無気力勇者とその日常 その1 葉月
「なぁ、村田。」
「なんすか?」
誠二は、打ち合わせがてら昼食を一緒に取ることになった後輩に声をかける。
「いや、最近女子所員の視線がとげとげしい気がするんだが?」
「あれ?新見さん、そういうのは気づくんっすね。」
「いや、アレだけあからさまだと……ってやっぱり気のせいじゃないのか。」
「そうっすねぇ。」
「何か知ってるのか?」
気のない感じで、ずるずるッとラーメンをする後輩にそう問いかけてみる。
「んーっと、とりあえず聞きたいっすけど、新見さん、葉月ちゃんと付き合ってるってホントっすか?」
その問い掛けに、一瞬言葉に詰まる誠二。
確かに付き合っているのだが、他人からそう言葉にされると、何か気恥ずかしいものがある。
「あ、あぁ、まぁな。」
だから答えも、なんだかはっきりしないようなモノになってしまった。
「はぁ、新見さん、周りが敵だらけになったっていう自覚あるっすか?」
「そうなのか?」
『葉月ちゃん、俺らのアイドルっすからね。そのアイドルを掻っ攫った男は敵認定、当たり前っすよ。」
「って言われてもなぁ……。」
気持ちがわからなくも無い辺り、どう反応していいか困る。
「しょうがないっすね。いいっすか?まず、新見さんは葉月ちゃんをカトレアに誘った。ここまではいいっすか?」
厳密に言えば、誠二から誘ったわけじゃないのだが……。
「あ、あぁ。」
「この時点で、うちらからしてみればアウトっすよ。抜け駆けしやがって!ってやつです。でも、トラハにはいかなかったって聞いたんで、取り敢えず矛を収めてるって状況っすよ。」
「トラハ?」
聞きなれない単語に眉をしかめる誠二。
「新見さん、ひょっとしてトラハ知らないんすか?」
「あ、あぁ……。」
「……だからヘタレって言われるっすよ。」
後輩はそう言って、その場から去っていく。
「お、お一、まだ打ち合わせ……。」
「あ、後でメールしといてくださいっす。後、今後二人っきりで食事は勘弁してほしいっす、おホモ達って思われるのは勘弁っす。」
なんだ、アイツ。
誠二は、後輩の後ろ姿を見送りながら呆然としていた。
取りあえず分かったことは、男どもを敵に回していて、女たちからはヘタレとか、ホモと思われているらしいって事だけ……。
「いじめか?」
誠二は、途方に暮れるのだった。
◇
「……はぁ……そんな事で呼び出したの?」
葉月が呆れた様に言う。
ここは、会社の近くのファミレス。帰る前に葉月から少しでも話を聞こうとして呼び出したのだ。
「却ってからでもゆっくり話せるよね?」
「いや、帰ったら唯がいるだろ?」
いくらなんでも、会社でいじめられているなんてかっこ悪い話を唯に聞かせたくはない。
「はぁ……センパイのそういう所だよ。」
更に呆れかえる葉月。
「で、何が聞きたいの?」
「あ、いや……色々あるけど、取り敢えず……トラハって何?」
「………。」
「………。」
「………センパイ、マジ?」
「あ、あぁ、……やっぱり知ってないといけない事なのか?」
「………はぁぁぁ……マジかぁぁ……。」
葉月がガックリとテーブルに突っ伏す。
(……マジで知らなかったなんて……ヘタレってレベルじゃないでしょうが……)
葉月が小声で何やらブツブツ言っているがくぐもってよく聞こえない。
「わかりました。明後日の金曜日、会社帰りにデートしましょ。」
「いきなりだな……。」
「いいでしょ、暇なんだし。ディナーはカトレアでね。」
「お、おいぃ……。」
流石に立て続けにカトレアは……。
財布の中身を心配するが、葉月と唯のお陰で多少余裕があるのも確かだ。
今まで月6万の家賃だったのが、ルームシェアのお陰で4万で済んでいる。しかも毎日の料理やお弁当を作ってくれているお陰で、食費もかなり浮いているから、カトレアのディナーぐらいなら何とかなる。
「わかった。色々助けてもらってるし、そのお礼も兼ねてな。」
「やった。じゃぁ約束ね。」
葉月が打って変わってご機嫌になり……その笑顔が見れただけでも、いいか、と思うのだった。
◇
「ねぇ、おにぃさん、大丈夫?」
「あ、あぁ……。」
今朝は不覚にも寝坊をしてしまい、さっき唯に起こされるまで、爆睡いていたから、まだ頭がハッキリしない。
「向こうに何日いたの?」
心配そうに尋ねてくる唯。葉月はすでに家を出たという。
「あ、あぁ……大体1週間ってところか。」
時計を見れば、もう少しだけ時間に余裕がある。
「そうなんだぁ……私が最後に行った日からどれくらい過ぎてるの?」
「ん?……1ヶ月ってところか?子犬……じゃなくて子狼たちもかなり大きくなったぞ。」
唯にそう言いながら、トーストを頬張る。
コーヒーを飲み干すと丁度いい時間になりそうだ。
「そっかぁ、今夜あたりいけるかなぁ?」
「解らんが……多分大丈夫じゃないか?」
誠二は、毎晩のように向こうの世界に呼ばれているが、唯や葉月はその召喚頻度がバラバラだった。ミアに至っては、こっちの世界で週一回向こうに行ければいい方だと聞いている。
理由は分からないが、ミーアの言う「不安定」が原因なんだと思う。
ただ、こっちに世界で唯達と暮らし始めてから2週間、向こうの世界では3か月近くを過ごしているため、時差が激しく、こうして起き抜けはまともに頭が回らない事が多く、少し問題なのではと、最近は思っている。
唯一よかったこと?と言えば、こちらの実時間以上に、向こうで、唯や葉月と共にすることが多いから、このおかしなルームシェア生活にも早々に慣れることが出来た、という事ぐらいだろうか。
「あ、そうだ。今夜おねぇさんもおにぃさんも遅いんだよね?」
「あ?あぁ。」
そうだ、今夜は葉月とデートの約束があったっけ。
こっちの世界では2日前にした約束でも、主観的には10日以上前の事であり、忘れそうになっていた。
「……ぶぅ。次は私とデートだからね。」
わかりやすいぐらいに膨れる唯の頭をポンポンと叩き、誠二は仕事に出かけることにした。
◇
「おまたせ。いこっか。」
待ち合わせ場所に葉月がやってくる。
これからカトレアに向かえば、時間的にもちょうどいい。
カトレアに着くと、店内へと案内される。
相変わらずの落ち着いた雰囲気に、ムードたっぷりのライティングと音楽。
「オトナのデートの定番、って、わかる気がするよねぇ。」
葉月も似たようなことを考えていたのか、そんな事を呟く。
食事が運ばれてきて、誠二と葉月は、和やかなムードで食事をすすめていく。
……ヤバいな……。
目の前の葉月が可愛すぎる。
デートだという事もあるのだろうが、いつもと違ってドレスアップして、メイクも少し違っているのだろうか?
なにより、ワインを飲んだせいか、少し赤く染まる頬、気持ち潤んだ瞳、クスクスと楽しそうに笑う笑顔……何もかもが、誠二の琴線に触れる。
同じような状況の筈なのに、2週間前とは違って見えることに誠二は動転する。
葉月の事を意識してしまったせいか、その後の食事の味は全く分からなくなった誠二だった。
◇
ディナーのあと、葉月と腕を組んで川沿いの道を歩く。いつも通るこの道も、夜になるとライトアップされていて、まるで別世界のような幻想的な雰囲気に包まれる。
足元にやわらかい光が差し込み、川面には光が揺れている。ただ歩いているだけで、胸が高鳴ってくる。この道は、まさに恋人たちのためにあるようだった。
葉月と腕を組んで歩く川沿いの道。ライトアップされた木々が、川面に揺れる光を落とし、空気までどこか特別に感じられる。
「ねぇ、こうして歩くの、なんか恋人っぽくない?」
葉月がふいに笑いながら言った。
「……え?」
誠二は思わず足を止めそうになる。顔が熱くなるのを感じながら、葉月の横顔を盗み見る。
「クスクス……」
葉月はいたずらっぽく微笑んで、少し腕を強く絡めてきた。
でも、その笑みの奥には、ほんの少し本気が混じっているようにも見える。
(えっと、一応、俺達、恋人……でいいんだよな?……)
誠二の胸が妙にざわつく。歩いているだけなのに、心臓の音がやけにうるさい。
「こういう道、一人で歩いても全然ロマンチックじゃないのに、不思議だよね」
葉月がふっと夜空を見上げた。
「うん……たしかに」
それ以上、うまく言葉が出てこない。今、隣にいるのが葉月じゃなかったら、こんな気持ちにはなっていない。そう確信できるのに、なぜか言葉にできなかった。
「新見先輩ってさ……こんな雰囲気、慣れてなさそうだよね」
また、からかうような言い方。でも、視線はまっすぐこっちを向いている。
「う……悪かったな……」
図星を突かれ、目を逸らす。
「でも、そういうとこ、嫌いじゃないよ」
葉月が優しく微笑む。
――ドクン、と心臓が跳ねた。
ほんの一言なのに、心を大きく揺さぶられる。この川沿いの静けさが、その胸の高鳴りをさらに際立たせる。
(……葉月って、やっぱりズルい)
誠二は、何も言えないまま、ただその温もりを感じながら歩き続けた。
時間が経つにつれ、言葉は少なくなっていった。でも、不思議と気まずくはなかった。言葉の代わりに、寄り添う距離と心音が、ふたりの間の温度を教えてくれていた。
「……ねぇ、もうちょっとだけ歩かない?」
葉月がふいに小さな声で言う。
「あぁ。」
誠二はうなずく。断る理由なんて、どこにもなかった。
葉月と腕を組んだまま、川沿いの道をゆっくり歩く。足音だけが続く静かな夜道。ふいに、葉月が腕を解いて、誠二の手を取った。
「……手、つないでみたかったんだ」
そう言って、葉月は誠二の指をやわらかく絡めた。
「……っ」
その瞬間、胸の奥がふっと熱を帯びた。
繋がれた手のぬくもりは、思った以上にリアルで、思った以上に心に響いた。
「なんかね、今日は……帰りたくない気分」
葉月の声が少しだけかすれて聞こえる。視線を合わせようとする前に、彼女は誠二の肩にそっと頭を預けた。
夜風が髪を揺らし、葉月の柔らかな香りがふと鼻をくすぐる。
(……このまま、時間が止まってくれたら)
そんな、普段なら考えもしないようなことを思ってしまう。この道沿いの雰囲気にあてられているのだろうか?けれど今は、それが本心だった。
「……葉月」
名前を呼ぶと、彼女は小さく「ん?」と返した。
誠二はその声を胸の奥に刻みながら、何も言わずにそっと手を強く握った。
彼女も、同じ力で握り返してくれた。
それだけで、もう充分だった。
葉月がふたたび歩き出そうとしたとき、誠二は足を止めた。
繋いだ手はそのまま、ただ、自分の意志で――彼女を引き留める。
「……センパイ?」
振り返った葉月の瞳を、まっすぐに見つめる。
胸の高鳴りが、もう隠しきれないほどに鼓膜を打っていた。
「さっきの…………」
言葉を選びながら、視線を外さずに続ける。
「……オレ、本気でドキドキした」
葉月は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
まるで、それを待っていたかのように。
「……うん、私も……すこしてれゆ」
小さくそう呟くと、葉月はそっと視線を下げ、そしてまた、ゆっくりと誠二を見つめ返す。
その瞳に揺れる光が、街灯の明かりを受けて淡くきらめいていた。
そして――葉月は、目を閉じた。
誠二の胸が、また強く脈打つ。
このまま、キスをしてもいいのかもしれない。
でも、それは自分から踏み出さなければ、届かない距離だった。
彼女のまつげが震えている。
わずかな緊張と、期待と――信頼のすべてがそこに込められている気がした。
誠二は、静かに一歩だけ近づいた。
繋いだ手に力がこもる。
そして、ふたりの距離は、音もなく縮まっていった――
葉月がそっと目を閉じている……。
それを確かめるように、誠二はもう一歩、静かに距離を詰めた。
夜の空気が、ふたりだけを包み込む。
川のせせらぎさえ、まるで遠くの世界の音のようだった。
ためらいがちな手のひらが、そっと彼女の頬に触れる。
その瞬間、葉月の肩がわずかに震えた。
けれど逃げようとはせず、逆にそのぬくもりを受け止めるように、わずかに首を傾ける。
そして――唇が、触れた。
やわらかく、静かで、でも確かに心の奥まで届くキスだった。
お互いの温度がひとつになって、時間が止まったような感覚になる。
数秒後、唇がそっと離れる。
誠二が息をのむと、葉月はすぐには目を開けなかった。
ほんのり染まった頬が、街灯の光の下であらわになる。
やがて、ゆっくりと目を開けた葉月は、ちらりと誠二を見上げ、すぐに視線をそらした。
「……バカ」
ぽつりと、でもどこか嬉しそうに呟く。
「……え?」
「だって……そんな顔で見られたら、恥ずかしいに決まってるでしょ……」
葉月は俯いたまま、誠二の袖をぎゅっとつかんだ。
耳まで赤く染まっているのが、はっきりわかる。
「こっち見ないで……もう……」
そう言いながらも、彼女の手は離れなかった。
誠二はそんな葉月の横顔を、そっと見つめながら、胸の奥でじわじわと広がる幸福感をかみしめる。
この夜は、きっと忘れられない。
ふたりの距離が、確かにひとつ近づいた、特別な夜だった。
しばらく無言のまま、川沿いを歩き続ける。
手を繋いだままの指先は、もうすっかり馴染んでいて、時折すれ違う人の気配すら、今のふたりには遠くのことのように思えた。
そんなふうにして歩いていると、ふいに、目の前に高級感のある建物が現れた。夜でもほんのり光を放つ外観。洒落た造りで、ホテルのようでもあるが、どこか雰囲気が違う。
「……ん? ここって……?」
誠二が戸惑い気味に言葉を漏らすと、隣で葉月がふふっと悪戯っぽく笑った。
「ここが、トラハだよ」
「……トラハ?」
「“トゥルー・ラブ・ハートステーション”。略して、ト・ラ・ハ♪」
指さした先には、ネオンに照らされた看板がはっきりと掲げられていた。
――それは、ラブホテルだった。
「ちょ、葉月……!」
言葉が詰まる。心臓が跳ねるどころじゃない。息すら一瞬止まった気がした。
「そんなに動揺しなくても……別に、何も言ってないじゃん?」
葉月は涼しい顔で、でも口元には意味ありげな笑みを浮かべている。
「……っ」
「ねぇ、もし――もしだよ?」
少し身を寄せて、誠二の耳元に囁くように声を落とす。
「“ここに入ろう”って私が言ったら、どうする?」
その瞬間、誠二の思考は真っ白になった。
顔が熱い。手のひらに汗が滲む。心臓の音だけが、はっきりと自分の中に響いている。
「……そ、それは……」
まともに葉月の顔を見られない。でも、彼女はそんな誠二の反応を楽しんでいるようだった。
「ふふっ……ごめん、からかっただけ。……ほんとにヘタレなんだから。」
そう言って、再び手をぎゅっと握り直す葉月。
後半部分は小さな声だったけど、はっきりと聞こえた。
……そういう事か。
誠二の中ですべてが繋がる。
ムードたっぷりの高級ディナーの後、甘い雰囲気の中ゆっくり歩いて、辿り着いた高級感あふれるリゾートホテルっぽい場所で結ばれる……それが定番って事なのだろう。
つまり、「カトレアに行く」という事は、最後までという事と同義であり、前回の葉月もその覚悟でいたというわけだ。
しかし、誠二は食事のあとそのまま帰ってしまったため、「女の子から誘ってるのに……手を出さないヘタレ」という事だった。
そのまま彼女はホテルを背に歩き出す。けれど、誠二の胸の中には、もう「ヘタレ」では済まされない熱が、確かに灯っていた。
葉月はまだ俯いたまま、誠二の袖を握っていた。
その姿が、どこか無防備で、でも――どこか、待っているようにも見えた。
誠二は、少しだけ唇を噛む。
(……オレばっかり、ドキドキしてると思ってたけど)
今の葉月の顔を見て、気づいてしまった。
(……きっと、同じなんだ)
不安も、期待も、少しの怖さも。
でも――それでも、今なら――
「葉月」
静かに名前を呼ぶと、彼女が小さく顔を上げた。
潤んだ瞳が、こちらをまっすぐに見つめ返してくる。
誠二は、ゆっくりと葉月の腕を取った。
そして、そのまま――『トゥルー・ラブ・ハートステーション』の入口へと、足を踏み出す。
葉月は、何も言わなかった。
ただその手を、確かに握り返してきた。
部屋に入ると、空気がふたりきりのものになる。
ホテル特有の静けさと柔らかな灯りが、緊張と興奮を少しずつ溶かしていく。
葉月はベッドの縁に座り、誠二はその前に立ったまま、しばらく言葉を探していた。
「……大丈夫?」
ようやく絞り出した声に、葉月はそっと微笑んだ。
「うん……センパイとなら、……大丈夫……だと思う」
その笑顔は、いつものいたずらっぽさとは違って、どこか静かで、でも芯のある表情だった。
誠二はゆっくりと彼女の前にしゃがみ、そっと両手で頬を包む。
ふたりの距離が、またひとつ縮まる。
「……好きだよ、葉月」
その一言に、彼女の目がふっと揺れた。
「……私も、好き」
今度のキスは、さっきよりも深く、長く続いた。
触れるたびに、互いの心がゆっくりと解けていく。
服の感触、肌のぬくもり、重なる吐息――
言葉はいらなかった。
ただ、確かめ合うように、ふたりはゆっくりとその距離を埋めていった。
まるで、この夜のすべてを分かち合うように。
・
・
・
朝の光が、レースのカーテン越しに静かに差し込んでいた。
誠二は、まだぼんやりとした意識の中で天井を見つめていた。
昨晩は珍しく向こうに行っていない。代わりに……。
隣から聞こえる、静かな寝息。柔らかな髪がシーツに広がっていて、ぬくもりがすぐそばにある。
昨夜のことを思い出すたび、胸がじんわりと熱くなる。
(夢じゃないんだよな……)
ふと、部屋の中の色さえ、いつもよりやさしく見えた。
すべてが少しだけ明るく、やわらかく、世界が変わってしまったような気さえする。
――こんな気持ち、初めてだ。
誠二はゆっくりと身体を起こし、隣に寝ている葉月の横顔をそっと見下ろす。
その瞬間、葉月のまぶたがふるりと震え、静かに目を開けた。
「……おはよ」
まだ寝起きの声。少しかすれていて、でもそれがまた愛しく思えた。
「おはよう……」
目が合った瞬間、ふたりの間に小さな沈黙が生まれる。
互いに何かを言おうとして、言葉を探しあぐねている。
そして――
「……なんか、変な感じだね」
葉月が先に口を開いた。
「うん……ちょっと、照れくさい」
ふたり同時に笑って、また沈黙。
でもそれは、不安や気まずさではなく、温もりに包まれた、心地よい静けさだった。
葉月はシーツを肩まで引き上げながら、恥ずかしそうに誠二から目を逸らした。
「こんな朝、迎えたの初めてかも……。でも……」
「でも?」
「嬉しい」
そう言って、やっと誠二の目を見て、葉月は微笑んだ。
(ああ……オレ、ほんとに……)
誠二はもう迷っていなかった。
昨夜のすべてが、何一つ間違っていなかったと、確信していた。
隣にいるこの人を、大切にしたい。
その想いが、胸いっぱいに満ちていた。
「これからも、ずっとこうしていたいな」
ぽつりとこぼした言葉に、葉月が驚いたようにまばたきする。
そして、少しだけ頬を赤くして――
「……ちゃんと言ってくれたら、考えてあげる」
ふわりとした空気の中、ふたりはまた静かに笑い合った。
始まりの日の朝は、照れくさくて、でも何よりも幸せだった。
チェックアウトを済ませ、朝の光の中を並んで歩くふたり。
人通りの少ない通り道に、静かな朝の風が吹いていた。
昨夜のことが夢だったかのような、でも手の温もりはちゃんと残っている。
「……なんか、オレ、朝帰りって初めてだな」
誠二が照れ隠しのように笑って言った。
「唯にバレたら、ちょっと気まずいかも」
――その瞬間だった。
葉月の歩みが、ピタリと止まる。
「……え?」
誠二が気づいて振り返ると、葉月がぷいっと視線を逸らしていた。
「……こういうときにさ、他の女の名前出す?」
小さな声。でも、しっかりと怒っているのがわかる。
「え、いや、別にそういうつもりじゃ――」
「ふーん……そうなんだ。ふぅん……唯のこと、そんなに気になるんだ……」
腕を組んだまま、頬をぷくっとふくらませて、口調は明るいが完全に拗ねている。
誠二は内心、焦りつつも、なぜか笑ってしまいそうになった。
「いや、そうじゃなくて……ただ、ほら、同居人だし。何も言わずに帰ってこなかったからさ……」
「うんうん、わかってるよー? 心配かけたくないもんねー? やさしーい」
「……それ、完全に皮肉だよな?」
葉月はあえて答えず、また前を向いて歩き出した。
けれど、その耳はほんのり赤くなっている。
(……やばい、めちゃくちゃ可愛い)
機嫌を損ねているのに、怒っているのに、どこか子どもみたいで。
それでも、ちゃんと“自分のこと”として怒ってくれているのが伝わってくる。
葉月が――オレのことを、本気で想ってくれてる。
「……なあ、葉月」
誠二がふいに立ち止まると、葉月もつられて振り向く。
「……なに?」
「今、めっちゃ可愛い」
「は!?」
葉月の顔が一瞬で真っ赤になる。
「そ、そういうこと急に言わないでよバカッ! まったく、ほんとセンパイって……って……!……ばかぁ……」
言葉とは裏腹に、彼女の声はどこか嬉しそうで。
照れを隠しきれず、足早に歩いていく背中を見て、誠二は心の中でつぶやいた。
(……ほんと、たまらないよ)
この一晩で、自分の中で何かが変わった。
そして、きっとふたりの関係も、もう戻ることはない。
それが、誠二にとっては――何よりも嬉しいことだった。




