裏庭生物空間
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
よーし、みんな光の屈折に対してはだいたい理解できたかな?
光が異なる物質を進もうとするとき、屈折が起きる。空気中から水中へ入る時、光の屈折角は入射角よりも小さくなるんだ。
水中じゃさすがの光も、空気中のようには動けないってわけ。あまり遠くへいけなくなるわけだ。
ある意味、水中は身近にある別世界といえる。
そこら中にある川やため池なんかはもちろん、洗面器に水をたたえただけで、この世界は簡単に姿を見せるもんだ。
普段、接することがめったにないものなら、私たちは敏感に反応する。習慣をはずれる、乱そうとするものは、ストレスのもとだしね。
けれどそばに抱え込んでしまっては、逆にその姿が見えなくなる。都合のいい面にのみ目を向けがちになって、他の面は隠れがちになってしまわないか?
水が溜まる。それは私たちが考えるより、重要なできごとかもしれないね。
ひとつ、先生の脱線話を聞いてみないかい?
先生が学生だった時分、通っていた学校にはビオトープ池があったらしい。
過去形なのは、先生が通っているときにはすでに、中身がからっぽだったんだ。
裏庭の一角を占拠する、石造りの空池。プールには及ばなくともそれなりの面積で、窓からひょいと見ると、石造りも相まって何かの棺のようだった。
花壇とかでっかいプランター代わりに使えそうなのに、なぜかそこを利用する気配は先生方には見えない。生徒たちも立ち入りを禁じられ、普段は柵で覆われている。
だが頑丈に封印されているという感じでもない。これもまたプールと同じように屋根は取り付けられておらず、そのまま野ざらしだ。雨が降れば、そこへ盛大に水が溜まり、自然に乾くに任せられる。
でも、先生はそれこそが狙いではないかと、思うケースに出くわしたのさ。
その日は、午前中の雨量こそすさまじかったが、午後になるとたちまち雲が散り、陽が差すようになったんだ。
数時間のすさまじい雨を受け止め続けた、元ビオトープ池はなみなみと水をたたえている。水深にして60センチ近くはあるだろうか。
午前中と打って変わった気温の上昇に、クラスのみんなはひーひーあえいでいたが、幸いにも先生の席は一番窓際。
風通しはいいし、カーテンも畳んであるから涼しい風を独占状態だ。たまに強く風が吹きつけるときなど、おでこの汗がうまい具合に冷えて気持ちがいい。
午後一コマめの授業も、眠気を誘われることなくばっちり終え、残りは一コマ。
ラストは国語だ。暇さえあれば教科書を読みふけり、すでにすべての内容を頭に入れた先生にとっては、ボーナスタイムも同然。
後日のノート提出にそなえて、内容を整えることのみに集中すればよかった。授業が始まってからの朗読担当も、今日は当たるところじゃないはずだ。
聞き耳は立てながらも、注意を受けない程度に、先生は窓の外をしきりに見やっていたよ。
元ビオトープ池は、先ほどより若干水位が下がったとはいえ、まだまだたっぷり水をたたえている。
それをぼんやり見やる先生の前で、不意に池のど真ん中に波紋が浮かんだ。
直前、左斜め上空から滑空した影を先生は捉えている。羽を広げた鳥だった。スズメくらいの大きさの、小さいものだ。
何の鳥かが分からないほどの早業だ。水面にまっすぐ突っ込み、さりとていささかもとどまることのない、V字の切り返しで空へ去っていく。
つい後を追うように頭を上げてしまい、注意を受けてしまうほどの印象的な景色だったよ。
そして、こいつは一回だけじゃすまない。
果たして、同じ個体だったかは分からないが、何度もビオトープ池はV字ターンの場所として使われたんだ。
先ほどの影が去っていった右斜め上方から、別の鳥影。先ほど波紋を立てたあたりに着水する。
すぐさま向きを変え、左斜め上へ。しぶきひとつ垂らさず、飛ばさない、まさにあとを濁さずという去りっぷり。
授業を真面目に受けるフリをしながらだったから、何度か見逃しがあったかもしれない。
しかし、それからも幾度も鳥たちが光の反射するがごとき角度で水面に入り、そして去っていく。
はじめ、先生はあの元ビオトープ池に魚がいるのかと思った。
鳥たちが水へ突っ込み、すぐさま飛び去っていくあの動きは、水面を泳ぐ魚を捕まえるような動きじゃないかと考えたんだよ。
しかし、目にする鳥たちはその口、その足などに魚やそれに類する獲物らしきものを携えていないんだ。
かといって、水浴びをするにはあまりにトンボ返りすぎる。彼らは何を……。
先生の疑問に、答えが見えてくるには授業終わり近くまでの数十分間を待たねばならなかった。
その終わり間際、先生が池へ目を向けて気が付いたことがある。
いつの間にか、鳥たちが着水した地点を中心に羽毛が浮かんでいたんだ。
一色や二色じゃきかない、カラフルな羽たちはしっかり身を寄せ合い、ビオトープ池に橋を渡すかのような横切り方で、真ん中から二つに分けている。
明らかに、手をくわえられてあのような形になった状態。先生の見る限り、この時間であの池へ近づく者はいなかった。
羽を並べるのも提供するのも、あの何度も飛び込んでいった鳥たち以外に考えられない。
――いささかもとどまらず、よくあれほど形を整えられたものだ。でも何のために?
そう思いかけたところで、先生はまたも影の落ち来るのを見る。
それはビオトープ池の三分の一は埋めようかという、ワシかタカかと思う大鳥だった。
速度を落とさず、またしても水面へ触れて切り返し、空高く消えていく。あの羽たちが集まるあたりに、これまでよりやや大きい波紋が浮かんだ。
なのに、羽たちの集まりはいささかも乱れない。それどころか、先ほどまでなかった茶色く大きな羽が、新しく残されているじゃないか。
先ほどからできていた、羽の橋。その上へ乗っかるひときわ大きな羽は、どこかショートケーキのイチゴのごときアクセントに見えたさ。
が、驚くのはそこからだった。
にわかに池全体が泡立ったかと思うと、そのふち全体へ、にわかに細かい突起が出てきたんだ。
上を向いた、獣の大きな口。
先生がそう思ったときには、牙たちは池のふちを離れて閉じ合わされてしまう。
池の肌と全く同じ色の口元。それがしっかり噛み合ったと思ったときには、もう下へ引っ込んでいってしまった。あの羽の橋を池の水もろとも、飲み込みながらだ。
瞬く間に空っぽになった池が、そこに残される。何度も目をぱちくりさせたし、帰りのホームルームのあとで、おそるおそる池へ近づいてみたさ。
確かに水は何もないが、露わになった池の壁全体には、真新しいこすり痕、けずり痕が残っていたんだ。
ただ引っ込んだ大口が潜っていったであろう、穴らしきものはどこにも見当たらなかった。
――まさか、あいつは今も池の底に寝そべるように潜んでいるんだろうか。
そう思うと、ますます近寄る気にはなれなかった。
そしてあの鳥たちは、この池に住まう大口のために、あの芸術的な羽の集まりをこさえているのかと思ったんだよ。