9 黒い幽霊?
「痛い!」
医務室で私は大きな声を上げた。
「軽い捻挫ですけれど、痛いと悲鳴を上げるほど怪我はしていませんよ」
痛い、痛いと声を上げるものだからお医者様が顔をしかめながら私の足に湿布を貼る。
階段から落ちてすぐにエドモンド様に助け起こされ、医務室まで運んでくれた。
医務室には心配して付いてきてくれたルビーちゃんも居る。
「私の取柄は病気と怪我をしたことが無かったことなのよ!だからちょっと捻っただけでも痛いんです!」
医者が湿布を貼る行為ですら右足首が痛むのでもっとそっと触ってほしい。
文句を言う私を初老の男性医師は嫌そうな顔をして包帯まで巻いてくれる。
「これが初めての怪我ですな!こんな大騒ぎをして一週間もすればよくなりますよ。湿布が取れない様に包帯を巻きますが、決して大袈裟な怪我ではないことは心に停めておいてくださいね!」
あまりにも私が騒ぐからか医者は嫌味のように言ってくる。
「レティ、大丈夫か?」
アレックス王子が医務室に飛び込んできた。
忙しいながらも仕事を抜け出して来てくれたのだろう。
「足が痛いわ!」
「大した怪我ではありません。軽く足を捻っただけなので湿布を貼って数日もすれば治ります」
痛いと報告する私の声に被せるように医者が報告するとアレックス王子はホッとしたように息を吐いた。
「良かった。レティが痛いと騒いでいたと報告を受けたから大怪我をしたのかと思ったよ」
私の前の小さな椅子に座ってアレックス王子が言うと、医者は鼻で笑う。
「大袈裟なんですよ」
また医者が余計なことを言うが痛いものは痛いのだ。
ギロリと余計なことを言う医者を睨みつけると部屋の隅で様子を見ていたエドモンド様が噴きだして笑った。
「すいません。レティシアちゃんがあまりにも昔と変わっていなくて。可愛らしいね」
笑いを押さえようとしているエドモンド様に、アレックス王子も微笑んだ。
「全くだ。可愛いレティ、どうして階段から落ちたのか聞いてもいいか?君の悲鳴を聞いた人たちから報告があったのだけれど、幽霊って叫んだんだってね?幽霊を見て驚いて落ちたのかな?」
優しい口調だが、アレックス王子の目は鋭い。
金色の目が私をじっと見つめる。
「幽霊かわからないけれど、黒い影のようなものに私は上から押されて落ちたのよ!」
落ちる時に見た黒い影を思い浮かべる。
「幽霊がレティを階段から落としたということかな?」
確認するように言われて私はもう一度よく思い出そうとする。
「確かに黒い影だったわ。何となく幽霊と言ってしまったけれど……幽霊だったらどうしよう。こ、怖いわ」
階段から落ちた興奮と足の痛みですっかり忘れていたが、幽霊らしきものに私は階段から落とされたのだ。
思い出して震えている私にアレックス王子が面白そうな顔をしながらも背中を撫でてくれる。
「可愛いレティは幽霊の類が苦手だからね」
「幽霊が苦手なんですか?」
アレックス王子を憧れの目で見つめながらルビーちゃんがオズオズと言う。
居ることに初めて気づいたというようにアレックス王子は目大袈裟に驚いて彼女を見た。
「おや、ルビー嬢も居たのか、偶然だね」
絶対報告を受けて全て知っている癖に、すっとボケるアレックス王子にルビーちゃんは控えめながらも上目遣いで王子を見つめた。
「はい。レティシア様が落ちてきて驚きました」
「そう。怪我が大したことないみたいだからもう帰って大丈夫だよ」
ニッコリ笑って言うアレックス王子に顔を赤くしてルビーちゃんは頷いた。
「はい。今日はお会いできてうれしかったです。失礼します」
丁寧にお辞儀をして医務室から去って行った。
アレックス王子は彼女が出て行くのを確認して、エドモンド様を振り返る。
「城の中は騎士が警備していたはずなのに、なぜかレティが落ちた時は誰も居なかった。唯一、エドとルビー嬢が傍に居たのだが何か異変は無かった?」
「特には……。下の階に僕とルビー嬢が居たから僕達が黒い影の犯人ではないよ。それは証明できる」
「エドを信じよう」
アレックス王子はそう言うと私を見つめた。
「目撃者が誰も居ない。やはり幽霊かもね」
「ひぃぃぃ。今日、寝るのが怖いわ」
震えている私にエドモンド様がまた笑っている。
「幽霊なんて居ないと思うよ」
不安がっている私を慰めようと言ってくれているのだろうが、幽霊は絶対に居るはず。
「そういえば、レティはいつからか夜を怖がるようになったと言っていたね」
「よく知っているわね。アレックス様と遊ばなくなったぐらいから夜が怖いのよ。なぜかしらね」
自分でも忘れている何かがあるのかもしれない。
それでも幽霊は怖いのだ。
首を傾げていると、アレックス王子が肩をすくめて立ち上がる。
「本人にもわからないのだから仕方ないね。何か思い当たることがあれば教えてくれ。とりあえず部屋に戻ろうか」
そう言って私を抱え上げる。
考え込んでいた私は視界が急に高くなり小さな悲鳴を上げた。
「わっ、一人で歩けるわ」
アレックス王子の手を煩わせるのが申し訳なくて慌てて言うが、王子は軽く首を振った。
「あれだけ大騒ぎをしているのだから無理しない方がいいよ」
「アレックス王子、僕が運ぼうか?」
私が助けを求めたのが解ったのかエドモンド様が申し出てくれるがアレックス王子は首を振った。
「愛するレティを他の男性に触らせるわけにはいかないね」
「それは惚れ薬の影響?王子様に運ばれたら私が誤解されちゃうわ」
この姿をヘレン婦人が見たらますます殺意が私に向いてしまうかもしれない。
ルビーちゃんもあの様子だとアレックス王子に憧れているというよりは恋心を抱いている様子だった。
ルビーちゃんも敵に回すような行動は避けたい。
「僕が惚れ薬の影響だけでレティを心配していると思っている?」
私を抱き上げたままアレックス王子が聞いてくる。
顔が思いのほか近くてのけ反るが大して距離が開かない。
「少なからず惚れ薬の影響はあるでしょう?!」
アレックス王子の顔の近さに赤面しながら小さく叫ぶとうれしそうにニッコリ微笑んだ。
「そうだね。多分薬の影響もあるかもしれないけれど、可愛いレティは昔から大好きだよ」
微笑んだままアレックス王子の顔が近づき私の額に音を立ててキスをした。
「ひぃぃぃ、何?」
「僕の愛を信用していないようだから、これから態度で示そうと思ってね」
宣言するように言われて助けを求めるようにエドモンド様を見る。
エドモンド様は驚いたようにアレックス王子を見呟いた。
「驚いたな。惚れ薬が効いているのか?少し王子の様子が変だ」
「だから言っているじゃないですか!ちょっと変だって!」
「惚れ薬など偽物だと思っていた……」
本気で驚いているエドモンド様をちらりと見てアレックス王子は歩き出した。
「僕は惚れ薬の影響でレティへの愛が大きくなっただけだよ」
そう言い残して私を抱えたまま医務室を出て行く。
医者はドアを開けてくれたがアレックス王子に抱えられた私を冷めた目で見た。
「フン、大袈裟ですよ。ちょっと捻っただけですからね」
「酷い!痛いんです!」
私が頬を膨らませて言い返すと、アレックス王子は楽しそうに笑いだした。
「レティが痛いというから。僕は甘やかしたいんだよ。ねぇ、レティ」
そう言うとまた私の額にキスをする。
「ひぃぃぃ。なんかアレックス王子が変です!」
悲鳴を上げる私を楽しそうに見つめながらアレックス王子は歩き出した。
非常に楽しそうな顔をしているが、こんな恥ずかしい思いをするぐらいだったら痛くても一人で歩けばよかった。
後悔をしながら私はアレックス王子に抱えられながら部屋へと戻った。