各々にとってのワインとは?
(もう後はない……なんとしても結果を出すしかない)
黒松 健二はそう意気込みながら、古巣であるネオオーニタホテルを訪れた。
ここがブラインドティスティンググランプリの決勝戦会場となるからだ。
彼は建物の裏手にある従業員用出入口にたどり着く。
しかし相手の姿はなかった。
合流時間を1分も過ぎている。
苛立たしさを覚えた黒松は、ジャケットから紙巻きタバコを取り出す。
そして久々に火をつけ、煙を燻らせ始める。
本来味覚と嗅覚が命なソムリエにとって、タバコは御法度だ。
自殺行為と言っても良い。
だが、彼にはタバコを吸っても大丈夫な理由があったからだ。
「す、すみません、先輩。遅くなりました……けほっ」
出入口から現れたのは、かつて黒松の部下だったウェイターの男性。
更に大学時代のサークルでの後輩でもある。
このホテルも、そして黒松が所属していたサークルも上下関係が非常に厳しいことで有名だった。
「撮れたか?」
黒松はタバコを咥えながら後輩へ迫った。
後輩はタバコの煙に咳き込みながら、やや戸惑い気味にスマートフォンを差し出す。
そこには合計10本ものワインの写真が収められていた。
「これで間違いないな?」
「は、はい。昨晩、主催団体の職員が運び込んでいましたので間違い無いかと……」
「アルバリーニョに、信濃リースリングも……こんなのブラインドで当てられるか、バカが……!」
黒松は後輩が撮影してきた、BTG決勝戦に供出されるワインの銘柄を暗記してゆく
「あ、あの先輩! やっぱりこういうことは……」
後輩はそう言いかけたが、黒松に睨まれ口を噤んだ。
黒松はそんな後輩の胸ポケットへ、適当に折り畳んだ一万円札をねじ込んだ。
「ご苦労さん。これで今夜は久々にどっかで抜きな。相変わらず嫁さんとはレスなんだろ?」
「っ……」
「優勝して賞金が入ったら、高級店でも奢ってやる。それまでしっかり溜めとけよ」
黒松は半端に燃えたタバコを投げ捨て、古巣の裏口を後にするのだった。
黒松 健二にとってワインとは"自分を飾り、他者へマウントを撮るための手段"であった。
ワインを知っている。語れる。それだけで、多くの人は羨望の眼差しを送ってくる。
彼自身も、自分のティスティング能力や知識量には絶対的な自信を持っていた。
そんな彼だが、この古巣ではずっと冷遇され、不遇な日々を送っていた。
鶏口となるも牛後となるなかれーー実力を認めないネオオーニタよりも、自分を引き抜いてくれた麗国ホテルと礼子に着いた方が自分のキャリアにつながる。彼はそう判断して、転職を決意したのだが、結果はコレである。
(俺が優勝する。俺を認めなかったネオオーニタの馬鹿どもを、礼子を、この俺の足元で土下座させてやる)
こうした高慢な態度がこれまでの不遇と失敗の原因になっていることに、黒松 健二は全く気がついていない。
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(こんなものにみんな何万も、何十万も、何百万も使って馬鹿じゃないの? ワインなんて所詮は嗜好品。アルコールでしかないじゃない。無駄だわ)
麗国 礼子は、自社のワインセラーでティスティングをしつつ、そんなことを考えていた。
既にセラーには中途半端に開けたワインボトルが散乱していた。
彼女にとってワインは全く興味のわかない、アルコールの一つでしかなかった。
こんなものを喜んで飲み、大金を叩く人々を愚かとさえ思っている。
そんな彼女なのだが……
「ふぅん……これはええっと……モンテプルチアーノ・ダブルッツォオ・コッリーネ・テラマーレ……何よ、この長ったらしい名前は……イタリアワインってどうしてこんなに長い名前ばかりなの? 馬鹿じゃないの?」
そして彼女は、そのすべての香りや味を、天性の才能で明確に記憶していた。
幼い頃から麗国ホテルの後継者として、父母や親戚から味覚や嗅覚の英才教育を受けていた賜物である。
これでもし、ソムリエ資格の一つでも取得する素直さがあれば、状況は違っていたであろう。
しかし彼女自身、そうした資格には全く興味が無い。勉強というもの大嫌いなのだ。
しかしこの状況は、あろことか礼子へ妙な妄想を抱かせている。
(今回のファイナリストの中で、無資格なのは私だけ。何にもない私が、有資格者共を差し置いて優勝する……これほどいい宣伝はないじゃない!)
かつて、緑川 智仁とブラインドティスティングで勝負をし、彼に勝ち、無理矢理交際を始めた礼子。
同じファイナリストである智仁には負けたくない。
黒松を自分の犬にしておくためにも、主人の有能さを、優勝といった形で示す必要もある。
礼子は"ワインを愚かでつまらないもの"と思いつつ、己の将来のために、次々とボトルを開けてゆくのだった。
●●●
「突然の訪問、ごめんなさいなのでーす!」
BTG決勝戦の日が迫ったある日、突然、俺のマンションへ石黒さんを始めとしたワインラバーの会の女子大生たちがやってきた。
「やぁ、みんないらっしゃい。おーい、李里……」
「今日はお兄さんに要件なのです!」
石黒さん達は、それぞれ紙袋などでラベルを隠したワインを掲げてみせてきた。
これってまさか!?
「私たちからのブラインドの問題なのです!」
「ウィ!」
「わ、私たちあんまりお金がないからいいワインは買えませんでしたけど……何かの参考になればと!」
「ありがとう、みんな! 本当に!」
思わず少しうるっときてしまっていた俺。
そんな俺の肩をいつの間にか、横に現れていた李里菜が叩いてくる。
「みんな応援してる。頑張ろ!」
「おう! 頑張る!」
そんな中、再びインターフォンが鳴り響いた。
なんとなくこのパターンには覚えがあると思いつつ、扉を開くと……
「ちわぁーっす! マルックスの染谷でーす! ワインとゆうきをお届けにまいりまっしたぁー」
「も、もう姫ちゃん! そういうこと言わないでっ!」
大きな段ボールを掲げたマルックスワインインポートの営業で、ワインバルTODOROKIの担当である染谷姫子さん。
そして多分付き添い? なんだろう、日髙さんがいた。
「このワインって……?」
「姫ちゃんに緑川さんの決勝進出を話したら、会社からワインをかき集めてくれたんです!」
「営業用のサンプルですので気にしないでくださいね。お得意さんが頑張ってるので、せめてこれぐらいはしたいかなと! あとゆうきも入れば、もっとやる気がでるかなって。ねぇ?」
日髙さんが歩み寄ってくる。
そして綺麗な眼差しで、俺を見上げてきた。
「この間のティスティング素晴らしかったです! さすがは私の自慢の師匠です! 私も精一杯応援しますので、頑張りましょう!」
「ありがとう日髙さん、染谷さん……」
「なんだよ、女ばっかじゃねぇか。どうなってんだよ、これ……」
すると今度は玄関先に現れたのは……
「等々力!? なんでお前が!?」
「姉さんからの贈り物を渡そうと思ってな。受け取れ!」
等々力は何かが入った紙袋を掘り投げてきた。
中には、100ml程度の容器に詰められたワインと一枚のメモ用紙が。
『うちのお客から少しずつ奪ったワインだねぇ。お客の財布と私の期待に応えるためにも最低優勝だねぇ』
……またすごいプレッシャーを……しかも最低優勝って、それ以上もそれ以下もないじゃないっすか、不動さん……
態度や言動はいつも不穏だが、実は面倒見がすごく良くて優しい不動さん。
だから俺はあの人のことを、職場では離れ離れになってしまったけど、今でも頼もしい師匠として慕っている。
しかし店主の等々力に、日髙さんまでここにいる。
店の営業は大丈夫なんだろうか……。
そんなことを考えていた俺の脇を、なぜか上がり込んできていた等々力がよぎってゆく。
「台所かりっぞ」
「良いけど……なんで?」
「こんだけ美人が大勢揃ってんだ。飯の一つでも作って奢るのが漢ってもんだろ」
「ちゃっかり食材まで用意して……別に女の子がたくさんいるから作ろっと思ったわけじゃないだろ?」
「う、うるせぇ! ほらゆうき、手伝え!」
「は、はいっ! お邪魔しますっ!」
等々力と日髙さんは台所へ消えてゆく。
「飯ネー! お相伴に預かるネー!」
「あ、ちょっとクロエ! 勝手に上がるんじゃないです!」
「ごめんなさい、お邪魔します!」
「良いよ、ゆっくりしていって」
ワインラバーの会の三人も和気藹々とした様子で台所へ向かっていった。
この子達を見ていると、いつもとても楽しそうなので和んでしまう。
「あっ……もしもし武雄? あのね……今夜もゆうきやそのおも友達と晩御飯食べることになったの……ごめんね。後でちゃんとニャンスタアップするから……うん、大丈夫。そんなに心配しないで。うん、うん、ありがと……って、い、今? もう〜武雄は寂しがり屋さんなんだからぁ……大好きだよ、愛してるよ。私は今もこれからも、ずっとずっと武雄一筋だよ!」
染谷さんは俺へペコペコ頭下げつつ、旦那さんとそんなお熱い電話を交わしながら、我が家の奥へと向かってゆくのだった。
「みんな、応援してくれてる、ね。頑張らないとね?」
「ああ、そうだな!」
俺と李里菜もみんなのいる我が家の奥へと向かってゆく。
俺にとってワインとは"人と人を繋げるコミュニケーションツール"
だから今がある。こうして支えてくれる人がたくさんいる。
ーー第5回ブラインドティスティンググランプリ決勝戦まで後3日。
みんなの期待に応えられるよう精一杯頑張ろう。
俺は改めて心にそう誓うのだった!