またね
外に出ると、一気に灼熱の太陽が襲い掛かる。
じわじわと肌を焼き尽くす陽射し。
ジリジリ、ジリジリと耳をつんざく蝉時雨。
力強い命の鼓動を表すようで、どこか儚くも感じる。
この暑さは、いつまで続くのだろうか。スイカに流れ落ちて、飛沫となって弾ける水流だけが、爽やかさを演じている。
すぐ側には、例の渋柿の木が立っている。その実は青く、収穫まではまだまだ先だ。
その渋柿の木の遥か遠くには、八幡神社の一本杉の姿が見える。
その一本杉の龍神伝説も、アサの語り継ぐ伝説のひとつだ。
今から数百年前、一軒の民家から火事が発生したそうだ。
当時は日照りが続いていて、それを消す水もない。炎は隣の民家をも飲み込んで、あっという間に大火災になっていく。
人々は神や仏に祈りながら、それを眺めるしか出来なかった。
そんな時だった。一本杉から一羽のトンビが飛翔した。普段なら考えられないくらい空高く。
そして次の瞬間、滝のような雨が一気に降りだしてきた。それによって火事は、瞬く間に鎮火したそうだ。
それは不思議な現象だった。雨が降ったのはこの地域だけ、この場所だけ、釜の底を切ったような集中豪雨が襲った。
他の地区からは、その雨の降る様が、龍神が舞い降りたように見えたらしい。
それ以来一本杉のトンビは、龍神の使いと崇められるようになる。
それが龍神伝説の全て。
もちろんそれは、昔から伝わる逸話に過ぎない。
実際の出来事かも定かではないし、全てが偶然の産物だったとも考えられる。
博識を誇る、我らが大沢五分の淳平は語る。
『それは火災旋風じゃないでしょうか。火事によって熱せられた空気が、上昇気流を呼んだ。トンビが普通より高く飛んだのは、そのせいじゃないですか? 雨が降ったのは、それによってかき回された空気が結晶化して、雨となって一気に叩き落ちた。いわゆる爆弾低気圧、夕立と同じ原理ですね。だから雨乞いの儀式とかでは、狼煙を焚くんです』
とは言えそれも、予想の域を出ない。
ひとつだけ言えるのは、一本杉のトンビは、今では崇められていないということ。
トンビ事件の発生と共に、その名は地に落ちた。
翔太は当時、三歳ほどだったから、その詳しい経緯はよくは知らない。
事件とは言うが、それ程の被害があった訳でもない。
だが孫が被害にあった長老は、ことある毎に言い放つ。
『あれは宗則がトンビ怒らせたから、あんなことになっただ。宗則のやろーはまともじゃねー』
故に宗則は、今でも長老方の一部に疎まれている。
辺りを包み込むのは真っ赤な夕陽。山々からはヒグラシの鳴き声が響いている。
「これで満足したろ?」
翔太が言った。
「うん。わざわざ付き合ってくれてごめんね。そしてアリガトね」
あゆみの声は、少しばかりトーンが低いような気がする。
「気にすんなって。楽しんでくれたら幸いさ」
呼応して翔太の声もトーンダウンした。
信二は帰る準備の為、車に戻っている。
春樹は誰かに呼び出され、どこかに出かけたままだ。
「いろいろゴメンね。あんなメール出して、勝手に別れて、そのうえ急に押しかけて」
「実際振り回されたけどな」
あゆみの滞在は、この日限り。
もしかしたらこれが、最後の出会いになるのかもしれない。
辺りの光景とその情況が、翔太を物悲しくさせていた。
「なんだかんだで、お前に再び出会えてよかったよ。このままぐずぐずしてたら、前に進めなかったしな」
「そういって貰えたら、嬉しいよ」
「信二にも宜しく言ってくれ。一応今でも友人だし、祝福するって」
「うん、伝えとく」
「二人、お幸せにな」
「もちろんだよ、翔太の分まで幸せになるね」
気恥ずかしさはあった。
心ではそう感じても、言葉に出せないもどかしさがあった。
だからこそ別れが近づく今、言葉にしなきゃと感じていた。
「だけど本当に、家まで送らなくてもいいの?」
「ああ、たまには田んぼ道を歩くのも良いかと思ってさ」
別れたとはいえ、一時期は本気で愛し合った二人。
本当の意味での別れは、堪らない感情が込み上げる。
そして翔太、一番訊きたかったことを訊こうと思った。それはあの電話の内容。
『ダメな男』という意味だ。
「あのさ、あゆみ……」
意を決し、それを言葉にする。
「おーい、あゆみちゃん! 帰る準備が整ったよ!」
だがその声を、信二の叫び声が消し去った。
貰った沢山の野菜を積み終えたようだ。既に車に乗り込み、東京に帰る準備は万端というところ。
少しばかりタイミングを逃がしたと感じる翔太。
「……どうしたの翔太? 言いたいことがあったんじゃ」
それを察したか、上目遣いで見据えるあゆみ。
「別になんでもないさ。信二が待ってるぜ」
既に今更な話だ。
その答えを聞いたところで、この流れが変わるはずもないのだから。
「じゃーあ、“またね”」
あゆみが言った。
「ああ、またな」
翔太も返す。
そして二人、背中を向けたままそれぞれ歩き出す
またねというのは、その場しのぎの台詞だとは分かっている。
本音の台詞を言ったら、今まで溜め込んだ感情が、爆発しかねないから。
涙や悲しみ、そんな別れ方はしたくない。
だから“またね”が、一番いい別れの挨拶。
いつの日か、互いに少しだけ思い出すくらいが丁度いい。
それでいいと感じた。立ち止まっても過去は戻りはしないのだから。
「翔太ちゃん!!」
信二の声が響いた。
「…………」
それでも翔太は振り返らない。
彼女を浚った憎いあいつ。それでも友達だったのは事実。
振り返ったら、その事実さえ消えそうな気がする。
「聞こえないの、翔太ちゃん!!」
それでもその声は執拗に響き渡る。
「あのお調子者……」
堪らず立ち止まる翔太。
「今夜もギブリで九時ね! ホテルで夕食たべたら、ボクちゃん達も直行するからね!!」
その台詞を残し、信二の運転する車は発車する。
「今夜もギブリ? ……あいつら今日、帰る訳じゃないのか」
残されたのは、夕闇に立ち尽くす、翔太の姿だけだった。




