嘘と涙の方程式
「なんで俺はここにいるんだ?」
「馬鹿だなー、翔太ちゃんが自分で来たんだろ?」
ギブリの店内。翔太と信二、二人共酒に酔ってへろへろ状態。
既に時刻は、午後十一時を過ぎている。
日曜の夜のこと、他に客の姿はない。
カウンターの中では葵が、あゆみと会話している。
田舎の暮らし、都会での出来事、夢の話。様々だ。
「俺は明日、仕事なんだぞ」
「そんなもの休んちゃえばいいじゃん」
「あのなー、信二」
「そんなことより飲もうよ」
「……だな」
酒の勢いとは恐ろしいものだ。
少しだけ付き合うと、ギブリを訪れた翔太だが、帰るタイミングを完全に逃している。
それどころかそれを、覚えて把握してるのかも疑問。
「懐かしいね、昔はこうして朝まで飲んでたもんね」
「あったな」
「覚えてる、駅前でバンドしてる奴らと揉めた件?」
「覚えてるさ。信二が、いちゃもん付けられて、俺が止めた時だろ」
「そうそう、いつの間にか相手が増えてて、最後には逃げ回ったんだよね」
それでも本音で語れて、いつになく上機嫌だ。
若い頃の記憶というのはいつでも色褪せない。
もちろん葵にもそんな時代はあった。
今と違って世の中の仕組みもよく知らず。金もなく、時間ばかりが有り余っていたあの頃。
悲しみばかりが多くて、忘れてしまいたい想いもあるが、それでも彼女からすれば、やっぱり青春と呼ぶに相応しかった。
この二人にも、そんな時代はあったのだろう。
「翔太ちゃん、なにを寝てるのさ……」
「……馬鹿、明日は仕事だ……」
「そうかお仕事か……頑張ってね……」
「……お前こそ頑張れ……」
「……うん。頑張るさ……」
「……だな……」
こうして二人、夢の中へと誘われていく。
「寝ちゃったね」
その様子を見つめ、あゆみが言った。酔いざましに少し温めのお茶を飲んでいる。
「懐かしい思い出をつまみに飲む酒は、楽しいものだからね」
葵の方は洗い物をこなしている。
静かな時間だけが過ぎいく、先程までのにぎやかさはどこにもない。
翔太は代行サービスで帰る手筈になっていた。信二はあゆみとタクシーで帰るから問題はなかった。
「葵さんって福島の人じゃないですよね?」
不意にあゆみが訊いた。
「分かります?」
「言葉遣いが、全然違うから」
「私は東京育ちだから。こっちには最近引っ越して来たばかりで」
「そうなんですか。どうです、こちらの暮らしは?」
「うーん、都会とは違って、見るもの全てが新しいかな」
「自然がいっぱいですもんね。ごみごみした東京とは違う感じですものね」
「都会は、時間に追われて暮らしてるって、感じですからね」
葵は心の底から田舎暮らしを満足していた。
見るもの全てが新鮮で、日々起こる出来事をいとおしく思えていた。
そんな彼女の笑顔を、あゆみはしみじみと眺めていた。
「だけど田舎の人って、無駄に熱いところないですか?」
そして言った。両手で持つお茶を一口啜る。温かい感触が喉を伝わる。
「翔太がそうだった。なんでも本気で取りくんで、迷わず突っ走る」
遠い表情だ、過ぎ去った過去に思いを馳せて、苦笑する。
「確かにそうかもね。この店に来るお客さんも、かなり熱い性格の持ち主ばかりだし」
それには葵も納得するものがあった。
翔太を始めとして、涼や陽一そして宗則、彼らは個性こそ違えど全員熱い性格の持ち主。
そう感じて、うんうんと頷く。
がらんとした店内をゆっくりと見回すあゆみ。
「よく言えば実直。悪く言えばダメな男」
その視線が捉えるのは、店内に飾られた翔太の画。
「出逢った頃の翔太は、漫画家になる夢を描いていた。会社に通いながら、同じくらいそれも頑張っていた」
「その話なら、訊いたことがあるわ」
その話は葵も知っている。
酔った勢いで涼に話していたのを訊いていたからだ。
「漫画ってのは絵が上手いだけじゃダメなんですよ。ストーリーがあって構成があって、それらがあって漫画になる」
「確かにそれが問題なんだよね」
「翔太は絵は上手いけど、それがなってなかった。それでも頑張って、少しづつは良くなっていた……」
一瞬あゆみの声が途絶える。
「それなのに翔太は、その夢を途中で諦めた」
そして言った。
少しばかり考え込む葵。
「不思議だよね、あの翔太くんが、そう簡単に夢を諦めるなんて」
葵は昔の翔太を知らない。
学生時代の話や、夢を抱いて東京に出た頃のことは知らない。
だが今の彼を見てれば、そう簡単に諦める性格ではないと感じた。
「逃げたんですよ翔太は、わたしのことを理由にして」
「逃げた?」
あゆみの話は、葵からすれば意外なことだ。
「ある日、翔太と二人でドライブに行ったんです。漫画で徹夜してた翔太を、わたしが半ば強引に付き合わせる形で」
「翔太くんって、誰かに誘われると嫌と言わないからね」
「それは言えてる。なんだかんだで、後になって愚痴は言うけど」
それにも葵は納得する。
散々文句を言いながら、春樹に誘われて婚活にいくし、涼や陽一の言われるままに消防団に入った翔太。
現に今も、あゆみ達に強引に誘われてこの場にいる。
そう思うと、少しばかり苦笑する。それを察したかあゆみも笑顔だ。
一瞬の沈黙。なにか言いたげなあゆみと、それを無言で見つめる葵。
「この傷跡、分かります?」
しばらくのち、あゆみが言った。
右手を額に添えて前髪を掻き上げる。
「傷跡? 傷跡って言えばそう見えるわね」
彼女の額には、うっすらと傷のような痕が残っていた。
とはいえ、言われなければ分からない程度だ。
「この傷って、その時のドライブでついたものなんです。……左折しようとした時、直進してきた車に突っ込まれて。それからなんです、翔太が漫画をかくことがなくなったのは」
「だけど事故に遭ったのは、翔太くんのせいじゃないんでしょ」
すかさず訊ねる葵。
運転していたのは翔太だろう。だが相手に突っ込まれたのであれば、それは被害者だ。
「翔太は一方的なんです。『事故に遭ったのは、そんな傷痕が残ったのは、自分が徹夜して、ぼーっとしてたから』だって」
それは辛い過去の出来事だ。
「重いですよね。こんな見えもしない傷痕を悔やんだり、他人がおこした事故を、自分のせいだって思ったり。……そんな風に、他人の不幸を背負い込む性格って」
それでもそう切り出すあゆみの表情は笑顔。
「……傷痕か……確かにそうだね。キツイよね、そこまでされたら」
葵も答えた。
そのあゆみの思いは、葵の中にも染み込んでくる。
確かに傷跡というのは一生のものだ。
不意の事故でのものなら、後悔も残るだろう。
もちろん、自ら望んだ傷跡だって……
少しばかり青ざめ、左手で反対の肩を押さえる。
「福島に戻るって決めた時もそう。わたしが弁護士の夢を目指してるからって、勝手にひとりだけ、福島に戻った。そのくせわたしが愚痴ると本気で訊いてくれる、半分はどうでもいい話なのに。ホント、田舎の人って冗談が通じない。都会で育った信二の方がマシって感じ、話半分で受け止めてくれるから」
次々と言い放つあゆみ。
まるで溜まったもやもやを一気に吐き出すような口調だ。
「そう思いません、葵さん?」
それでも自分だけ話してると理解したのか、葵に向かって同調を促した。
だが返ってくる返事はない。何故か葵は、じっとあゆみの表情を見つめるだけだ。
「葵さん?」
堪らず言った。
「本当は好きなんだよね? 好きだから、重荷になりたくないから、彼をふった」
静かに言い放つ葵。
「そんな筈ないですよ。……彼はホントにダメな男なんだから……」
慌てて返すあゆみだが、そこに先程までの調子はない。
「本当に嫌いで、ダメな男と思うなら、涙なんか流さない筈だよ」
そしてその葵の台詞ではっとした。
自分でも気づかなかったのだろう、あゆみの目からは大粒の涙が溢れていた。
「全て逆な意味、自分を正当化する為の嘘。言ってることは全部自分への言い訳なんでしょ? ……だから涙が溢れる」
悲しい嘘をつくと、心から涙が溢れる。それが嘘と涙の方程式。
「彼があなたを思うように、あなたも彼のことを思ってたんだよね。だからわざと素っ気無い態度をとって、彼から離れた」
もどかしくて堪らなくて、内に秘めるには重すぎる感情。
「この町のことが詳しいのは、彼を思えばのこと。ついでに来たっていうのも嘘、最初からここに来るのが目的だった。苦しい嘘をつくから涙が溢れる。だって今でも、翔太くんのことが好きなんだから」
だから人は嘘をつく。
嘘で塗り固めるのは簡単なこと。
だけど嘘で塗り固めた言葉は、その心を破壊する。
だから涙が、堰を切って溢れてきた。
その葵の的確な台詞が、頑なだったあゆみの心を解きほぐす。
「嫌いだったら来ないですよ、わざわざ休暇を取ってまで」
福島に来て、初めての本音を言った。
言葉などその場しのぎの手段に過ぎない。
相手を思いやる嘘とか、陥れる為の欺瞞とか、そんなもので満ち溢れている。
だからそんなもので誤魔化されてはいけない。
本当に大切なのは、その奥底に宿る真実だけだから。
摂氏一万度の英雄たち
第五章~終わり




