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10・新たな時代

 みずほ型の就役で第一船隊は新時代を迎えた。

 金剛型戦艦の任務はあくまで日本海においてソ連警備隊のスターリングラード級と対峙することだったが、みずほ型は搭載ヘリを用いた海難救助や災害支援と言う分野に活躍することとなる。

 冷戦たけなわの時代、日ソは激しく対立していた。しかし、その主戦場はオホーツク海や太平洋であって日本海は平穏そのものだった。


 その間、いくつかの戦争はあったものの、海軍には尾張型戦艦が健在であり、巡視船が出向く様な事態は生起しなかった。

 この時代、領海規定に関する国際条約や海難救助に関する国際条約が取りまとめられる動きが活発になり、それに伴ってより一層、みずほ型は太平洋での活動を主としていくようになる。


 特に1979年に発効したSAR条約により日本は北太平洋の広範囲をその受け持ちとされたことにより、ヘリコプターを搭載するみずほ型の主任務は日本海におけるソ連警備隊との対峙ではなく、太平洋における広域捜索救難の司令塔となる事だった。


 建造に際し、アラスカ型のように船体中央を飛行甲板としブリッジを狭めていれば大きな障害となっていたことだろう。

 しかし、幸運にも採用されたのはブリッジも飛行甲板も十分に確保された案であり、ここでその先見性が功を奏することとなった。

 みずほ型はその通信能力、指揮能力、ヘリコプター運用能力によって、日本近海からアリューシャン列島周辺、南はマリアナ諸島に至る広範囲での哨戒や海難救助に活躍することとなった。

 その活躍の中には、戦艦の容姿による抑止効果も含まれていた。


 冷戦が終結する1992年まで、みずほ型は主に太平洋での活動に従事しており、日本海は帰るべき住処という状態であった。

 冷戦の終結はその在り方を変化させた。

 1994年には尾張型の退役が決まり、翌年から次々と退役していくと艦砲射撃の任がみずほ型に託されることとなる。

 この時期、中東における戦争への参戦ではまだ尾張型が健在であったため、実働はしていない。

 その後、1999年にはみずほ型自体をどうするかという議論が巻き起こることとなる。

 もうすぐ30年を迎えるみずほ型は、当初は十分であったヘリコプター運用においてもヘリコプターの大型化や新たな設備の普及でその能力も陰りが見えだしていた。


 すでに21世紀を目前とするこの時代、36センチという巨砲は時代遅れであり、冷戦中そのほとんどを太平洋での活動に費やしたこともあり、このような特殊な巡視船の必要性は疑問視される事態ともなっていた。

 

 冷戦中、ソ連のスターリングラード級の活動は低調だった。

 日本海に配備はしたものの、日本に対する威嚇という面では中央アジアに配備した核ミサイルやカムチャツカに配備した艦隊の方が有用であり、わざわざ非武装地帯の日本海における威嚇に意味を見いだせていなかった。

 そして、冷戦終結とともに配備された3隻ともに退役という措置が取られたのも当然の結果と言えた。

 こうしてみずほ型にはその存在理由も消失しており、その命運はほぼ絶たれたのだった。


 海上保安庁ではスターリングラード級の退役を確認した頃から純粋にヘリコプターの運用に重点を置いた大型巡視船を計画しており、みずほ型は2010年までに退役させることとして、2000年から新型ヘリコプター巡視船建造が決定することとなった。

 この巡視船は巨砲を搭載することなく、警備任務には76ミリ砲や25ミリ機関砲をもってあたることとし、最新の設備と大型ヘリコプター2機が搭載されることとなった。みずほ型より搭載機数が少なくなったように見えるが、みずほ型においても最新の大型ヘリコプターは2機しか搭載できないし、エレベーター容量もほぼ限界だった。

 新型巡視船は海軍の駆逐艦に採用されたものと同様に飛行甲板の前方に格納庫を持つ形式でエレベーターを装備していない。

 そして、巨砲を搭載しないので船体は大幅に小型化され、全長は160mしかない。乗組員も5分の1程度にまで減ることで運用はより楽になっている。

 そのまま何事もなければ、第一船隊は2010年に姿を消す運命にあった。


 しかし、運命の歯車は2000年にふたたび回りだすこととなる。この年3月にステッセリンブルグで爆弾テロが起きる。犯行声明を出したのはフリーコリアという組織だった。

 コリアスタン紛争終結からソ連時代を通じて多くの朝鮮族がコリアスタンから中央アジアへと移住させられている。移住を逃れるために北中国へと逃れた人も数多かった。

 冷戦崩壊によってソ連邦の解体という事態が起こり、中央アジアでは紛争が頻発するようになる。その中には当然ながら移住させられた朝鮮族の姿もあったのだが、紛争がコリアスタンにまで波及したのにはもう一つ原因があった。

 それは、ソ連邦崩壊で後ろ盾を失った北中国の衰退だった。


 ソ連邦崩壊の余波で北中国においてもチベット独立運動、内モンゴル帰属問題が紛争へと拡大、そこに中央アジアから流れ着いた朝鮮族が入り込み、2000年に朝鮮族帰還問題が起こる。

 これはコリアスタンから中央アジアへの強制移住を逃れて北中国へ逃れた朝鮮族の半島帰還を目指す動きだった。

 はじめは平和的なものだったが、中央アジアから流れ着いた朝鮮族は武装闘争を主張し、ステッセリンブルグでのテロ事件へと至ったのだった。

 平和的な当初の運動に寛容だったロシア政府は朝鮮族の帰還を容認していた。このこと自体は日本でも報道されており、目にした者も多いのではないだろうか。

 そうした流れの中で2001年には旧名復帰運動によって朝鮮王朝時代の名前が各所で復活していく。この頃はまだ平穏だった。

 問題が起きたのは北中国が崩壊した2003年の出来事だった。俗に北京事変と呼ばれる政変は内戦へと拡大し、遼東半島は再び朝鮮族の支配するところとなってしまい、大連に所在していた北中国海軍の艦艇も朝鮮族によって接収されることとなっていた。

 そう、あの時代の再来だった。


 余談だが、満州共和国は1956年以降、一時は米国の防共拠点として機能したが、1965年の遼東半島返還の後、内紛が勃発し、1975年には北中国に吸収されて消滅することになった事によって、黄海への日本の関与はほぼ消失してしまっている。

 


 


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