叔父さんに告げ口されちゃうし。
「だってあの人、ボスのことが好きですよ。恋心を利用して、汚れ仕事をさせるんですか?」
「……ちょっと待て、初耳だ!! それに、あいつからハードな仕事を頼むって言ってきたんだぞ!? 金が欲しいからって、」
「そんなのは口実です! 奥さんに言いつけてもいいですか?」
分かりやすく、さぁっと青ざめる。私からすれば、品が良くてにこにこ笑ってる奥さんなんだけど、ボスからすると怖い人みたい。おちおち浮気もできないって、いつもぼやいてる。想像した通り、焦って両肩を揺さぶってきた。舌を噛んじゃいそう。
「おっ、おおおおおお前はっ! いつもそれを引き合いに出せば、俺が大人しく引き下がると思いやがって!! そ、それに何も言われてないぞ!? 大体、あいつは誰にだって愛想が良いわけだし……」
「でも、私がボスの愛人じゃないかどうか、しつこく確認してきたんですよ? クロです。いいえ、脈ありです」
「分かった……。今さらやめさせるのもあれだし、そうだ。こうしよう」
「どうして、ボスは不潔なのにモテるんですか?」
「それ、今朝も彼女に言われた。一番そう不思議に思っているのは俺の妻だな。でも、何も不思議なことじゃない。俺の顔が良いからだ」
「そうですか……」
真顔で言ってきた。よく分からない……。この人のどこがいいんだろう? どことなく機嫌良さそうに咳払いをして、私の肩から手を離した。
「まあいい。ちょうど、お前向きの案件が舞い込んできたところだし……。叔父さんには俺から言っておくよ。だから、いいな!? 絶対絶対、俺の妻に余計なことは言うなよ!? でないと殺される! 川に俺の死体が浮かぶのを見たいか!? なぁ!」
「ちょっと見てみたいかもしれません……ふふっ」
「ほーお? いい度胸しやがって」
「むぐわっ!?」
力強くぎゅっと鼻をつままれた。涙目で押さえていると、手をぷらぷらさせながら、壁際の資料棚を見つめる。
「まあいい。お前みたいな不思議ちゃんのクソガキから、解放されることになって願ったり叶ったりだ。あの人の姪っ子でさえなきゃ、一瞬で放り出していたものを」
「ボスにも、むぐ、そういう遠慮があったんですね……」
「……あの人を誰だと思ってる? ここの元締めだぞ。まあいい。依頼は王宮からだ。さっさと行け。さっさと行って、俺の目の前から消え失せろ。あと二十分ほど昼寝がしたいんだよ。邪魔しやがって!」
私に一通の封筒を渡したあと、ぶつくさ文句を言いながら、デスクチェアに座ってまた本を顔に載せた。あっという間に眠りに落ちて、いびきをかく。何だかそういうおもちゃみたい。
「王家の紋章が描かれてる……」
「どうやら本物みたいだな」
黒いカラス姿のバーデンが、私の肩に降り立つ。白い封筒には、羊の角を生やした女神の紋章が描かれていた。女神様は、真っ赤な薔薇を咲かせているイバラに包まれた剣を持ち、美しく微笑んでいる。封筒から、ほのかに甘い匂いが漂ってきた。まるで、紋章の薔薇が香っているみたい。これを受け取った瞬間から、私の人生は予想していない方向へ大きく動き出していった。