酪農家の火事
町を夕闇が包み込んでいた。
「今日はお客さん、少ないですね」
ギブリの店内、葵がカウンター越しに呟いた。
「火事があったみてーだがんな」
その傍らではタマさんが、煙草の紫煙をくぐらせている。
それにうんうんと頷く葵。
「でもまだ燃えてるのかな? 出火から一時間は経ってるよね」
「だな、かなり燃えてるらしいな」
「うちのお客さんって、消防団員がメインだから、火事があると困っちゃいますよね」
土曜日の八時過ぎ。
いつもならある程度の客で溢れる時間だ。
しかしそこから見える範囲に、客の姿はない。
葵のいう通り、ギブリの客層は消防団員が多い。
しかしこの日は、先程起きた火災により、多くの消防団員が出動を余儀なくされていた。
その葵の台詞に、眉を顰め視線を向けるタマさん。
「そんなこと言ったらダメだよ葵ちゃん。他にも客はいるんだから」
意味深に言い放ち、店の奥座敷に視線を向ける。
奥座敷からはガヤガヤした若い男女の騒ぎ声が響いてくる。
「あっくんエロいよ、ひいちゃうよ」
「あつしがエロいのは、昔からだっぺや」
そんながやがやした内容だ。
数十分前に来店した、派手な衣装に身を包む若いグループ。
「おねーちゃん、生、三つおかわりね!」
注文が飛ぶ。
注文しているのは二十歳程の若者だ。
「了解しました」
葵は元気よくそれを請けたまわり、サーバーで生ビールを注いで持っていく。いつも通りの、活発でテキパキした対応だ。
しかしタマさんは、その葵の姿を浮かない表情で眺めている。
「葵ちゃん、気を付けなよ。あいつらの中に”これも”数人いるから」
意味深なゼスチャー。指先で頬をなぞるゼスチャーだ。
憂うような神妙な面持ち。
この何気ない光景がいつまでも続けばいい、穏やかでたおやかならば、それ以上はなにも望まない。
葵には、暗にそう言ってるように思えた。
「分かってますよ、相手にしないですよ。……だけどいつまでも、臆病なままじゃいけないでしょ?」
しかし葵の視線は穏やかなもの。
タマさんの憂いの原因は、痛いほど理解している。
それでも、だからこそ進まなきゃいけないこともある。
どんなに嘆いても過去は変わらないから。どれだけ立ち止まっても、時間は進んでいるのだから。
「確かだな。葵ちゃんの言う通りだわ。引き籠もってても埒は開かねーわな」
笑みを浮かべるタマさん。
呼応して葵も笑った。
笑顔だけが、心から笑うことだけが、未来へと続く架け橋だから。
それから一時間程が過ぎた。
「いらっしゃい!」
タマさんの招きで、翔太はギブリに足を踏み入れた。
「ちいーっす。三人なんだけど、空いてます?」
後方には太一と淳平の姿もある。
火災の出動のあとの、ささやかな食事と称して、この場を訪れた。
苦笑するタマさん。
「ははは。嫌みかそれは。見りゃあ分かんべ、空いてるよ」
言って空いてる席を指差す。
「いらっしゃい翔太くん」
葵がカウンター奥から言った。
「おう葵ちゃん、こんばんわ」
そんなやり取りを交わし、翔太達は手前の座敷へと上がり込む。
そして生ビール二つと日本酒を注文する。
「火事だったんだって? 大変だったじゃない」
生ビールを配りながら訊ねる葵。
「大変だったさ。特に水利の確保がな」
「ポンプ五台っすよ。それを何台も中継て、ホースだって何十本って使った」
それに翔太と太一が答える。
いまだに酷い残暑が続いていて、もう一ヶ月近くは雨も降っていない。
そのため、鎮火させるだけの水量が確保出来なかった。
それ故小型ポンプを数台連結させて、数キロ先から水を引っ張って、ようやく鎮火させていた。
「火事を消すには、水は必要不可欠だものね」
同調して神妙な面持ちの葵。
ズバリ火事場において、一番重要なのはそれだ。
「っても、火事自体は、それ程の規模じゃなかったんだよ」
「ですね。鎮火までは時間は掛からなかったです」
翔太の台詞に今度は淳平がかぶせた。
確かに水利の確保には時間がかかった。
だが火事自体は通報が遅かったせいもあり、現場に到着した頃には殆ど焼け落ちていて、すでに鎮火傾向にあった。
だから大がかりな放水活動はしていない。
「かなり前に、鎮火の放送も流れたしね」
それについては葵でなくとも、思っていることだろう。
火災の放送が流れたのは、今から二時間も前のこと。
そして暫く後、鎮火の放送も流れている。
「それにしては、解散するまで長かったよね」
だからこそ疑問も残るようだ。
「酪農やってるとこがら出火して、ワラとかあっから、全然消えながったんです」
今度は太一が言った。
「消えたと思っても、奥の方で燃えてるから、なかなか消えなくてな」
「たまにあるんですよ。布団が燃えて、水を掛けて消したはずだったのに、夜中になったら再び炎が上がったとか。藁なんてその典型的なパターンですから」
「そういうこと、流石ガリレオだだね」
同じ燃えるにしても、その対象によっては厄介なものもある。例えば布団やワラ。表面の火を消しても、中の方で燃えている危険性がある。そのまま放っておくと、再び出火して二次災害を起こす恐れもある。
「鎮火して帰ったら帰ったで、掃除や点検なんかもあったしな。ホントめんどくせーったらありゃしない」
翔太として一番面倒だったのはそれだ。ようやく火事場から解放されたのに、機械の点検、使った道具の清掃、日誌などの記入で三十分程の時間を費やしてる。
「日頃の備えは大事ですから」
すかさず言い放つ淳平。少し前と違って、先輩団員としての気構えが大きくなっている。
「はいはい」
仕方なくそれに同意する翔太。
一方で太一は、なにやらムカついた表情だ。
「常備なんて後がら来たくせに、鎮火の放送流っちゃら帰っちまうんだもん、ひきよーだよな」
言って口を尖らす。常備とは常備消防隊、つまり消防署隊員のこと。
太一の言いたいことは、翔太にも粗方予測できた。
火事場にて実際に火災を消すのは消防団と消防所の両方だ。
だがその後の後片付け、及び残り火の始末をするのは消防団の仕事だ。
特に地元だった場合は、下手すれば一昼夜、その業務に付きっ切りになるのも珍しくない。
「だけど消防所も頑張ってるでしょ? ……それに地元の為だもん、仕方ないよ太一君」
不意に言い放つ葵。
確かに常備消防とて、全て消防団にまるなげしている訳ではない。
彼らは活動範囲が広域故に忙しいし、状況見聞など活動も多岐に渡る。
しかも特殊火災や、救出活動は彼らの専売特許。
いつだったかの火事場でも、翔太はもう少しでそのお世話になる所だった。
「……だな」
呼応して言い放つ翔太。
太一の意見に賛成したことを、少しだけ恥ずかしく思った。
しかしそんな空気など、太一はお構いなしだ。
「……んだがい? んじゃっかなんかつまみも頼むばい、腹も減ったし」
先程の台詞も関係ないように言い放つ。
「ま、そうするか」
火災で出動したのは夕飯時。
それから二時間、確かに翔太も空腹だ。
こうして彼らはつまみの注文をする。冷奴や揚げ物、サラダなど数点の品物だ。それを葵が訊いて注文表にメモ書きする。
淳平は相変わらず遠慮深い様子だ。自らは注文せず翔太達が決めたもので満足している。
対する太一は大胆な様子。
「俺はブタのしょうが焼き」
それを訊いて、翔太の脳裏に先程の火災のビジョンが浮かぶ。
「あれ見て、よくそんなもの食えるな」
現場は酪農農家、火元は牛舎。
そして焼け跡には、三頭ほどの牛の焼死体。それを思い出すと、肉類は遠慮したいと感じていた。
それでも太一は堂々たる態度。
「そうがい? あれ見てたら無性に肉食いたくなってない」そんな風にさらりと言い放つ。
確かにそんなことで食欲をなくしていたら、消防団など務まらない。
かくしておつまみの注文は終わる。
「それじゃ乾杯」
「うっす」
「お疲れ様です」
こうして翔太達は、それぞれのグラスをかざし、火事場出動後の、ささやかな宴会と相成った。




