4・海賊対処
1905年12月に非武装地帯条約が結ばれ、1906年中には日本軍が遼東半島から撤退することとなった。
そんな、日本軍の撤退と米国軍の駐留という力の空白を見透かしたように朝鮮半島周辺では海賊行為が横行しだした。
陸上では朝鮮自治政府が取り締まりを宣言するもその実効性はほとんど上がることは無く、海賊行為は増加の一途をたどるようになる。
黄海においては米海軍の取り締まりが行われ、相応の成果が出る様になるが、それは非武装地帯で海軍が存在しない日本海や対馬沿岸に被害地域が移行していくだけになってしまう。
当然、日露は取り締まりをしたいが海軍を域内に展開する訳にはいかず、手詰まり状態となっていく。そこに手を差し伸べたのは米国だった。
米国には税関船隊という組織が存在し、海軍に代わって海上での秩序維持の一端を担っていた。それをモデルとして海上警察を創設すれば良いと提案してきたのである。
こうして早くも1906年10月、非武装地帯条約が改定され、海上警察機構の展開を容認する条項が設けられることとなる。
非武装では海賊に対抗することは出来ず、乗組員の武装と駆逐艦が装備する程度の機砲を装備できることとされ、日露両国は海上警備隊を創設して海賊対処に乗り出していく。
これが今の海上保安庁の母体となった組織である。まずは海軍からの転籍で要員を充足し、後に独自の募集も始めることとなるが、所属は広大な海域を管轄することから海軍の下部組織とされ、その指揮、運用は海軍によって行われていくことになる。
ロシアにおいても警備隊を海軍の下部組織として太平洋艦隊警察隊の名称で運用されることとなった。
条約の趣旨からすればそれはあるべき姿ではないが、海上での部隊運用の技能を持つのは海軍しかなく、船舶の維持や要員の育成を考えてもいきなり新たな組織を創設することは不可能だった。すでにある組織から派生させ、迅速に展開させなければ海賊被害は拡大の一途なのだから、背に腹は代えられなかったというのが一番大きな理由であった。
こうしてできた日露の警備隊は順調にその活動範囲を広げ、1908年にはほぼ海賊の鎮圧に成功している。
この頃、日露の動きに呼応して米国でも関税船隊の改組が行われ、徴税や出入港の監視だけでなく、海難救助や海事犯罪の取り締まりなどを担当する組織として沿岸警備隊が創設されることになった。
この辺りの経緯については日本でもあまり知られていない。
1914年に第一次世界大戦がはじまると、中国に租借地を持ち、海軍を展開させているドイツへの対応が問題となった。
米国は当時中立であり、日露はドイツと敵対する関係にあった。現在の条約のままであれば、ドイツ海軍をみすみす見逃すことになる事態に、日露は米国と協議して大戦中の特例として日本海軍の黄海展開を容認することとなる。
こうして行われた青島攻略戦は成功裏に終わり、作戦終了とともに青島は英国に任せて日本軍は速やかに撤退していくことになる。
日露戦争以後の日本は米国の大陸航路の結節点として中継貿易や物資供給地として発展していく。
英国が天津に利権を持つこともあり、日本は英国の補助戦力としても重視され、国力はより大きくなっていった。こうしてロシアに負けたにもかかわらず、米国や英国の同盟国であることを理由に敗戦による地位低下を免れ、確固とした地位を得ることとなっていく。
1914年時点の日本海軍は東洋屈指を誇ったが、陸軍は20万人に満たない規模であり、軍としての機能よりも、農村の次男以下を養うための公共事業と言って差し支えなかったが、中継貿易が発展して日本海沿岸を中心に産業振興が行われると大きく改善されていくことになる。
1915年には日露戦争における英国による支援の恩返しという事で陸軍3個師団と海軍は英国から購入した最新鋭の金剛型巡洋戦艦を中心とした艦隊を欧州の戦場に送り出すことになった。
欧州では陸軍の犠牲も大きかったが、その影響を受けるより先にロシア革命によってシベリアに大きな混乱が押し寄せることとなった。
欧州での戦争が終結した1919年には米国が満州を保障占領し、ベルサイユ条約において中国が自国領土であるという主張を行った事によって、中国の帰属とされるに至る。当時、米国と中華民国がいかなる関係であったかは知らぬものは居ないだろうが、日本にとっては中国と米国の関係を詮索するより重大な問題がそこにあった。
朝鮮自治州においても白軍と赤軍の争いが起こり、ロシア側の海上警備組織が機能不全に陥った事から再び海賊行為が頻発するようになっていた。
この時、ただの海賊だけならまだしも、警備隊までも赤軍と白軍に分裂する事態となり、その被害が日本へ波及するのを恐れて警備艦に機砲より大型の8センチ砲を装備して日本海での警戒に当たらせるようになっていく。
その後発足したソ連との交渉が持たれた際には8センチ砲まで装備可能という事で新たに条約が改定されることとなった。
当時、ソ連にとっては中国と結託して領土を奪った米国への対抗意識があり、日本と協力することで米国を抑え込もうという思惑が働いていたともいわれる。ソ連の体制が安定した1930年代には中国共産党への支援を行い、中国北部は共産党が実効支配するに至る。
日本はその間、米国が権益を守るために必要とした物資の中継地、供給地としての役割を担い、大連までの航路上の安全確保も担うようになっていく。そうした中で米国は満州に清朝の再興を画策するのだが、最終的に失敗に終わっている。
そのようにして日本周辺では戦乱が続いていた最中、欧州でも戦争の火ぶたが切って落とされることになった。
1943年、ドイツが併合したポーランドとソ連が併合したバルト諸国の国境線問題で独ソが衝突、英仏がソ連を支持したことで問題は一気に欧州全土に飛び火していった。
1945年にはフランスがドイツに降伏し、英国が直接脅威にさらされる事態になるに至って、日本は再び英国へ艦隊を派遣し支援することとなった。
地中海や大西洋、北海での日本海軍の活躍はよく知られている。
二度目の欧州行きとなった金剛型戦艦は一際歓迎されていた。
1949年には第二次世界大戦も佳境を迎え、ドイツ軍は最後の一刺しとばかりにソ連への原爆投下を実施し、多数の兵士や市民が犠牲となっている。特にモスクワへの原爆攻撃はジェット爆撃機による片道飛行の自殺攻撃であり、ワルシャワ解放の祝勝会に集まっていた党や軍の幹部が軒並み犠牲になってソ連を混乱のるつぼに陥れている。
そんな被害すらスターリンは切り抜けているのだから、彼はいったいどれほどの悪運を有していたのだろうか。
ドイツによる原爆使用は米国を刺激、連合軍兵士すら巻き込むベルリンへの原爆投下という米国の暴挙によって戦争の終結を早めている。
この攻撃でヒトラーは死亡し、後に残った軍や親衛隊首脳は速やかに連合国に降伏した。
欧州での戦争は終わったが、それは極東への飛び火を意味していた。