瀬奈の傷口 #3
「ボ、ボンジュール?」
瀬奈が深いため息を吐く。
「挨拶ぐらい自信もってよ」
それからもうひとつため息を吐いた瀬奈は「私を助けて出してくれた時の佐奈はどこに行ったの……」と小さく落胆していた。
「フランス語は私に任せてくれたらいいから、佐奈は休んでいて」
「は、はい……」
よかった、瀬奈はだいぶ元気になってくれたみたい。少しは私の演技も役立ったのかな。
一週間後にはフランス。万能鑑定士の聖地も巡れるかもと期待はしつつも、瀬奈との二人旅が楽しみで仕方ない。それまでにはいまよりも柔軟に対応できるようにフランス語を勉強しておこう。
事務所には歓談室というスタッフが自由に過ごせる部屋が二つある。いまはその部屋に二人きりで真希社長の帰りを待っていた。といっても、朝から真希社長の姿は見ていない。昨日決まったことを伝えに事務所に来るらしい。連絡ならLINEでもよかったのに。
そう思っていると、部屋に近づいてくる足音があった。それも二つ。
ドアの前まで来るなりノックもなく開けて入ってきたのは、真希社長と見覚えのある姿をした女性だった。誰だろうとその女性に目を見やると優しく微笑んでくれた。年齢は真希社長と同じぐらいのはずなのに、愛嬌がある。
「佐奈、顔に何か書いてあるぞ」
視線は合わせてないのにうちの社長は怖い怖い。
「まぁいい。こいつは美月めぐ」
紹介を預かった美月めぐという人は一歩前に出るとほんの少しお辞儀をし自己紹介を始めた。
「美月めぐ、真希と同時期にアイドルをしていました。今後ともよしなにね」
最後の方はハートが飛んできそうな雰囲気だった。それに……。
「真希さん、今後ともとはどういうこと?」
嚙みついたのは瀬奈だった。それに私もそこが引っかかった。
「私もです、美月めぐさんも何かに関わるんですか?」
落ち着けというように右手を突き出し、私たちの言葉を遮る。
「こいつには私の事務所で娘のプロデュースをしてもらう」
瀬奈と顔を合わせる。同じように疑問符を浮かべていた。真希社長も私たちの疑問符が見えたらしい。
「分かりやすく言えばスキャンダルの件を逆手に取ろうと思ってな」
一瞬、瀬奈の表情が引き攣った。
「信用を得るのは難しいと思うが、娘というのはあの女性記者だ」
えっ……?
「あれがめぐの娘でな、今回のスキャンダルを娘のデビュー前の売名行為に使ったことにしようとめぐに話したんだ。もちろんlune de mielには指どころか髪の毛一本も近づけさせん。プロデュースもめぐ一人に任せる」
こんなことを突然話されても、頭には入ってこなかった。だって理解できる?
「それであのボイスレコーダーの内容だが、自社で百合作品を制作していることにした。デビュー前に勘違いした娘の暴走ということだ。来週の二人のフランス旅行もその一環として利用する」
この言い草を見るに拒否権はなさそうだった。瀬奈は椅子に座りながらも膝を抱えて俯いていた。だから私から言うしかない。
「瀬奈の気持ちは無視なんですか? 有り得ないと思います」
同じ環境に被害者と加害者を存在させようなんて馬鹿げている。それについては真希社長も同意していた。
「それもわかる。ただ、それ以上にお前たちの居場所を壊すのが嫌でな。私も昔、めぐと恋人関係にあったが、時代に許されずそれっきりになってしまったことがある。めぐに至っては抗鬱剤を多量に飲んで死の寸前まで追いやられた。まぁなんだ、私たちの二の舞になってほしくないんだ」
まさか真希社長にそんな過去があるなんて思わなかった。正直に言ってびっくりだ。私は瀬奈の方を見る。瀬奈は顔を上げて真希社長を見ていたが、その視線を私に移した。
「佐奈が守ってくれるなら、私はいい」
ぽつりと上目遣いにせがんできた。瀬奈はずるい。多分私のことはお見通しなんだと思う。
「わかりました、責任は全て真希が取ってくれるなら私は構いません」
「ごめんね、佐奈、瀬奈。ということだ、めぐ」
「みんな強いのね。ねぇ、真希?」
ぐぬぬという顔をする真希社長。こんな姿初めてだ。
「では私は根回しするとしようか、二人とも今日はもういいぞ」
そう言って、真希社長とめぐさんは部屋を出ていった。
「瀬奈、私がちゃんと守るから」
瀬奈に向かって誓うように口にした。すると突然「佐奈、好きっ!」と、私に抱きついてくる。
可愛い。私は優しく頭を撫でながら、瀬奈の傷口にキスをした。