隣人のデモンズ
彼女が欲しい。
可愛くて優しくて気が利いて、俺を頼ってくれて、できるだけ胸の大きな子が。
ほんの少し悲しい過去があり、そのおかげでちょっと優しくするだけで心を開いてくれて、絶対的に何があろうと決して裏切らない子が欲しい。それこそが真実の愛だ。
「…………」
公園のベンチで頭を抱えたよ。さすがに病んでいるなと思ったんだ。
俺はもうかなり歪んでいる。うだつのあがらない底辺を這うような生き方をしているくせに、相手にはどこまでも理想を求めるんだ。もしも恋人として立候補する女性がいたら「やめておけ」と真顔で言いかねない。
俺は昔、酒くさい父が嫌いだった。
いま、俺はまさにあのころの父と同じ酒くさい息を吐いおり、誰もいない真っ暗な公園のベンチに座っている。
酒屋を経営して、人にペコペコ頭を下げる父の姿が大嫌いだった。皆から見下されている父を情けないと思っていた。
でも、いまなら分かる。いまの俺よりも父のほうがずっと偉いんだってことが。
たった一人で店を切り盛りし、必ず決まった時間に戻り、家族の面倒を見て、一軒家を建てた。そんな偉業、俺にはできやしない。あと十年経っても絶対にできない。
生涯を共にするような美人の彼女を欲しくても、きっと関係は長く続かない。働いて心をすり減らした俺は、そういう諦めグセがたくさん染みついてしまった。
「しゃーないよ。お金がないんだから」
しょうがない。
俺には無理だ。
何もする予定はないし、何かをしたいという目標も遊び心もない。擦り切れていく歯車のような生き方をしていて、毎日毎日、壊れたカセットテープみたいに繰り返し同じことを続けている。
つまらないんだ。
クタクタになるまで働いて、たまの休みは睡眠とスマホを眺めて終わる。何も生み出さず、新しいことはなにも起こらず、愚痴だけが募り、そしてまたいつものつまらない朝がやってくる。
やるせなくてグイと酒をあおった。高い度数のキツい味がして、なぜかとても喉に染みた。
田舎から都会に出てきてから一度もまともな話をしていない。そう思っていたときに、こちらに近づいてくる影があった。
最悪にはまだ先があるらしい。
ただ公園のベンチで酒を飲んでいただけなのに、悪魔が出てきやがった。
「これはこれは、赤城さん。ン、給料日に一人で酒を飲むなんて……ンフフ、人間くさぁい」
精神的に来るような歪んだ顔を見せられて、こっちは酔いが覚めた気分だよ。口のなかは苦いものでいっぱいになり、せめてもの抵抗としてあからさまに嫌そうな顔で見上げる。
性格の悪さで悪魔に勝てるわけもない。にたりと笑いかけられながら「隣に座っても?」という仕草をされたので、やむなくビニール袋をどかした。
悪魔がこの世界に現れ始めたのは俺が生まれるよりずっと前のことで、そこから世界は汚く醜いものに変わったらしい。皆が口を揃えて「世も末だ」と言っているし、俺も心から賛同したい。
隣にドスンと座り、馴れ馴れしく肩を抱いてくるこいつはイゾルデという。そう名乗っているが、きっと偽と嘘にまみれた名前だろう。
などと考えている目の前で悪魔は人差し指をピッと立ててきた。
「ンフ、あなたは無知だから教えてあげましょう。本来、悪魔というのは非常に慈悲深いのです。だから強大な力を振るわず、人々がもがき苦しむ姿をじっと眺めます」
「……じゃあ借金の取り立てはしないんだな?」
「残念ながらあなたは悪魔かと思うほど肝が座っています。良心に訴えることができない以上、多少は力づくで取り立てなければなりません」
さいですか、と呟きながら再び酒を飲む。相変わらずでかいおっぱいだなと思いながら。
空にはぽっかりと大きな月があり、子供の頃よりも大きくなった気がする。いつか引力の影響でこの星に落ちてくるらしいが、そのタイムリミットは誰も知らない。
おぼろげな輝きには、大きな鳥のようなものが数羽ほど重なる。するとイゾルデは同じように月を見上げて、嬉しそうに話し始めた。
「怪鳥が悠々と飛んでいます。末法だ終末だと人は言いますがね、これほど魔界と似た空気になるだなんて素晴らしい。ンフ、こっち生まれの悪魔も増えてきて、あたしにとってはこれからが賑やかになりそうでたまらないってものですよ」
ですが、とイゾルデは再び口を開く。
俺の肩を支え、酔っている俺を公園のベンチから立ち上がらせながら。
「飲み過ぎです。その肝臓も担保に入っているんですから無理させないでくださいね」
悪魔による悪魔らしい言葉を聞いて、酒の酔いがさらに遠ざかる思いだ。顔だけはマシだけど背は俺よりも高いし力強さでも負けている。清純で清楚で常に後ろを歩いてくれる人が恋しくてたまらない。
「赤城さん、差し出がましいですけど女性の理想像が高すぎでは?」
「ごく自然と俺の心を読むな。あと借金はちょっと待ってください」
「待ちますよ。悪魔は慈悲深いですから。ほんのちょっぴりだけ利子が乗るだけです。あたしとの付き合いもそのぶん伸びますしね」
真っ黒くて腰までの長い髪を揺らし、唇から犬歯を覗かせながらイゾルデは笑った。
「なに笑ってんだ。見てろよ、いつか借金を踏み倒してやるからな」
「ンフ、いきがる人間はどうしてこんなに可愛いんですかね。もう遅いんですから、帰ったらそのまま一緒に寝ましょうか」
「やめろオ! 俺は一人寝が昔から好きなんだ! あっ、クソこいつめっちゃ力が強い! 本気出してきやがった!」
ビクともしねえよ、こいつの身体! というか足が浮いてる! 踏ん張りようがないじゃん、これ!
「畜生、介抱してくれるとか甘いこと考えたらこのザマだ!」
「ンハッ、ハハハーーッ! 暴れちゃだめですよ。ちゃんと介抱しているんですから、ほら、ちゃんとあたしにつかまって」
耳にボソボソ囁くのはやめろよおおお、とグズる俺はそのまま自宅に連れ込まれた。
⌘
息苦しさに目覚めると、そこは俺の部屋だった。鼻を突っ込んでいたのはイゾルデの胸のあいだで、しかし顔を赤くするような相手じゃない。
死人より少しだけ体温があるだけで、こちらの生命力を吸われているような気がする相手なんだ。なのでいい香りだけをしばらく嗅いで、シワだらけのシャツ姿で起き上がる。
「ン、赤城さん、あたしにお味噌汁をお願いします」
「お前さんの部屋は隣だろう。そっちで好きに料理したらいいじゃないか」
「利子分を少しだけ減らしてあげてもいいんですが?」
「心を込めて作らせていただきます」
この返しにはイゾルデも苦笑いだ。
寝そべる彼女は大きなあくびをして布団を腹に掛け直す。長身な彼女は布団から足をはみ出させており、相変わらず何もかもデカいなと思う。昨夜は俺を送り届けてからそのまま就寝したのだろう。
悪魔というのは化かすことに長けている。黒のキャミソールを身にまとっているが、あれは昨夜のコートが形を変えただけだ。真っ白い太ももを色っぽいなんて思ったら骨の髄までしゃぶられる。そんなことが当たり前だから、もうこの世界には疑り深い奴らしか残っていない。
善良な奴らはいいカモだったんだ。人を疑ってはいけませんなどという頭のおかしなキャッチフレーズを信じている奴らがまず騙されて、そこから先は地獄だったろうな。騙されて、肉体を失って、悪魔が消滅するまで魂を使役される存在に成り果てた。
「ある意味で純心で幸せだったんじゃないですか。どっちにしろ嬉しそうに女を抱いてましたよ、あいつら」
「そうなんだよ、ぜんぜん弁護できないんだよな。日本人ってのは信仰心がぜんぜん無いから、悪魔を抱いたらどうなるのかさえ分かってないんだ」
「濡れ手に粟だーって仲間は喜んでましたねぇ。バブルだったそうですよ」
はあ、と溜息をついたよ。
あいつらのせいで日本はもう滅茶苦茶だ。かつては治安の良さを誇っていたらしいが、今ではもう世界屈指の平和度指数の低い国になった。アフリカの東側にあるソマリアと大して変わらない。
結果として俺の部屋にまで悪魔が入りびたるようになってしまった。まあな、こんな状況なら絶対にあいつに手を出さないという俺の硬い決意も分かってくれると思うよ。ついでに可愛い彼女が欲しいという俺の願いもさ、理解できるんじゃないか。
イゾルデが爪にマニキュアをして遊んでいたころに、ちゃぶ台の脚を立てて、そこに朝食を並べてゆく。
メニューは焼き魚と海苔、それからあさりの味噌汁だ。互いにあぐらをかいて、黙々と食事をする。
「ンー、美味しいですね。赤城さんって破滅的な生き方をしているのに、食事だけは健康的だから不思議です」
「俺は健康食を好む悪魔が不思議でならないよ。それで、酔いから醒めるまでここにいたということは、俺に何か話があるんじゃないのか?」
「その通りです。餅は餅屋と言いますし、人のことは人にやらせた方が……ね? これ、ターゲットです」
ぺらりと指先につまんだ写真を見せてくる。
アナログさが好きなのか、イゾルデはスマホなど近代的なものを一切身につけない癖がある。こだわりなのか古風なのかは分からない。
写真を眺め、ちゃぶ台から立ち上がりながら口を開く。
「……ごく普通のサラリーマンって感じだな。こいつがどうしたんだ」
「3日前に家族全員をナイフで滅多刺しにしました。ここまでは普通の話でむしろ微笑ましいくらいですが、そのあとが問題なんです」
「ふーん?」
怪訝に思いながらも立ち上がり、コンロの火をつけて食後の飲み物を用意し始める。あたしもとイゾルデは手を挙げてきたが、もちろん用意するコップはひとつだけだ。
「いまも彼らは仲良く暮らしています。ええ、死んだはずのご家族と。あなたもよくご存知の通り、神であろうと悪魔であろうと死人を生き返らせることはできません。するともしかしたら私の縄張りに何かが起きているかもしれません」
血なまぐさい話だな。俺が欲しくてたまらない奥さんを滅多刺しに、ねぇ。
つまりイゾルデはこの男の調査を命じているわけだ。そして正体を暴いて町から追い出したい、と。
「俺も滅多刺しにされかねないぞ」
「ンフ、そう簡単に死ぬようならあたしも金を貸しませんよ。なんなら武器も貸しましょう。このメザシの礼がわりに」
そう言いながらギザギザの歯で、メザシは骨ごと噛み砕かれた。
んー、と表面上だけ渋った顔を俺はする。とはいえ怯えているわけじゃない。お金、お金、ギブミーマネー。せめて会社を休んでも構わないくらいの金が欲しい。つまり最低でも20万、渋ってさらにプラス10万はいただかないとなぁ!
「正体を掴んだら300万、危険手当を含む前払いとして100万でどうでしょう?」
「やりますよ、男ですもん」
あのくそったれな営業回りをしないで済むのなら、悪魔に手を貸しても構わない。俺は速攻で頷いた。第一、断れるわけもないのだ。ごうつくばりなイゾルデに金を借りている以上は。金に目が眩んだとかそういうわけではなく。
それから俺は豆を多めに挽き、ふたつの珈琲カップをちゃぶ台に置いた。にんまりと笑って迎えるイゾルデがさ、ちょっと憎たらしかったよ。
⌘
ズズ、と珈琲をすする。
それからあぐらをかいたままイゾルデは頬杖をつく。表情はどこか人間くさくて、勿体つけるような仕草でふっくらとした厚みのある唇を開く。
「ンー、悪くありません。この世界に来てからというもの好きなものがひとつずつ増えています。その言葉の意味が分かりますか、赤城さん?」
「好きだから飲んでいるわけじゃないのか?」
いいえと首を横に振られた。
またなんか変なことを言い出したな、この女は。そう思いながら俺もカップに口をつける。ドリップしたばかりの香りが部屋に漂っており、少しだけ贅沢な味がする。砂糖とミルクを足すとまろやかな味に変わり、互いにカップに口をつけた。
黒いマニキュアのついた指先でカップの縁に触れながら、向かいに座るイゾルデは再び唇を開く。
「変わるってことです。魔界にいるあいだ、あたしは不変でした。在りし姿を保つことは美徳ですからね。しかし世界はじっくりと変わってゆく。あなたもそうですよ、赤城さん」
「よく分からないな、悪魔の常識ってのは。俺としては美味い珈琲を楽しんでいるだけなんだが」
「楽しいことがね、あたしは好きなんです。人を殺すのにも飽きたころ、ちょうど赤城さんを見つけました」
「そのタイミングで良かったよ。ぶっ殺されずに済んでさ」
「ンフ、フ、あたしも良かったですよ。気が合う人間を見つけたのなんて初めてですし。あとは懐いてくれればいいんですが」
よしよしと髪の毛を撫でられて、パシンと腕で振り払う。すると部屋が少しだけ暗くなった気がした。ちゃぶ台越しにイゾルデが前かがみで近づいてきて、日をさえぎっていたんだ。
ぎょっとする間もなく、女は鼻先で鼻をこすってくる。ほっそりとした首の先には鎖骨のラインが引かれており、ほつれた真っ黒い髪がそこを覆っている。間近から女の匂いがして思わず喉を鳴らしたとき、くつくつと笑われた。
「ほら、ちょっと変わった」
「……変わってねえ」
「ほんとぉですかぁ? 赤城さぁん、人間というのは正直さが美徳に通じているらしいんですよ。ほら、あたしに正直に言ってみてください」
長身すぎて、ちゃぶ台なんて障害物にもなりゃしねえ。そこに片膝をついて黒のキャミソールから太ももをはみ出させているんだから目の毒だ。
長いまつげに縁どられた瞳をじっと見つめ、俺はごく真面目な声で話しかけた。
「……いつ風呂に入った?」
んっ、とイゾルデは不思議な表情をつくり、ぱっと素早く正座に戻る。それからクンクンと己の身体を嗅いで、少しだけ不安そうな汗をかきながら瞳を向けてきた。
「そういうのが好きな男性というのもいるらしいですが?」
「だろうな。でも俺はそうじゃない。それで、いつ風呂に入ったんだ?」
だらりとイゾルデのかく汗の量が増えた。ほんの少し身を遠ざけてゆく様子を眺めながら、俺はゆっくりと立ち上がる。
「あ、アノ、赤城サン? あたしもそういう趣味は無いんですがね?」
「俺も無いが、いつ風呂に入ったか教えてくれない以上は仕方ないだろう。真実はいつも暴かれる。俺の好きな探偵小説の決め台詞がそれなんだ。ほらイゾルデ、観念してまずは万歳をするんだ」
拒絶するように伸ばされた手首をパシッと握ると、イゾルデは「~~~っ!」と形容しづらい表情を浮かべる。そうして反対側の拳でグーを作ると、プロのボクサーも真っ青な極上のストレートを振るってきた。
ゴスッ、という音と共に沈んだよ。俺の意識がな。
その直後、彼女の身体に覆いかぶさるように倒れてしまい、彼女の悲鳴が轟いたそうだが俺に聞くことはもちろんできなかった。
⌘
大抵の悪魔は綺麗好きだ。
しかし何をもって綺麗と言えるかは悪魔側に委ねられている。しかし、うんこまみれのほうが綺麗だと言い張るやつも実際にいるので、残念ながら人間の常識はあまり役立たない。
「赤城さん、気に入った得物はありました?」
ちゃぽりと湯船で膝を抱えながらイゾルデは話しかけてくる。こいつは身体を洗うことが綺麗だというまともな定義を持っているらしい。
しかしまともなのは外見だけで、中身はウジがぎっしり詰まっているような存在でもある。
この世界で長く生きていたいなら決して油断はしないことだ。俺のように冷静で冷徹で常に頭の中心を冷やしておかないとな。
「あ、ああ、こ、このアたりをお借りしようかと!」
キョフォった。じゃない、キョドったしドモった。
いくら巨体でたくましい身体をした悪魔でも、豊かな乳房の魅力だけはいかんともしがたい。
ざぼりとユニットバスから太ももを丸ごとはみ出させ、脚を組んでからイゾルデは唇を開いた。
「ナイフ、それに拳銃ですか。相変わらず赤城さんは小さな武器を好みますね」
「持ち歩けるのは限られているんだ。携帯許可は取り上げられているしな。ついでに炸裂弾をくれ。銀の弾丸も」
「バンパイアごときに私のシマを荒らすような腕も度胸もありませんよ?」
「用心するから人は弱くても生き残れるんだよ、お前さんと違ってな」
「ンー? 私ほど用心深い悪魔はそういないはずですが?」
やれやれ、この下等な人間は、という風に肩をすくめられる。しかしそのセリフは湯におっぱいを浮かべながら言うものじゃないだろう。
「ンフ、フ、赤城さんって根っからのスケベですね。こんなのただの付属品なのに」
「こらこら、乱暴に握らない。あと頼むから恥じらいというものを形だけでいいから持ってくれ」
「赤城さん、格好つけてますが、なぜ先ほどからずっと背中を向けているのです。まさかと思いますし、人としてありえないと思いますが、悪魔相手に生殖本能が働いたのでは?」
「…………そんなバカな。あ、炸裂弾を探してくるね」
姿勢の良い早足で俺はユニットバスから離れた。
冷静に冷徹に、常に頭の中心を冷やしておくこと。それがこの世界で長く生きるための術だからな。よく覚えとけ。
⌘
しかし不思議だと思うのは、なぜこんな家にイゾルデが住んでいるのかということだ。六畳一間の狭い部屋であり、普通の女性であれば足をつけたいと思わないほど染みだらけのひどい場所だというのに。
唸るほど金を持っているのだから、その気になればもっと広くて綺麗な家なんていくらでもあるだろう。
「広さや豪華さというものは、あたしにとってどうでもいいんです。ついでに言うと金への執着もありません」
ごく自然と心を読みながら、当の彼女は風呂からあがってきた。身体が大きいのでバスタオルがハンドタオルくらいに見えるし、本人に拭く気がまったくないから畳にボタボタ水滴が落ちていく。
「じゃあ……」
「借金を帳消しになど決してしませんよ、赤城さん」
影が落ち、見上げるとイゾルデの顔がある。見下ろされながら悪魔がそう囁いてきた。
耳の奥にへばりつく嫌な声だと思ったし、だんだん彼女の所有物になりつつあると錯覚するような声だとも思う。
冷たい声にゾッとしたけど視線を外すのは逃げの証拠だ。なので嫌だろうと何だろうと、彼女の瞳から目を離さない。
「あたしはね、赤城さんみたいな人間をたくさん手に入れたいんです。酒に逃げても女房から逃げられても、いじらしく人間らしくもがくような相手がね」
「……女房から逃げられた記憶は無いんだが?」
「ものの例えです。でも、もし今もいたところで、きっと逃げられていたでしょう?」
ぱっと身を離しながらイゾルデは唇の端に笑みを浮かべた。今すぐに炸裂弾の詰まった拳銃で、あいつの頭を吹き飛ばしたい欲求に駆られる。ブルブル腕を震わせて、やがて諦めの大きなため息をついた。
「じゃあ嫌われ者同士で結婚するか」
「あ、ですね、そうしましょう!」
笑みがさらに深まって、ぴょんと近づいてきたことに目を剥いたし悲鳴もあげかけた。俺はただこいつの嫌がる顔を見たかっただけなのに!
口を開けたり閉じたりしているあいだ、ぎゅうっと腰を支えられてしまい、ゆっくりと近づいてくる唇に……俺は己の限界を超えるブリッジをした。
「冗談だあああーーッ!」
「ンフ、そうでしたか。あたしも人間のジョークにはまだ慣れていなくって。そういうのは赤城さんに教えてもらおうかなぁって思いますよ」
「だからさっさと離れろ……もう腰が限界……!」
「慣れていないといえば、魔界にはこんなジョークがあります。よくある話ですが……あれ、赤城さん? 泡を吹いてます? それともカニの物真似です?」
小首を傾げるイゾルデは、とうに意識のない俺をじっと見る。それから「今日はこれで許してあげますか」と呟いてから、むちゅっと唇の感触を伝えてきた。
触れた先は唇ではない。俺の名誉のために誓ってそう言っておく。
「ここが唇ではなかったのですか。どれもう一度」
「あっ、待て! ごめんなさい! ごめっ……!」
むっちゅりとした感触と、そのままパワーボムのように床に押し倒されて、ドズズンと建物全体が揺れた。
ちなみにここの建物には他に入居者がいない。イゾルデがみんな借り占めたんだ。なので文句を言うやつはいないし、俺を助けてくれるような人もいない。
そうして頭がクラついている隙に、両手の指と指が絡め合わされてしまい、よりプロレス的な光景に変わる。
近づいてくるこいつの顔を俺にはもう止められないし、ガタガタと身体が震えてきた。しかし身を重ねながら彼女はそっと耳元に優しい声で囁いてくる。
「……もう抵抗しないんですか?」
はあっ、という耳元で唇を開く音が聞こえてきた。
はだけたバスタオルから色素の薄い肌が見えて、ふざけた奴だけどやっぱり色気はあるんだなと俺は思う。
でもごめん。やっぱり俺には無理なんだ。
コツンと彼女の額に当てたのは、炸裂弾入りの拳銃だった。
「……やっぱり気にしますか、この顔のことを」
「そういうんじゃない。おまえさんは何も悪くない。ただ悪魔に騙された俺が弱かったんだ」
引き金に指は触れていない。その気になれば心を読めるイゾルデは、そっと自動小銃を払えただろう。そもそもこんなもので傷のひとつもつけられる相手じゃないんだ。
ただ、目を閉じると彼女はよしよしと髪の毛を撫でてくれる。それはやっぱり昔のことを思い出す優しいものであり、また俺の心を正確に読んでいるとも分かる。
恨みなんてこれっぽっちも無いし、むしろ心が安らぐのを感じた。柄にもなく俺は震える息を吐き出していた。
よしよしと撫でてくれる手だけは本物で、どうしても振り払うことができなかったよ。
なぜかこのときだけイゾルデはとても俺に優しかった。
なんだかんだのラブコメです。
面白そうでしたらぜひご感想をください。
今後の参考にさせていただきます。