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8・第一船隊の誕生

 1956年にコリアスタン紛争が終結し、極東に一応の平穏がもたらされることとなった。

 もし、そのまま何もなければ今に至る第一船隊の歴史は存在していなかったことだろう。もともと、金剛型戦艦は艦齢40年を超えており退役するのが自然だった。より後に就役した扶桑型や伊勢型は10年前に退役している。金剛型が存続したのは、その高速力が有用で、米ソの大型巡洋艦への対抗手段としてだった。


 その大型巡洋艦の評価については既に結論が定まっていた。その一番大きな理由は黒海海戦におけるソ連のスターリングラード級の被害だろう。

 スターリングラード級巡洋戦艦はクロンシュタット級の準同型艦だが、主砲の製造が間に合わなかったことで製造がより容易なガングート級戦艦の主砲を流用しているため、砲撃力では見劣りした。それ以外の性能はクロンシュタット級と変わりないため戦力として申し分ないと思われていたのだが、1947年、ドイツに呼応して参戦したイタリア艦隊が地中海、エーゲ海を席巻し、黒海へ侵入してきたことで、当時戦時急増されていたスターリングラード級が迎え撃つこととなった。

 イタリア戦艦は旧式の30.5センチ砲をボーリングし32センチ砲へと作り替えた代物であり、スターリングラード級でも圧倒できると考えられており、確かに退ける事には成功した。

 しかし、被弾したスターリングラードとレニングラードの損傷は大きく、沈没こそしなかったものの、第一次大戦における英国巡洋戦艦の二の舞を演じる結果となってしまった。

 スターリングラード級の装甲はごく一部を除いて巡洋艦に準拠した装甲しか施されておらず、32センチ砲の直撃に耐えられるものではなかった。もともと危惧されていたことが現実となり、建造できなかった日本としては無駄な費用をかけずに済んだと胸をなでおろしたのだった。そのかわり、旧式の金剛型にさらなる出費を行ってはいるのだが・・・・


 実戦での被害の大きさを目の当たりにして巡洋戦艦や大型巡洋艦の価値が大きくないことは再確認された。しかし、矢面にさえ立たなければ問題ないと思われたのだが、米国のアラスカ級では別の問題が起きた。

 戦艦並みの大型艦なのだが、巡洋艦の設計コンセプトを基本としたため、旗艦能力が低く、戦争が終わるとすぐにノースカロライナ級以降の18隻に及ぶ戦艦群を旗艦に当てれば事足りるという現実と巡洋艦としてはあまりに運用コストが高すぎるという二重苦に見舞われることとなったのだった。

 そして、第二次大戦で飛躍的に性能が向上した航空機に対して巨砲は何の役にも立たず、戦艦自体が最低限、水上戦力を維持できる規模存在すればいいという話になり、主力は空母とその護衛となる対空砲を多数備えた艦へと移っていった。そこにアラスカ級やスターリングラード級のような中途半端な艦艇の存在する場所はなかった。


 それを如実に示すのが、アラスカ級やクロンシュタット級が1960年代早々に退役したのに対し、アイオワ級や尾張型が1990年代まで現役にあった事実だろう。

 ご存知のように、アイオワ級と尾張型はよく似ている、大和型とモンタナ級はともに28ノット程度の速力で大和は46センチの巨砲を、モンタナは40.6センチ砲12門という多数を装備した伝統的な戦艦だった。それに対し、アイオワや尾張は33ノットという高速と空母に次ぐ通信、電子能力を持った、真の意味で新世代の戦艦だった。


 横道に逸れたが、この時代の戦艦とはその様なものであり、大型巡洋艦への対抗として維持されていた金剛型も戦争終結とともに本来なら退役するはずだった。

 そこに降ってわいたコリアスタン紛争に駆り出されたのだが、その終結をもっていよいよ解体か、あるいは産業遺産として保存かという話が盛んになっていったのだった。


 1957年には海上警備隊からの除籍もほぼ決定していた。方やソ連においてもガングート級は活動しておらず、近々解体という噂すら流れてきていたのだった。

 しかし、それが俄かに変化したのは、米国で容共路線から強硬路線へ変化した事だった。そして、欧州派遣軍司令官として多大な功績を上げたアイゼンハワーが特例として「軍人は7年大統領選出馬できない」という慣習を免除され、大統領に選ばれたことで事態は急展開を見せる。

 彼はスキャンダル隠しになりふり構わず対ソ強硬路線を推し進めた前職と違って軍人らしく緻密に、そしてスマートに対ソ包囲網形成を行っていった。

 彼は日本にも目を付けた。当時の日本は第二次大戦後の進路を決めかねていた。日本は元来、ソ連を主敵とした政策を行っていた。しかし、第二次大戦では米英のソ連支援に協力し、コリアスタン紛争ではソ連との直接協力すら行っている。かといって、君主制を否定するソ連との距離を縮める事を良しともしなかった。

 そんな迷いがあるところに米国が持ちかけてきたのが、日英同盟において英国が日本に求めていたのと同様、米国も日本に対しアジアの安定を任せ、そのために太平洋条約機構を結成するという誘いだった。日本に断る理由はない。この構想には英国や英連邦の国々も加盟するとあっては何をかいわんや。


 しかし、それはソ連と決定的に対立する道でもあった。


 ソ連は日本が機構参加メンバーに名乗りを上げるとすぐさまそれを批判、そして、ガングート級に代わってスターリングラード級巡洋戦艦を新たな警備艦として日本海に配備すると発表したのだった。

 スターリングラード級も30.5センチでガングート級と口径は同じ、ガングート級12門に対し9門と砲門数自体は減るのだから条約上何の問題もなかった。無いのだが、30ノットを超える速力や新戦艦とそん色ない電子装備や射撃能力は脅威だった。

 日本には金剛型以外、その任に当たれる艦は存在しなかった。海軍の主力の座にある大和型や尾張型を引きずり下ろすわけにはいかない。なにより、現役戦艦など持ち出せば、ソ連がソビエツキー級戦艦を持ち出しかねなかったのだから尚更だった。ソビエツキー級はドイツの42センチ砲に対抗して43.2センチ砲が装備されていた。

 米国がこうした巨砲化に追随しなかったのは、40.6センチ重量弾の威力に自信を持っていたからだと言われている。英国は残念ながら、日ソに追随する資金が確保できていなかった。

 日本にしても、大和型は3隻しか就役せず、尾張型は速力を重視するため41センチ長砲身へとダウンしてしまっている。一部に51センチ砲搭載戦艦という計画はあったが、さすがに予算がそれを許さなかった。


閑話休題


 こうして日本はさらに10年近く金剛型を海上警備隊へと在籍されながら、予備保管していた扶桑型、伊勢型の36センチ砲を用いて代替艦を建造する計画を進めていくのであった。

 その計画が具体化する直前、行政改革が行われ、1963年、海上警備隊は海軍から分離し平時は運輸省の下で活動することとなり、名称も海上保安庁へと改められることとなった。

 そして、これまで第一警備艦隊であった部隊名も新たに第一船隊へと改められることとなる。ここに今に至る第一船隊が正式に歩みを始めたのだった。


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