李里菜の気持ち。ゆうきの気持ち。
緑川 李里菜。母親の再婚前は、矢島 李里菜。
叔父である"緑川 智仁"と出会ったのは、彼女が中学3年生の時だった。
当時、智仁と母親の再婚相手であり、父親となった"緑川 悠一"は同居をしていた。
本来、智仁は出てゆくべきだったのだが、彼は彼の仕事にとって重要な【ソムリエ呼称資格認定試験】の勉強の真っ最中だった。
だから悠一の配慮で、智仁は試験を終えるまで、引っ越しをしなくても良いこととなっていた。
(大人なのに勉強……大変そう……)
李里菜もまた人生の最初の帰路である、高校受験を控えていた。
仕事が終わると真っ先に机に向かう智仁の存在は、彼女にとってとても良い刺激となった。
2人はまるで本当の兄妹のように毎日肩を並べあって勉強に明け暮れた。
口数が少なくて、とても美人な李里菜。
周囲からはその美貌と神秘的な雰囲気から"白雪姫"といわれていたそうな。
ミステリアスといえば聞こえはいいが、彼女のような娘はある種の近寄り難さがある。
だから、彼女は友人と呼べる人がほとんど居らず、孤独だった。
しかし今は家に帰れば、同じように勉強に明け暮れる"智仁"の存在がある。
「おーい、李里菜さーん」
「はにゃ……はふっ!? ね、寝てました……?」
「うん、そりゃもうぐっすりと。今日はこの辺にしとこうぜ」
「わかり、ました」
こうして智仁と肩を並べて勉強する日々が、李里菜にとって次第に尊いものになり始めた。
「お菓子! 糖分補給! 脳の疲れを癒し、ます!」
「おっ!? 良い匂い! もしかしてこのケーキ李里菜さんのお手製?」
「もち!」
親族だけど、仲間のような、本当のお兄さんができたような。
「ト、モ……」
「ん? どうした?」
「これからは、そう、呼んでも良い、ですか……?」
「それが良いなら。じゃ、俺も李里菜で良いよな?」
「はいっ!」
最初は兄のように慕っていた。
だけどだんだんと気持ちが暖かいものに変化をしていった。
一緒に勉強する時間が、李里菜にとって最も大事な時間になり始めた。
しかし、この時李里菜は、自分が抱く智仁への感情に言葉をつけられずにいた。
やがて季節は巡り、秋に行われるソムリエ試験に智仁は合格。
そして翌年にも李里菜が目的の高校へ通えることとなった。
「李里菜がいたから、楽しく受験勉強ができたよ。ありがと。これからお互いにがんばろうな!」
「うんっ! トモも頑張って……!」
今生の別れじゃない。
智仁は親族なんだから、年に何回は会いに来てくれる。
李里菜は必死にそう自分へ言い聞かせ、涙を飲み込むのだった。
●●●
智仁と出会ってはや5年。
大人になった李里菜は、自分が彼に抱いている感情の正体には気がついていた。
先日、今の仕事先であるワインバルTODOROKIへ行って、彼の働きぶりを見させて貰った。
家にいる時よりも、何倍もカッコよく見えた。
だから牛すじとか、ワインの味はよく覚えていない。
そんな彼と、今同じ屋根の下で暮らしている。
母親も随分数奇な運命を辿っていたが、自分もなかなかのものだと李里菜は感じている。
(トモとの毎日、楽しい……。もうあんまり寂しくない!)
彼と一緒にいられるおかげで、だんだんと両親を失った悲しみは癒えつつある。
これから自分達の関係がどうなってゆくのかはわからない。
だけど、少しでも彼に、智仁に近づきたい。
そんな想いを抱き、李里菜は【初心者ワインガイド】という本を、一生懸命読み込んでいた。
(トモの大好きなこと、もっと知りたい!)
大学でも相変わらず1人でいることの多い李里菜。
彼女はそれを良いことに、本の読み込みに余念がなかった。
「あっ、あの子だよ寧子ちゃん!」
「WOW! まさか噂の白雪姫だったネ!」
「こらクロエ! 人を指差すんじゃないです!」
……まただ、と李里菜は思った。
こうして1人でいる彼女を面白がる人はこれまでたくさんいた。
きっと、今話していた人たちも、そうなんだろう。
(私は今、ワインの本を読むのに忙しい。気にしない、気にしない……)
しかし三つの足音がこちらへ向かってきている。
「なにか、よう、ですか?」
なぜか三人組の中心に立つ背の小さな、つり目の女の子がキラキラとした視線を寄せていた。
「私、【石黒 寧子】と申しますです! 緑川 李里菜さんで間違いないですよね?」
「え、ええ、まぁ……」
「もしかしてワイン、大好きですか!? だからその本読んでるですか!?」
石黒 寧子さんの突然の発言に、李里菜はどう答えて良いのやら。
「ネコちゃん、初対面でその聞き方はナンセンスネ」
脇にいた金髪で、人形のように可愛らしい女の子がため息を吐く。
随分日本語が上手だけど、留学生なのか……?
「いきなり御免なさい、緑川さん。私、森 沙都子です。同じ学部ですよ」
三人目の女の子は、このグループの中では一番大人びた雰囲気だった。
驚くべきは、グラビアアイドル並みに発達した胸の双丘。
そこには少々自信のない李里菜は、ちょっとだけ悔しさを覚える。
「あの、なにが御用……」
「スカウトですっ! 私たちのワインサークルに入りませんですか!!」
「ワイン、サークル……?」
「そう! みんなで持ち寄りのワイン会をやったり、じっくりティスティングをしたり、沙都子ちゃんの実家の山梨で農作業体験をしてみたり、最終的には就活前に"ソムリエ試験"をみんなで受けちゃおうって趣旨なのです!」
「ソムリエ試験!? 受けられるの!?」
以前、智仁に聞いた話では、ソムリエ試験とはワインなどを扱う飲食業に3年以上従事していないと、受験資格が得られないと言っていた。
「正しくはソムリエ呼称資格認定ではなく"ワインエキスパート呼称資格認定試験"を受けようってことですよ。これ、試験内容は一緒ですけど、20歳以上なら誰でも受けられる試験なんです。来年、私が受験予定だから、寧子ちゃんが一緒に受けようっていってくれて……」
森さんがそう補足をしてくれた。
ワインのことをもっと知りたい。
できれば智仁と同じ目線に立ちたい。
そう願い、ワインの勉強を始めた李里菜にとってはまさに辺りに船である。
「キミが入ってくれれば、サークル認定4名クリア! オープンに活動できるようになって色々有利ネ! どーネ?」
「どうですか?」
「神様仏様緑川様! どうか入ってほしいのです! 四人目をなかなか見つけられなかったのです!」
なんとなく、この三人組はこれまで自分に近づいてきた人たちとは違うような気がした李里菜は、
「……良い、ですよ?」
李里菜の回答に、三人は大はしゃぎとなった。
いきなりのことに、さすがの李里菜も苦笑を禁じ得ない。
「ありがとうなのです! 改めて、私が一応、長の石黒 寧子!」
「田崎 クロエ。よろしくネー」
「ありがとう、緑川さん! 一緒にワインを楽しもうね!」
「み、緑川 李里菜。よろしく、です……」
いきなりとんでもない展開となった。
でも、1人で勉強するよりも、だれかと一緒の方が得るものは多い。
それに……これまでの李里菜は、周りからただ見つめられる存在だった。
しかし、今は一つの輪の中に初めて入ろうとしている。
不安はある。でもなぜか胸の高鳴りが止まらずにいたのだった。
●●●
「はぁ……あの子、緑川さんのなんなんだろうなぁ……」
休憩室で机へべったり寝そべった日髙 ゆうきは1人そう呟いた。
先日、店へ智仁を訪ねてやってきた美少女の存在が気になって仕方がない。
すごく親しげな様子だった……むしろ仲睦まじい美少女と智仁の間には知り合い以上の強い繋がりがあるようにみえて仕方がなかったのだ。
結局その日、智仁はかなり急いで帰宅してしまったため、関係を聞き出せずにいた。
ここ数日智仁は他の仕事が忙しいらしく、開店前の勉強会はできていない。
「やっぱり緑川さんも男性だから若い子の方がいいのかなぁ……」
日髙ゆうき、周りからはかなり若く見られるが、実は三十路を間近に控えた28歳。
周りはすっかり結婚してしまい、子供がいる同年代だって珍しくはない。
崖っぷちである。
対して気になる美少女はおそらく大学生くらい。
男性は若ければ若い方が良いと聞く。
アドバンテージは明らかに美少女側にあるといっても過言ではない。
これまで恋愛などはほとんど意識せず、自由気ままに生きてきた28年間。
しかし智仁に何度も助けられ、心を惹かれ、彼と共に自由に生きてゆきたいと思うようになったのは、わりと前からのことである。
「恋人だったら悪いよなぁ……でも、そうじゃなかったら……」
なんにせよ、まずは智仁と美少女の関係を明らかにせねば。
しかしどうやったら……と思っていたその時のこと。
"HIME"
今夜、久々に一杯どう?
まるでタイミングを見計らったかのように、舞い込んできた年上で既婚者の友人からのメッセージがスマホに表示された。
旧姓:白石 姫子ーー現、染谷 姫子。
恋愛の酸いも甘いも、それ以上の修羅場さえも経験し、大恋愛の末、今の旦那さんと結婚をした彼女ならば、こっち方面でも強い味方になってくれるはず。
"ゆーき"
OK!
旦那さんは大丈夫なの?
"HIME"
武雄、今日から出張だから……だから寂しいの!
"ゆーき"
さびしんぼ
今夜は私が温めてあげるね!
"HIME"
バカ!
そういう発言、武雄が気にするからしないでって!
私は、武雄一筋なんだからっ!
「おい、ゆうき! 早く出てこい! めっちゃ混んでるんだぞ!」
扉の向こうから店主の等々力の声が響いてきた。
ゆうきは急いでロッカーへスマホを置くと、足早に休憩室を出てゆく。
「まずは仕事に集中! 緑川さんのことは姫ちゃんと後で一緒に考えようっ!」