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麗国 礼子の大失態

(早速、鴨がお出ましね!)


 ディナー営業が開始され、さっそく身なりが立派な2人の男性客がやってきた。

確か片方は、ワイン好きで有名な大学病院の教授の西城先生だ。

これはマルゴーを売りつけるチャンスだと思い、礼子は近づいてゆく。


「いらっしゃいませ。ご無沙汰をしております、先生!」


「おや、礼子さん。お久しぶりです。その格好は?」


「御多分に洩れず弊社も人材不足でして……今日はピンチヒッターとして、ソムリエをしているんです」


「そうですか。そちらも大変ですな」


「とんでもありませんよ、先生!」


「それにしても……」


 西城先生は眉間へやや皺を寄せながら、周囲の匂いを嗅いだ。


「どうかなさいましたか?」


「いつもと違い妙に甘い香りがするような……いつもはこんな匂いはしないもので」


「さすがはお鼻の研究の第一人者の西城先生ですね! この匂いの正体は私の香水ですよ!」


「香水? ああ、そうでしたか……」


 西城先生は顔を顰めながら、そう言った。

しかし鈍感な礼子は西城先生の真意に全く気がつかない。


「ところで先生。本日はおすすめのワインがあります! なんと今夜はあのシャトーマルゴー2009が飲めるんですよ」


「ほう、それは貴重なものお出しで……しかしいささか、供出するには早いヴィンテージでは?」


「え? あ、そうでしょうか……?」


「とはいえ貴重なのも確かです。いつものコースにそのマルゴーをお願いしましょう」


「あ、ありがとうございますっ!」


……早速、ボトル一本を販売。

やはり、楽勝だと礼子はほくそ笑んだ。


「みんな! 私、早速マルゴーを売ったわよ! 私のような素人でもできるんだから、貴方たちもさっさと成果を上げなさい!」


 礼子は嬉々とした様子で、ワインボトルを縦にしつつ、しっかり両手で掴んで西條先生のところへ運んで行こうとする。


「あの、専務……」


 一人の従業員が意を決して、礼子へ何かを伝えようとしていた。


「ふふーん」


 しかし礼子は全く気付く様子も見せずに、マルゴーをしっかり掴んだまま、ホールへと出て行ってしまった。


「……しっかり両手で握っていますね」


「先生の大事なワインですので!」


……しかしこの時、礼子は気がついていなかった。

席へ付いた途端、西條先生が礼子のことをすごく冷たい視線で一瞬睨んでいたことに。


(順調、順調! さぁて開けるわよ!)


 智仁や黒松の抜栓の動きを思い出しながら、礼子はソムリエナイフの刃でキャップシールを切った。

スクリューをコルクへねじ込んでゆく。

そして"ポンっ!"と軽快な音を伴って、コルクを抜き放った。

礼子はワインをすんなり開けられた自分自身にご満悦の様子だ。


「……」


 西城先生が再び顔を顰めていたが、やはり鈍い礼子は気がついていない。


「どうぞ、マルゴーですっ!」


 そしてグラスへドボドボと注ぎ出す。

多少ボトルから液体が垂れ、白いテーブルクロスに赤いシミが浮かんだが、礼子は全く気にした様子をみせない。

 更にグラスの中には、"黒い固形物"さえ浮かんでいる始末。


 先生も我慢の限界という風な表情だった。

しかし何も言わずにグラスへ鼻を近づけた。


「……」


「いかがですか、先生?」


「…………」


「先生?」


「……申し訳ないが礼子さん、少し私から離れてくれませんか?」


 さすがに鈍い礼子であっても、西城先生からの明確な"怒り"を気取ったようだ。


「さっきから君の強い匂いの香水が気になって、ワインの香りに集中できないんですよ!」


「あ、あっ! す、すみませんっ!」


 礼子は慌てて西條先生との距離を置いた。


「礼子さん、貴方との付き合いは長い。だから、先のことを思って敢えて言わせてもらいます。このワインがいくら大切なものでも、素手で持ってくるなどあってはなりません! せっかく沈殿しているオリが攪拌されてしまって、いい熟成をしているワインの風味を損ねます! 手の温度で温まってしまうことも考えられます!」


「ーーっ!!」


「本来ならばパニエ……ワインボトルを寝かせた姿勢で入れられるカゴです。それに入れて持ってくるべきです!」


「……」


「香りを開かせるためにも、このワインにはデカンタージュは必要かと思います!」


「デ、デカンタージュ……?」


 おうむ返しをした礼子へ、西條先生は深いため息を吐く。


――デカンタージュ。

専用のガラス容器に移し、空気を接触をさせて、ワインの香りを開かせる作業のこと。

熟成によって生じたオリを取り除く意味もある。


「そんなことも知らずにソムリエとしてホールに出ているのですか? そこを判断し、提案するのもソムリエの役目です! 少なくともこのワインは10年以上熟成しているので、私ならデカンタージュを提案すると思います。提案しなかった意図はなんですか!?」


「え、えっと、それは……」


 正直に知らなかったと弁明すべきか。

だが妙なプライドが邪魔をして、なかなか言い出せない。


「コルク栓を抜く際は音を立てずに! クロスへ溢すなど言語道断! 香りの強い香水など付けるべきではありません! ホストティスティングもありませんでしたし……ここは貴方のお家ではなく、サービスを提供するレストランなのですよ? そこに立っているという自覚はおありですか?」


「……」


「……まだ申し上げたいことはたくさんありますが……ここまでにしておきましょうか」


「っ……」



「しっかりと勉強をなさった上で、ホールへ出てください! これでは他のお客様に大変失礼です!」


 もはやタジタジな状態の礼子だった。

そしてここまで、公衆の面前で言われてしまったので、プライドが深く傷ついてしまっている。


「……急に怒鳴って申し訳ありませんでした。礼子さんは他のお客さんの相手をお願いします。あと、わかる方へデキャンタージュをお願いしてください。本当はボトルごと変えていただきのですが……まぁ、貴重なワインなのでこのままで良いでしょう。きちんとお支払いはしますので」


「……」


「早くしてください! このままではワインがどんどんおいしくなくなってしまいます! さぁ、早く!」


「――っ!!」


 先生からピシャリとそう言われ、礼子は早足でバックヤードへ逃げ帰ってゆく。

礼子の醜態を見て笑いこけていた従業員たちは、すぐさま表情を引き締めた。


「ちょっと誰か! すぐに除菌タオルシートを買ってきなさい! あと先生のところへ、えっと、なんだったかしら……」


「デ、デキャンタージュ行ってきます!」


 気の利く従業員が慌てた様子で、幅の広いフラスコのようなガラス容器を持って、ホールへ駆け出してゆく。

 ホッとした反面、プライドを傷つけられたような気がして少し複雑な心境だった。


「あなた達もくだらないおしゃべりをしていないでさっさと働きなさい! やる気が無いならさっさと帰りなさい!」


 だから代わりに他の従業員を怒鳴りつけて、ストレスを解消する。

そして更衣室へ駆け込んでいった。


「なんで誰も香水のことを指摘しなかったのよ! バカ社員どもが! それにパニエとか、デカンタージュとか、訳わかんない! 恥描いちゃったじゃない!! なんで誰も教えてくれないのよ……!」


 1人憤慨しつつ、香水臭いタキシードを脱ぎ捨てた。

しかし身体へも直接香水を振りかけているので、まだ甘い匂いが自分から立ち上っている。


「ちょっとタオルシートはまだなの!? 早くなさい!!」


 そう叫ぶと、慌てた様子で従業員が飛び込んできて、タオルシートを渡してきた。

 礼子はそれを無造作に受け取り、必死に体のあちこちを拭いてゆく。

そして香水の香りが消えたのを確認すると、バックヤードを見渡した。


(もうソムリエごっこなんてこりごりだわ! 黒松にやらせましょう!)


 しかし、どこを見渡しても黒松の姿は見当たらない。

 苛立った礼子は近くにいた従業員の肩を掴む。


「ちょっと貴方! 店の一大事に黒松はどこへいるのよ!!」


「あ、あの、えっと……帰られましたよ……?」


「はぁ!? 帰った!?」


「礼子さ……専務に帰れと言われたから、俺は帰るって仰って……」


……確かに礼子は黒松へ、"帰れ!"とは言った。

しかし本当に帰るなど……


(最悪よ! 何なのよ! これじゃまるで小学生みたいじゃない!!)


 本当に帰ってしまった人間を当てにすることはできない。

 幸か不幸か、今日のトゥール・ドォールは予約でほとんど満席状態だ。

客入りが多ければ、それだけマルゴーを売るチャンスに恵まれるはず。


(やるしかない! この私が! 大丈夫、私は有名人なのよ……!)


礼子は必死にシャトーマルゴーをお客へ売りつけようと、ホールを右往左往しはじめた。


「今夜はこちらのワインをいかがですか?」


「え? いや、その……」


「このワイン、おすすめですよ?」


「すまないが、こっちでよろしく頼むよ」


「マルゴーってのはですね!」


「そんなことわかっているのでお話しは結構。緑川さんをお願いできますか?」


しかしグラスでも数万円は軽く超え、ボトルでは30万円以上する代物など、簡単に売れるはずもなかった。

中には"緑川 智仁"を指名する客までいる始末。


(なんなのよ、一体……! どうして売れないのよ! それになんでみんな智仁のことばっかり……! ああ、腹が立つ!!)


 そんな中、食事を終えた西城先生が、レストラン支配人となにやら会話を交えているのがみえた。


「この度は誠に申し訳ございませんでした……」

 

「礼子さんへは緑川さんをきちんと見習うようお伝えください」


「いえ、それが緑川は退職をいたしまして……」


「そうでしたか。惜しい方を手放してしまいましたね」


「ええ、まぁ……」


「長い付き合いでしたが、ここまでのようですね……昔は本当にいいホテルだった……」


 しかしマルゴーの販売に必死になっていた礼子は、西城先生と支配人の会話を全く聞いていなかった。

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