遠い記憶
それは遠い記憶だ。
まだ幼くて、世の中の仕組みも、よく知らなかった頃の思い出。
ある冬の寒い日、少年はいつもより遅いバスで、小学校に登校することになった。
その日の朝、幼馴染みの飼っているハムスターが逃げたして、それを捕まえるのに手間取り、いつもより家を出るのが遅くなった結果だ。
こうして幼馴染みとその兄を含めた三人は、バス停でバスを待つ。
当時一部の間ではお約束ごとがあった。
『七時三十分のバスに乗っちゃダメ』
小学生一年だった少年は、その約束ごとを誰が作って、そこにどんな意味があるのかとか、よくは知らなかった。
ただなんとなく、守らなきゃと感じていただけだ。
それでも三年生である幼馴染みの兄には、その意味が理解できるらしい。
普段はヤンチャな性格なのに、その時ばかりは少し青ざめて、口数も少なかった。
バスの到着を待つのは他に二人、少年の近所に住む高校生だ。
それ故辛うじて面識はある。少しばかり戸惑う視線で少年達を見ていた。
こうして到着したバスの中の光景、いつもと違う光景が広がっていた。
普段乗るバスは、いつでも人が一杯で、座る席もないほどだった。
小学生や中学生、高校生や一般の人達で、いつでも埋め尽くされていた。
雨など降ろうものなら、自転車通学の学生も乗り込んで、すし詰め状態だ。
それなのにこのバスの中は、殆ど人の姿もなく、がらんとしている。僅かに五~六人の高校生がいるくらい。
その様子を見つめて、幼馴染みは笑顔を浮かべる。
『一番後ろの席、空いてるよ』そう言って駆け出す。
彼女はいつも言っていた。
『あそこに座って、外の景色が見たい』と。
車窓から流れる景色には、なにか独特なものを感じ取れる。
それが大きなバスともなれば、思いもひとしおだろう。
一番後ろの席にちょこんと逆を向いて座り、後ろに流れる光景を見つめる。
なんでもないことだが、なんでもない楽しみがそこにはある。
それは少年にも分かることだ。
普段はぎゅうぎゅう詰めで、それは出来なかった。
だけど今なら叶えられる。何故かその席が空いている、左右の端っこ、それぞれに高校生が座っているが、真ん中の三席ほどは誰も座らずに、ぽっかりと切り取られていた。
しかし何故か高校生達は、それを許さなかった。
『ここは予約席なんだ』『ガキは他の席に座れ』そう幼馴染みの邪魔をする。
しかし勝ち気な幼馴染みは、一向に引かない
『空いてんだからいいでしょ』そう言って頬を膨らませる。
その様子に、少年も食いかかる
『予約席って、なんも書いてねーべ』そう言って幼馴染み同様捲し立てる。
若さゆえの至りといえばそれまでだが、その時は咄嗟にそんな行動に出ていた。
二つ年上の兄は冷静だった。
『そんな馬鹿な不良、相手にすんな』そう注意するが、それはそれで高校生の反感を買う。
かくして走り出すバスの車内、激しい言い争いが展開される。
とはいえ高校生は本気ではなかっただろう。
相手は自分達の半分にも満たない、年下の小学生。本気になっても仕方ない。馬鹿なガキだと適当にあしらっていただけだ。
それを物語るように、運転手は覚めた表情だった。ルームミラーで様子を窺いつつ、淡々とバスを走らせていた。
本当に危険ならバスを停めて、高校生に注意した筈だ。
しかし次のバス停に停まった時、その状況は一変する。
へらへらしていた高校生の表情が、引き締まる。
一斉に気合いの籠った挨拶を繰り出して、乗り込んでくる新たな人物を待ち構える。
少年はそれには気付かなかった。その人物に背を向けて、別の高校生の足に組み付いていた。
高校生が、幼馴染みの髪の毛を右手で掴んでいた、それが許せなかった。
そんな興奮状態にあったから、気付かなかっただけだ。
その人物が一歩あるく度に、ある種の緊張感が車内に充満することに。
気まずそうな表情の高校生達、マズイ場面を見られた、そんな感じだったのだろう。
不意に少年の肩が押し払われた。強烈な力で、座席に身体を押し付けられる。
呆然自失で横を見つめる。
その視線が捉えるのは、やけにデカい背中だった。
相手を威圧しそうな鋭い眼光の持ち主。斜め後ろから見える額には、くっきりと星状の古傷が見えた。
彼を押したのはこの男だった。声もなく少年を押し倒して、そのまま何事もなく過ぎ去ろうとしていた。
自分をまるで、小動物ぐらいにしか思わないのだろう。
辺りの高校生達は愕然とした表情だった。
小学生相手とはいえ、その大胆な行動に度肝を抜かれたのかも知れない。
一方の幼馴染み達は、蒼白だった。
それも今思えば正解だ、高校生と小学校低学年、その体力的な差は大きすぎた。
そんな状況を余所に運転手はバスを発車させる。
ガヤガヤと騒がしい車内だが実際の被害はない。男は軽く押し退けただけのこと。
騒ぐ程ではないと、感じたのだろう。それもある意味大人の対応、下手に騒げば事態はさらにこじれる。
バスの発車に呼応して、搭乗客が足に力を籠める。グラッという遠心力が働いた。
それでも少年の気力は萎えていなかった。
『なにするんだよ!』そう言って男の背中に飛び膝蹴りを放つ。
遠心力のせいもあっただろうが、男の身体が大きくぐらついた。
前のめりになって倒れそうな状態を、横の座席に腕をあてて耐え凌いだ。
『デカいなりして、どこ見てんだよ』その真横を、幼馴染みの手を引いて悠々と歩く少年。
場に漂う静寂。高校生達の表情から血の気が引いた。
後になれば、馬鹿なことをしたなとつくづく痛感する。
高校生からすれば、男は畏敬と尊敬の対象だった。
超越したカリスマ性と絶対的な腕っぷしで、高校一年生ながらこの近辺の高校を支配してきた男。
タカのごとき眼光で、狙った獲物は必ず叩き潰す。いわば絶対王者ともいえる存在だった。
だから飛び膝蹴りなんて行為、間違っても絶対にしない。
もしそれがケンカの場だったら、間違いなく半殺しだ。
その張りつめた空気の中、男がゆっくりと頭を上げる。
『この、クソトンビが……』
後になって思えば、どうして男は、そんな台詞を言ったか不思議だ。
そんな状況なのに、少年は自分の世界に入り浸っていた。
後部座席に逆向きに座って、幼馴染みと談笑していた。
慌てて注意する、幼馴染みの兄の声さえ、少しも聞く耳を持たなかった。
まさしく間抜けなトンビ。間違ってタカの巣に足を踏み入れた幼きトンビ。
どうしてタカの逆鱗に触れなかったのか、それも今でも不思議だ。
結果として、男はなにもしなかった。無言で少年達の隣に腰を落とし、何事もなかったようにうたた寝するだけ。
沈黙だった車内に、声が戻る。
『ガキ相手にいきがる訳にもいかないしな』『流石宗さんだなや、ガキのあしらいかたもイケテる』『支配者の風格だべ』口では散々言っているが、内心はほっとしていただろう。
流石に小学生相手に争いを繰り広げるのは、対面的に気まずいと……
それが七時三十分のバスの中の光景。
ムスっとした表情の男と、傍らで無邪気に騒ぐ三人の幼子達。
端から見たら、天空の王者たるタカが、トンビのお守りをしているようにも見えただろう。
弱肉強食の熾烈な世界にも、ほのぼのした一面が浮かぶ。
そのあと数ヵ月は、こんな風景が続くことになる。
高校生達は愛敬を籠めて、少年をトンビと呼ぶ。
いつしか幼馴染み達もそう呼ぶようになり、それが定着していく。
少年としてもその呼ばれかたは嫌いではなかった。ある意味勲章のようで、何故か誇らしかった。
自分が認められたようで、少しだけ鼻高々だった。
少なくともあの時までは、そう思っていた。
他人が思う程、その奥底に秘める根本は違う。
自分がそう解釈しても、別の角度から見れば、それは百八十度一変する。
人には心があって、建前やその時の場面で使い分けている。
つまりはその言葉や行動と、その本質は必ずしも直結しないということだ。




