3・非武装地帯条約
日本に「大型警備巡視船」という白き城があるように、ロシアにも{ウラジオストク}級という大型警備艦が存在している。排水量3万4千トン、268m、30.5センチ三連装砲3基9門を備え、ヘリ格納庫とヘリコプター3機も収容している。
このような艦船が存在するのは、元を質せば非武装地帯条約という存在に起因する。
事の起こりは100年余り前の日露戦争にさかのぼる。1904年2月に日本は当時、帝政ロシアが租借していた旅順軍港を奇襲、宣戦布告を行い戦争が勃発した。
緒戦における我が国の雄姿は今も多く語り継がれているがここでは紙面の都合もあり割愛させていただく。何より、読者諸氏の多くはわざわざ語らずとも知っているものと思う。
当初、日本軍は各所でロシア軍を破り翌年2月、つまり開戦から1年後には奉天にまで北上していた。
日本軍はロシア軍の後方にも多くの騎兵を展開して偵察を行い、作戦を優位に進めていたのだが、奉天会戦は当時の日本軍にとって攻勢限界点だった。いくら優勢にあってもこれ以上進軍するだけの弾薬がないのだから仕方がない。
それでもロシア軍の反攻を警戒して偵察規模は縮小されずにいた。異常を察知したのは4月の事だった。
それまで停滞していたロシア軍の動きが活発になっており、防御陣地をより充実させる努力が払われたが、偵察情報は悲観的な物が増えていくことになる。4月下旬にはロシアの増援が続々到着するようになり、遊撃部隊を向かわせても優勢なロシア軍の前に敗退するありさまとなっていた。
5月に入ると事態はより深刻になる。この時、日本軍はある推測をしている。
それは、バルチック艦隊の来援によって、日本の補給線を絶ち、満州に展開する日本軍を文字通り包囲殲滅するつもりなのではないかというモノだった。
そして、予期した通り、5月22日にはロシア軍が動き出してしまった。
このロシアの攻勢に呼応するように大韓帝国においても親ロシア勢力による武装蜂起が起こり、日本軍が半島に敷いた補給線が寸断されることになり、補給線を絶たれた日本軍は撤退するしかなくなる。
しかし5月28日、世に名高い日本海海戦の結果は日本の完勝だった。これがさらに事態を混迷へと導くことになる。
日本軍は半島経由の補給を諦め、旅順や大連の港を利用した補給線を次第に構築していき、一時は親ロシア勢力優勢だった大韓帝国でも、日本海海戦の結果を知り、親日勢力が巻き返しを図り、一時は首都陥落かと思われた大韓帝国は辛くも首都を守り切ることに成功する。
少々時間を遡るが、大韓帝国は日露の対立に中立を宣言していた。しかし、ロシアとの戦争近しと見た日本が1902年頃から大韓帝国に鉄道敷設権を要求し、翌年から鉄道建設が急ピッチで行われている。
これが緒戦の補給を支えることになる訳だが、それは1905年6月の時点に至っては日本の思惑に反する結果を生んでしまうことになる。
首都防衛に成功した大韓帝国は鉄道沿線を迅速に平定し、親ロシア勢力を山岳部へと追いやっていた。そして、撤退する日本軍を支援するとしてロシアに宣戦を布告してしまうのだった。
7月には日本の働き掛けもあって米国が日露両国に講和勧告を行うが、勢いに乗るロシアはそれを無視し、より攻勢を強めることとなる。大韓帝国にとっては日本が米国に仲裁を働きかけていたことも自身に有利と判断したのだろう。
しかし、大韓帝国の思惑とは裏腹に日本軍はか細い補給から遅滞戦闘もままならず、8月には遼東半島に押し込まれてしまうことになる。
勢い余って宣戦布告を行った大韓帝国に対し、遼東半島に戦線を構築し終えたロシア軍は9月1日、大韓帝国へ攻め込み、山岳部に追いやられていた親ロシア勢力の手引もあって、10月14日には首都陥落、同日、大韓帝国はロシアに降伏することとなった。
ロシアはこの時点で有効な渡海戦力を有しておらず、半島の先にある日本本土へ渡る術を持たなかった。
そして、遼東半島を後回しにしたことで日本軍は十分な補給を受ける時間が整い、遼東半島の戦いは流血地獄と化すことになる。制海権のないロシアの進撃路は限られ、大軍の利を全く生かせない戦いが延々続くことになった。
日本はというと、制海権を完全の掌握したことにより、遼東半島防衛の戦力以外の余裕が出来、これを利用して樺太占領作戦を9月24日に開始している。
樺太には2個大隊の兵力しかなく、日本はさしたる抵抗も受けずに10月28日には樺太を完全に掌握するに至る。
樺太占領や遼東半島への物資補給には英国も積極的な関与の姿勢を見せる様になり、10月末、とうとうロシアも講和勧告を受け入れることとなった。
こうして講和交渉が米国ポーツマスで行われる運びとなったのだが、講和条約の調印が12月24日であったことから、現代の受験生たちを散々に悩ませる結果となっている。
当初は語呂合わせのつもりであったはずの「クリスマス条約」という呼び名がそのまま広まり、解答欄にまでクリスマスと記入してしまう受験生が続出することになる。
当然だが、わざわざ学生に利するように「ポーツマス条約の調印日を答えよ」という設問は中学校の試験では行われても、高校や大学の入試で用いられることは無く、多くの受験生がその被害を被ることとなってしまっている。
一番の大惨事は1990年代末にテレビ番組においてクリスマス条約というテロップが流れてしまったことだろう。
事ここに居たって社会問題となり国会でも取り上げられたのだが、12月24日に調印されたという事実を変えることは出来ず、今も受験生を悩ませている。
閑話休題
この時、講和条約と共に結ばれたのが非武装地帯条約であった。
講和交渉に際してロシアは樺太の返還を要求し、日本は大韓帝国の独立保障を要求した。
日本が樺太の返還を認めないため、ロシアは大韓帝国の存続を認めず、自国の保護領として親ロシア勢力による朝鮮自治州の承認を日本に要求していた。
双方妥協点が見いだせず、日本の樺太領有を認める代わりにロシアの朝鮮半島領有を認める事で話が決着することとなる。
済州島は交渉開始の早い段階で日本が占領していたため、遼東半島からの撤退を条件に日本の領有が認められている。
非武装地帯条約というのは、講和交渉中に日本が流布した流言によるところが大きい。
日本は交渉を有利に運ぶため、樺太を拠点にアムール川を遡上する作戦、朝鮮半島を奪取するために釜山と仁川に上陸し半島南部を分断する作戦を様々な場面で流し、国内では明日にでも始まるかのような報道すら行われていた。
確かに作戦としては無意味なものではなく、昨今の戦記ブームの際にはそれを実行するという戦記小説もかなり多く出回っている。緻密に当時の状況を調査したうえで書かれた小説などもあり、あながち虚言であったとはいえないという声もあるが、当時、日本国内に広まっていた「バルト海艦隊に続いてより強力な黒海艦隊が攻めてくる」という恐慌論を鎮めるために意図して流された側面があったことも事実である。
日本にとっては交渉のためのフェイク、ないしは国内鎮静化のプロパガンダであったが、ロシアにとってはそうではなかった。
ロシア国内はさらなる戦争の長期化に耐えられる状況にはなく、社会不安の増大によって、早期講和と沿海州の領土保全が最優先とされていた。
そのため、多大な軍備を配備することなく、瓦解した海軍力の補完になる策として、日本海と朝鮮半島の非武装化という提案が行われることとなった。
そして、黄海沿岸の不安を除去する意味もあって、遼東半島は米国の領有とし、黄海は米軍の管轄として日本軍が朝鮮へ侵攻した場合は米国が懲罰できる権利を持つという条件で合意がなされた。
当然、米国が不用意に朝鮮や満州へ軍事攻撃を加えた場合、日露がともに米国を攻撃することも明記されていた。
これがいわゆる非武装地帯条約の原初の姿であった。