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5・ロシア革命以後の朝鮮

 1918年に起きたロシア革命は極東にも影響していた。

 当時、ロシア帝国の自治州であった朝鮮半島においても共産主義勢力と旧来の体制を維持する勢力に分裂して争いが起きていた。

 

 朝鮮は非武装地帯条約において非武装とされていたが、実際には旧王朝派が山岳地帯や米国統治下からゲリラ活動を行う状態が長らく続いており、その対処のために小銃や機関銃を備えた重武装の警察隊が組織されていた。

 朝鮮における戦闘の主体は日米中から支援を受けた白軍と共産主義に共鳴した農民を中心とした赤軍によって争われていた。

 もともと支配階層や官憲が中心の白軍の劣勢は当初から如何ともしがたく、1919年夏ごろにはほぼ大勢は決していた。

 欧州がそうであったように、あるいは満州がそうであるように、米国があるいは日本が派兵するかと思われたが、両国とも非武装地帯条約を尊重する道を選んだ。


 日本としては非武装地帯条約が沿海州との緩衝地帯として有効に働くことを期待したため。米国は満州の保障占領を正当化するためであった。

 そして、1920年にはソビエト政権の承認のもとで朝鮮共和国が建国され、ソビエトという国が本格的に機能するまで存続している。


 朝鮮共和国は1926年にソビエト連邦への参加を表明し、翌年、正式にソビエト連邦朝鮮共和国となっている、以後、朝鮮共和国ではなく、ロシア名としてコリアスタンとの呼び名で呼ばれることが多くなる。

 1930年代に入るとコリアスタンへの締め付けが厳しくなり、それまでは富裕層や旧支配階層に限られていた出国者が目立つようになる。その多くは国境を挟んだ対岸、満州後に広がる朝鮮族支配地域へと逃れている。

 富裕層の場合は遼東半島へ逃れ、米国へ向かうものが多かったが、庶民には渡航費用など蓄える余力はなく、身近な朝鮮族を頼るのが一般的だった。一部、日露戦争以前に日本と関係のあった勢力が日本へやってきた事例はあるが、朝鮮族の多くは日本へ渡ることに忌避感を持っており、半島南部の居住者でさえ、多大な苦労を覚悟で北へと向かっている。このような行動を当時、脱北と呼んでいたことが今に伝わっている。


 このように、政治的な理由を持った移動は常に続いていたが、1935年頃にはソ連政府による移住計画が始まっている。

 この移住とは強制移住の事であり、表向き、中央アジアの新天地開拓をスローガンにしていたが、実態は新天地ではなく地獄であったと伝えられている。その強制移住については、その詳細を朝鮮独立軍のサイトを通して誰でも知ることが出来る。もし彼らが武装闘争ではなく、平和的手段で行動していたら、現状は変わっていたのかもしれない。

 半島から追い立てられ、中央アジアへと渡った彼らの過酷な運命を見るにつけ、そのような同情がわいてくる。ただ、それは一歩間違えば我々日本人が直面していたかもしれないと考えると、ただ他人事としてとらえることも出来ないのだが。


閑話休題


 そして、そのようにして半島から朝鮮族が姿を消し続ける中、第二次世界大戦が勃発する。

 日米は欧州においてソ連の支援者としての立場にあったが、極東の米国には別の政策があった。

 せっかくロシア革命のドサクサで手を出した満州での実効支配が思う様に行かず、協力者が次々と独自の動きを起こす中で、清朝の再興は実現せず、馬賊の跳梁著しく、治安が安定する事もなかった。

 米国の夢はついえたものの、諦めきれない米国は事あるごとに介入を繰り返すことになる。

 その恩恵を日本は受けていたのであった。

 

 そして、1949年、大戦の終結とソ連の混乱を好機と見た米国は一大博打に打って出る。

 それは米国だけでなく、中華民国にとっても重視されていた。

 

 この当時、中華民国は共産党との戦争、離合集散を繰り返す軍閥との内紛を抱え、無理な徴税や幹部の汚職によって民衆の支持を大きく失っていた。共産党や軍閥がその隙を見逃すはずもなく、一進一退の争いが続いていたのである。

 その打開策が満州南部の朝鮮族を扇動して半島から満州一帯に騒乱状態を作り、俄かに米軍が一気に占領してしまうという物だった。


 朝鮮族を扇動するところまではうまくいった。武器を渡し、防備も貧弱な半島へ南下するのにためらう理由などない。ソ連が混乱しているタイミングでならば、再度半島に朝鮮族の国を建国することも夢ではないと思われた。


 しかし、満州自体は事がそう簡単に運ばなかった。

 満州においては1919年の米国侵攻以来、一部大都市と幹線鉄道上の治安こそよくなったものの、多くの地域では馬賊の勃興によってより厳しい生活を強いられており、再度の米国侵攻や汚職がはびこる中華民国による統治という馬賊の焼き直しを支持する声は低く、満州で最大の勢力を誇る軍閥、張一族の下に糾合して中国共産党との連携を選択した。

 1950年に入ると米国軍による満州での虐殺や無差別爆撃が大々的に報じられ、6月には遼東半島まで軍を撤退させるという決定が米国議会の突き上げにより行われる。

 米国軍の撤退した後には武器をばらまかれた朝鮮族と共産党の支援を受けた張一族が残るのみだった。


 彼らの思惑は当初は一致しており、朝鮮族や半島からの脱北者による朝鮮独立党の結成、そして半島侵攻が瞬く間に進められていった。

 当時の半島、つまりコリアスタンは多くの朝鮮族が脱北や強制移住により姿を消し、朝鮮族人口は都市部では一割や二割という地域も多く出現している状態だった。

 それに反比例してコリアスタンの武力は縮小され、朝鮮独立党の攻勢をまともに防ぐ手立ては存在していなかった。


 1951年になるとコリアスタンはほぼ朝鮮独立党の支配するところとなり、3月26日には大朝鮮共和国建国が宣言されるに至るが、彼らはその領土として満州南部や遼東半島まで要求、米国や張一族とも対立していく。

 最近公開された資料によると、これは蒋介石の策略であったらしい。中華平野も北部一帯を共産党に支配され、張一族までもが離反した事で大朝鮮共和国を自らの傀儡にする計画であったという。そして遼東半島を取り返し、北部支配の拠点を作ろうとしていた。

 巧妙にも夫人を米国に送りロビー活動に勤しみ、1952年には米国議会は大朝鮮共和国の要求を飲むことを可決している。


 これで事態は沈静化に向かうと誰もが考えていた。しかし、それは果たされることは無かった。

 案の定、遼東半島をめぐる中華民国、張一族、大朝鮮共和国の対立が表面化、さらにスターリンが戦後の混乱を収拾して極東の事態へ対処を命じたのである。


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