前編
前編
「どうしたものか……」
大学から帰宅してはや一時間。ベッドに仰向けになって寝転がり、スマホを眺めながら何度目になるか分からない言葉を呟いた。
眼前の液晶画面には、親の顔よりも見慣れたとあるゲームが起動中で、そのチャットログが表示されている。リアルでは面識のないネット上の友達であるところのギルドメンバーが、今日も他愛のない話に花を咲かせていた。いや、他愛のないことはない話に花を咲き乱らせていた。
『何時にどこ集合?』
『サークル一つだと三人までしか入れないんだっけ。それじゃあ俺達は一般列に並ぶことになるから……十四時時ぐらいに集合しようか』
『十四時!? 混むってのは知ってたけど、そんなに時間かかるのか?』
『混むっちゃ混むけど、そうじゃなくて、ちょっと時間遅らせて行けば並ばずに入れるんだよ。十四時ならだいたいどこも空いてきてる頃合いだし』
『なるほど』
『僕は始発で行くよ! 三日目は目当てのサークルがあるしね』
『おー。これが噂に聞く始発組ってヤツか……』
『俺もあるけどさすがにしんどいから通販に期待。もう若くないからなー』
『いやいやナリさんまだ二十代って言ってなかったっけ……?』
『二十一』
『若いな!?』
『二十一で若くないって、一体いつから同人誌を……あっ(察し』
『とにかく、十四時で良い?』
『OK』
『了解。いやー、初めてのコミケだから楽しみだわ。あの画像みたいな大行列が実際に見られるなんて』
『毎年参加してる僕としてはウンザリだけどね。まあ年二回のお祭りだと思えば』
『お祭りって人の数じゃないだろ』
『屋内イベントじゃ世界最大クラスらしいからな……。なのはも開始数分で売り切れるぐらいだし』
『まじか!?』
『いやそれはネタだから』
『というか、そもそも安達さんのサークルが受からなかったらどうする?』
『その時はただのオフ会でいいんじゃね? 集合場所も秋葉原あたりに』
『それだとコスはどうすんの? それが本命なのに』
『カラオケでとか? さすがに無理か』
『理由がないのに着ないだろ』
『あろうがなかろうが普通は頼まれても着ないと思う』
『いやいやマスターは良い人だからもしかしたら……』
『OKしたらある意味尊敬するわ』
いつになくログの流れが速い。それだけ彼らも楽しみにしていると言うことだろうか……。
彼らだけで盛り上がっているのなら何ら問題はない。しかしログを遡っていくと、どうやらこの話に俺は深く関係しているらしく、というか俺を起点として始まっているといっても過言ではなかった。
気付いたのは数時間前。大学で講義を受けていたときのことだ。
「――であるからして、ここでは――」
延々と続く念仏のように、眠気を誘う教授の難解な呪文が静かな教室に木霊する。果たしてこの中の何人が真面目に耳を傾け、意味を理解し、必至になってホワイトボード一杯に書き殴られては消されていく無数の文字を抜けなくノートに書き写しているのだろう。半分か、それとも四分の一か。どちらにせよ、俺達から背を向けたまま板書し続ける教授が担当するテスト前には九割の受講者が残り一割の受講者に群がり、ノートを複製する儀式が毎度のように行われるのだから、たいした人数はいないだろう。しかしこの教授は人一倍板書が多い。もう少し要点を纏められないのだろうか。そういうのも講師として大事なことだと思うのだが。
心の中で悪態を吐く。もちろん俺のノートはほぼ白紙。ほぼ、というのは一応俺なりに頑張った痕跡があるから。すぐについていけなくなってシャーペンを投げたのだ。後で友達にノートを見せてもらおう。
授業を早々に諦め、ポケットから携帯を取りだし、前に座る人の影で操作する。何とは無しに横を見れば、同じようにして携帯を弄る人がちらほら。見つかれば当然注意されるのだが、それだけで取り上げられることはもちろん、点数に響くこともない。テストでの点数さえ良ければ良いので、もっぱら筆記音よりもプッシュ音の方が多い。これでそこそこ県下でも有名な大学というのだから不思議だ。他の大学の授業風景もこんな感じなのだろうか。
どうでも良いことは頭の片隅に押しやり、液晶画面をタップしてアプリを起動。ローディング画面は一瞬で切り替り、すぐさまタイトル画面に移行した。
フィルンクロニクル。でかでかと表示されたそれは、最近テレビのCMでもお馴染みなことから、ゲームをしていない人でも一度は耳にしたことのあるタイトルとしてそこそこの知名度がある。所謂ソシャゲと言われるスマホゲームであり、ジャンルは一応RPGに属する。短命と言われるソシャゲの中で、先月三周年を迎えながら今も会員数を増やし続け、毎週のセールスランキングのTOP10に居座る人気ゲームだ。
俺は一年ほど前からのプレイヤーで、切っ掛けは性能調査だった。当時買い換えたばかりのスマホの性能がどれくらいなのか調べるために、『旧式のスマホでは性能不足で動作に難がある』と言われていたこのゲームをダウンロードしたのが始まりだ。それまでソシャゲというものをしてこなかったので「所詮ソシャゲ」と下に見ていたのだが、やってみると意外と面白く、以来今に至るまでほぼ毎日ログインする程にはまっている。
タイトル画面を経由してギルドのページへ。ギルドとはゲーム内のプレイヤー同士で作るチームのようなものだ。ギルドに入っているとゲームを少しだけ有利に進められる効果があったり、月一で行われるギルド対抗戦に参加でき、特別な景品が貰えるなどのメリットがある。
ギルドメンバーが何か発信してないかとチャットログを確認する。
おっ。何人かが書込みしている。結構な量だ。
いつもは静かなうちのギルドとしては珍しい。何かイベントでもやろうとしているのだろうかと、ログを追っていく。
「……は?」
思わず声が漏れてすぐさま口を押さえる。前を見て、それから左右を見る。よし、誰も気付いていないようだ。
再び携帯に視線を落とす。開いたままのチャットログはやはり見間違いではなく、いつにない賑わいを見せるその中に、はっきりと書かれていた。
『コミケ受かったら、マスターに島風コスで売り子してもらおう』と。
突然だが、ネカマというものをご存じだろうか。ネットおかまの略であり、その名の通りインターネット上で,匿名性を利用して女性のように振る舞う男性のことである。ネカマの中には男に近づき貢がせたりと悪用するために自ら進んでネカマをする人もいるが、大抵は「どうせリアルで会うことはないのだからバレることもないし、別にいいだろう」と、軽い変身願望や、注目されたいという自己顕示欲を満たすために始めることが多い。また、自分好みの女性キャラクターを使用しているからそれに合わせたり、なんとなく性別を公表せずみんなと話していたらそういうことになっていた、という人もいるだろう。
……俺の場合は後者だった。
両親から、ネットに個人情報を載せるのは危険だと小さいころからきつく言われていた。そのため、アカウントを作成する際には偽の情報を入力するなど、出来る限りネット上で個人情報を公表しないようにしていた。その過度な警戒はゲーム内でも変わらず、個人情報に関わる話になると曖昧に受け答えをしていった結果、気付けば何故かみんなから「リアルは女の子」として扱われるようになっていた。こうなると今更自分から男だと言うのは騙していたようで気が引けるし、「ほら見ろやっぱり男じゃないか」と咎められるのも嫌だ。そもそも「どうせリアルで会うことはないし」と高をくくっていた。だから自分がどう思われていようが構わないと、放置していた。
そして今回の件だった。
彼らの話を要約すると、今度の年末に行われるコミックマーケット、通称冬コミに、ギルドメンバーの一人でありサブマスターである安達さんがサークルとして参加する予定(現在応募中で当落待ち)で、一般参加者として地方から上京するメンバーも数名いることから、せっかくなのでオフ会をしようということになったらしい。
……と、それだけなら別に良い。いや俺的にはそれもよろしくはないのだが、やはり問題はこの一言。
『コミケ受かったら、マスターに島風コスで売り子してもらおう』
マスターとは俺のこと。島風とは一部界隈で人気の艦これというゲームに登場するきわどい衣装を着た少女のこと。売り子とはサークルスペース内で頒布品を捌く人のこと。
つまり、男である俺が大勢の人の前で女装しろというのだ。ただし、ギルドメンバーからすれば俺は女となっているので、単にコスプレしろということになる。
「どうしたものか……」
そんな状況下での現在。ギルドチャットは今も更新されている。というかさっき反応していなかった人も増えてさらに盛り上がりをみせている。俺がまったく発言していないのに、何故か参加するという前提で話は詳細な内容にまで言及し、わりと真剣に進められている。みんなも乗り気で、中には当初冬コミに来る予定ではなかったメンバーまでも、実家に帰らず上京してコミケデビューするとまで言っている。雰囲気的にもう後には引けない感じだ。
コミケはもちろん東京のビッグサイトで行われる。俺の所在地が遠方であればそれを理由に断れるのだが、残念ながら東京在住で、しかも運の悪いことにあれだけ個人情報には気をつけていたというのに、所在地だけは東京でしかも二十三区内だとみんなに明かしていた(ほとんど事故のようなものだった)。あの時東京の話題を振ってきた安達さんは許さな――って今も安達さん発信の安達さん主導じゃないか。絶対許さない。
……何であれ、断わりづらいことに変わりはない。当日は予定があるとでも言えば断わるのは簡単そうだが……それも今回だけ。東京近郊に住んでいる人は多いようなので、これを機会にオフ会は定期的に開催されることになるだろう。そうなればいつかは参加せざるを得なくなる。ログを見る限り、みんな俺と会ってみたいと言っているのだから。嘘は長引けば長引くほどバラしづらくなるもの。今のうちに本当のことを言うのが後々を考えれば良いはずだ。
……が、それは本当に俺が男である場合の話だ。正確に言えば、彼らに会う時の俺が男である場合の話。断わっておくが、別に俺が女っぽい見た目をしているというわけではない。誰が見ても男と応えるぐらいには男らしい姿をした男だ。
何が言いたいかというと――
「どうしたものか……」
さきほどからの悩み。実は大学にいる間に『これ』に置き換わっていた。バラすバラさないなんてどうでもよくなるぐらいの出来事のせいで。
視線の先の液晶画面の中。その左上。ウロボロスのように二つの矢印が回転しているアイコン。
……ぽちっとな。
おもむろにアイコンをタップする。するとどうだろう。某七つの玉を集めるマンガに出てくる小さなカプセルをポイッと投げたときのようなボフンという効果音が耳に届き、ゆっくりと立ち上がって見つめる先の姿見に映るのは――
「やべぇ……」
頭文字に美しいという文字が付いてもおかしくない少女が、ぽけーっとした表情をして立っているではないか。
鏡に俺の姿はない。代わりに小柄な少女が映るのみ。少女は臆すること無くこちらを見つめ返し、不思議そうに首を傾げている。ソーメンのように真っ直ぐな茶色の髪の毛が肩にそって流れている。流しそうめ――何でもない。
しかしほんとかわいい……ってそうじゃない。
鏡の中の少女が頭を振る。表情にもどこか焦りのようなものも感じる。
……いつまでも現実逃避しても仕方ない。それを自分自身に証明するように、俺はゆっくりと手を上げた。
鏡の中の少女が同時に、同じように腕を上げる。続けて左足を浮かせて片足立ちすると、やはり少女も片足立ちになった。頬をつねると少女も頬をつねり、さらに頬をつねると少女もさらに力を加え、痛みで視界がちょっと滲むと、滲んだ先に見えた少女が泣いていた。
お分かり頂けただろうか。ご覧のように、信じられないことだが、鏡に映る少女は俺らしい。どうやらあのアイコンを押すことでこの少女になれるようだ。
気付いたのは学食でスマホを弄っていたときだ。どう返事したものかと考えていると、ふいにゲームがアップデートされ、このアイコンが追加されたのだ。試しにと押してみると、先ほどのようにボフンとゲームチックな音が聞こえた後に、自身の姿が少女になっていたのだ。ありえない出来事に叫ぶことも忘れて驚いた俺は、逃げるようにして自宅まで帰ってきた。
その後何度か試した結果、このアイコンを押す度に性別が変わることだけ分かった。なお仕組みは不明。公式からはお知らせもないし、ネットを漁ってみてもそれらしき情報はなし。SNSで知人のゲーム画面のスクリーンショットを見せてもらったが、矢印アイコンはなかった。理由は分からないが、俺だけがこの意味不明なアップデートがあったようだ。
まさか魔法少女的なファンタジー展開が!? と頭に花が咲いてそうな妄想もしてみたりもしたが、数時間経ってもマスコットキャラが登場しないのでそっち方面へのお誘いはないようだ。謎の少女が現われる気配もなし。いったいこれは何だというのだろうか。
しかし、これはチャンスだ。ちょうど良いことに(良くはない)、俺は今オフ会に誘われている。しかも女性として。これを使えば、今鏡に映るこの少女としてオフ会に参加できる。男じゃないかと咎められることもなく、後ろめたさを感じることなく堂々と参加できるのだ。
ただ問題なのは、一度そうして参加してしまうと、以降俺はその少女として毎回参加せざるを得なくなるということだ。
男として参加するか、それとも少女として参加するか……。
「……よし」
しばらく考えること数分。どう返事するか心に決め、ゆっくりとスマホをタップする。
『参加します』
いつものように、そっけない丁寧語の短文。なのに一瞬にしてそのコメントは新たに発言されたコメントで流されてしまった。『うひょー』やら『ktkr』やら『これはもう行くしかない』やらと歓迎するコメントばかり。なんだこの姫サークルみたいなヤツらは……こんな反応するヤツらだったっけ。
若干引くぐらいの反応。それだけ期待されているというのは嬉しいようなやってしまったなというか。とにかくこれでもう引き返せない。このアイコンがいつまであるのか甚だ疑問だが……まあ、何かあって男に戻ったときはその時謝ろう。
色々と不安もあるが、やはり「女でした」とみんなの前に出たときにどんな反応をするのか、その好奇心の方が強かった。




