朝もやの中で
時刻は朝の四時。
真っ白い朝靄が、辺りを支配している。
そこは山間にある設備に設けられた駐車場。
アスファルトの上を、消火ホースがするすると伸びていく。アスファルトの黒と消火ホースの白、その対比が鮮やか。
「放水始め!」
山並みにキリッとした声が響きわたる。
バシュッ、スパパパーーン!
水圧が掛かると、薄かったホースがはち切れんばかりに太くなる。バリバリと音を発てて、大地を真っ直ぐに伸びていく。
その様子は、暗黒の大地を這う白き龍の如く。
筒先を抱える腕にも、力が籠る。その腕に伝わるビリビリした衝撃さえ感じられる程だ。
閉鎖空間をひしめくように駆け抜けた水流が、一気に吐き出される。堰を切った濁流の勢い、とは文字通りこのことだ。
真っ直ぐと弧を描き、天に向かって飛翔した。
「はぁはぁ……。少しタイムロスしだがな」
陽一が呟いた。
「うーん、ちっと最後がな」
それに答える涼。
二人共なにやら真剣な面持ちだ。
筒先を背中に担いだ陽一が、涼の握り締めるストップウオッチに視線を向けている。
涼が着込むのはいつも通りの法被。
だが陽一が着込むのは紺色の作業服。ヘルメットをあごで固定して、腹部と背中にはゼッケンをつけていた。
その傍らでは同じ作業服姿の真樹夫が、青ざめた表情を見せている。
「マジがい。今ので全力疾走だっぺした。……もう限界」
がっくりと肩を落として、膝に腕を預けた。
その周りでは、法被を着込むその他の団員が、辺りに散らばったホース類を回収している。
駐車場はほとんど水浸しだ。もちろん雨が降ったからではない、その全てがホースから吐き出された代物。彼らが、それだけ多くの放水をしている証だ。
「選手は大変だない。俺は運動オンチだがら助かった」
「俺も入って一年目だから免除だしな」
ホースを回収する太一に翔太が答えた。
こうして彼らが朝早くから集まっているのには訳があった。
小型ポンプ操法大会。知る人ぞ知る消防団行事だ。
ポンプ操法とは、小型ポンプを使用しての放水訓練の略称だ。
それを形式化して、タイム、動作を競う競技。
何十年かに一度巡ってくるらしいのだが、今年は大沢第五部に回ってきた。
その練習の為だけに、翔太達は毎朝早起きして、ここに集まっていた。
その選手には涼と陽一、真樹夫などが割り当てられている。宗則がそれを仕切り、他のメンバーがそれを補佐する。まさに部一丸となっての大変な競技。
それが始まって、既に二カ月程が過ぎていた。
「朝早くがら全力疾走って、ねーっすよね?」
「普段なら、まだ寝てる時間だもんな」
「本当だない。博史じゃなくても逃げ出したくなりますよ」
ガヤガヤした会話を繰り出す翔太と太一。
使い終わって緩んだホースを、一本一本 丁寧に巻き直していく。
ポンプ操法では、この巻き方も重要となる。
消火ホースは、緊急時に素早く伸ばす為に、特別な巻き方をしている。半分の長さに折って、それをぐるぐると巻いているのだ。
決められた投げ方をすれば、簡単に伸ばせる仕組みだ。故にコンパクトに巻き取る必要があった。
そうすることで勢いが増して、タイムにも差が出る。
「博史のやろ、また逃げやがって」
奥の方から真樹夫が歩み寄ってきた。
「本当だない。あの時の火事いらい、さっぱりっす」
相槌をうつ太一。
「あのやろー宗さんのごど、マジでビビッてっからな。あの火事ん時も睨まっちぇ、ネズミみてーに震えてたっていうべ?」
真樹夫はまだ全力疾走の疲れが取りきれていないようだ。
膝に腕を預け、頭を垂れたまま言い放つ。その背中に浮かぶのは疲労感。
『俺が選手として頑張ってんのに、あの博史のやろ』といった、博史に対する憎悪も若干含まれているらしい。
「確かにあいつ、宗則さんだけじゃなく、涼さんにも恐怖してたから」
その背中を、哀れみにも似た視線で見つめる翔太。
真樹夫の背中には、何故か哀愁まで感じられる。
「あれだけじゃなくて、普段もテキトーだからダメなんだばい」
「調子だけは一人前なのにな」
こうして三人、博史の話題で盛り上がる。
あの火事以来、博史は消防団の集まりに顔を出すことがなくなった。
元々適当な性格の持ち主で、ゆとりと呼ばれる世代。宗則に怒鳴られ、涼の恐ろしさを肌で感じて、現実を知ったのだろう。
そしてその会話は、翔太にとっても気恥ずかしいものだ。
何故なら博史があの火事場で怒鳴られたのは、翔太にも原因があるから。翔太に感化されて、調子ついて叱られた結果だから。
とはいえ、そこまで引きずるものでもないと感じていた。
実際あのあと、宗則も陽一もその件に関して触れることはなかった。今は今、あの時はあの時という、大人としての考え方だろう。
火事場といえば……
あることを思い出して、翔太は淳平を見つめた。
淳平も他の団員と共に、選手である涼の補佐をしている。
翔太が思い出したのは、その淳平に借りたタオルのことだ。
あのウルトラマンのタオルには、本当に助かった。
しかし火事場に飛び込んだことで煤だらけになった。
淳平は、そのまま返してくれて大丈夫です、というが、翔太としてはそれでは済まない。
ちゃんと洗って返す、と言ってそれきりになっている。
そろそろ返さないと……
そんな翔太の思惑も余所に、真樹夫はニヤケながら翔太を見つめている。
「だげんちょよ、こうなっと一番大変なのは、翔太おめーだべ? 新兵ひとりなんだがら、おめひとりで雑用しねっきゃなんねーべ?」
そして意地悪そうにその顔を覗き込んだ。
「嫌なこと、言わねーで下さいよ」
堪らず言い放つ翔太。
新兵とは新入団員のことだ。本来ならばそのような呼び方は存在しない。アメリカ海兵隊などの流用なのだろう。
基本消防団は縦社会。新入団員は多くの雑用が仕事。同じ新入団員の博史がいたから、今までの翔太の雑用は半分で済んでいた。
それが居なくなれば、その雑用が倍になるという計算だ。
そう思うと淳平にも頭が下がる。
翔太達が入団する以前、三年間もひとりで雑用をこなしてきたのだから。
「へへ。心配すんなって、ちっとは俺らも手伝ってやっぺした」
「マジっすか? 本当、頼みますよ」
その真樹夫の台詞に、すがる視線を向ける翔太。
正直真樹夫の言葉は、その場しのぎで重みが足りない。それでもこうなった以上、それに頼るしか手立てはない。藁にも縋る思いとは、まさにこの心境だ。
「真樹夫、太一、翔太、なにをもたもたやってる! もう一回行くぞ!!」
宗則の怒号が響く。
気が付くと涼達は既にスタンバイ状態。
どうやら再び、タイムアタック形式の練習が再開されるようだ。
「嘘だべ、あれだけやったのに。涼さんら、マジで人間じゃねーぞ」
「俺らも応援すんべ」
「っすね」
そして同じ練習が続く。
そんな日々が毎日続いていた




