カッコウの歌
それを横目で窺う翔太。
「忘れていたんだよな、"あの人"の、昔からのクセ」
やがて空を仰いでしみじみ呟いた。
「クセ?」
今度は葵がその横顔を見つめる。
「涼さんのクセさ。学生の頃の記憶だから、すっかり忘れていたけど、あの人怒りを抑えきれないと、マズいな、ってぼそっと呟くんだ」
あの時の、涼の"マズいな"という台詞は、昔からの口癖だった。
普段は温厚な性格なのだが、本気で怒ると誰も手をつけられなくなる。
マズいというのはつまり、自分の理性を失いそうだ、そういう意味が籠められていた。
「ふーん、あの涼さんがね」
その内容は、葵にはにわかには信じられないようだ。
それもそうだろう。彼女は温厚な涼の姿しか見たことがない。対する涼も、ここ最近はそんな姿を見せたこともない。
「昔は凄かったんだぜ。野球部のキャプテン務めてたくせに、下手したら傷害事件で逮捕されんじゃねーのかってぐらいにさ」
だが学生時代の涼を知るものならば、それは紛れのない事実。
ルックスもよく、スポーツ万能、勉強だってそこそこ。
だが端からみて、一番特化していたのがケンカの腕前だ。
「へー、涼さんって野球部のキャプテンだったんだ」
「そうなんだよ。ウチの高校、県内じゃ名門の方でさ、あれでも甲子園目指していて、しかも本当に達成した」
「甲子園、それは凄いね」
「凄かったんだよ、あの頃は」
目を瞑れば今でも思い出す、学生時代の様々な出来事。
多くの仲間との楽しかったひとコマから、悔しさに満ちて涙を流したひとコマまで。
「特に志織が事故った時は、本気で怒っていたな……」
そしてしみじみと呟く。
涼の本当の激しさは熟知していた。
何故なら翔太自身が、その身に刻み込んでいたから。
『よくも志織をこんな目に遇わせたな』
そう言って殴られたことさえある。
結局それが引き金となって、涼は野球部を辞めることになるのだが。
あの穏やかな視線が、あれほど鋭さを帯びるなんて、誰だって思わないだろう。
あの火事場のとき、博史はその視線を誤って見てしまったのだろう。
だから視線を反らすことが出来なかった。
恐怖に震えて、怯えるしかなかった。
「事故ったって……志織さんって、確か涼さんの妹だよね」
その葵の一言ではっと我に返った。
「まぁあれだよ、涼さんが大袈裟なんだよ、大した怪我でもないのに、勘違いでムカついただけ。あのひと本当に妹思いだから」
実際涼は、妹である志織思いだ。もしかしたら、妹である志織に恋してたのかも知れない。
たぶんそれは、大人になった今でも変わらないだろう。
「それはなんとなく分かる気がするな。あの涼さんを見てれば」
頷く葵。
「志織さんって、翔太くんも知ってるんだよね?」
そして訊ねた。
「ああ、幼馴染だからさ」
答える翔太。
「あいつとも成人式以来会ってないな」
志織とも様々な思い出があった。懐かしいような、少しばかり青臭い思い出。
その思い出の大きさからいえば、もしかしたら涼よりも大きいかもしれない。
そんな風に思う翔太の横顔を、まじまじと覗き込む葵。
「もしかして、昔付き合っていた彼女だとか?」
はっとする翔太。
「冗談言わないでよ。マジでただの幼馴染。それ以上でもそれ以下でもない。……アニメのストーリーでもあるまいし」
慌てて全否定する。
実際そうだ、志織とは付き合ったことはない。中学高校と、別のクラスだったから、接触する機会も少なかったし、互いに付き合っている相手がいた。
もちろんそれだけで語れる存在ではなかったのも事実だが。
「そんなことより、葵ちゃんはどうして東京からここに来たの? 楽しい所じゃないじゃん」
ポリポリと後頭部を掻いて、話題を変える。
赤裸々な過去を異性に探られるのは、正直言って恥ずかしい。
「私ね大学時代、農業の実習して、食物の大切さを学んだのよ。大学を卒業して暫らくは市役所に勤めていたんだけど、やっぱり田舎暮らしがしたくて、一昨年の冬、こっちに越してきたのよ」
「へぇー、いまどき珍しいね」
煙草の紫煙が宙に舞う。
「あっ、もしかして今、おかしな女って思ったでしょ?」
「違うって、たったひとつ上なのに、しっかりした考えだなって思ったんだよ」
「でも、やっぱり来て正解だったわ。都会とは違って人は優しいし、毎日教わることがあって新鮮だし」
「そうかな、自然以外はなにもないだろ?」
「自然があれば満足じゃない」
「そんなものかな」
「そんなものだよ。近すぎて分からないだけ」
確かに近くにいると、分からない思いもある。
翔太にはそれが理解出来ないが、葵には理解できるということだろう。
「でもその為に、あっちに色々なもの残してきたんじゃないの?」
都会の暮らしを捨てて、田舎に引っ越してきたということは、それなりの覚悟と別れがあった筈。
様々なものを東京に置いてきた翔太とすれば、自身の思いも重ねていた。
「それはね……」
頷く葵。
一瞬の間がある。
どうやら翔太の台詞は、核心をついたようだ。葵としても思うところはあるのだろう。
「翔太くんは、残してきた彼女に未練があるの?」
「えっ?」
だが逆に質問されて、呆然自失に陥った。
返す言葉に困り、まだ吸ったばかりの長い煙草を空のペットボトルに投入する始末。
「いや、別に未練はないさ。……そんなものとっくに消した」
そして言葉を選んで伝える。
あの突然の連絡から数ヶ月。翔太もその件に関しては諦めようとしていた。
いや、正確には諦めざる得ない、というのが正直なところ。
それが今の台詞の意味合いだ。思い出したくないから、記憶の彼方に封印した、無理やり掻き消したという意味合い。
「そうだよね。消さなきゃ前に進めないんだから」
何故だろう、その葵の言葉のはしはしには痛々しさが感じられた。
両手で膝を抱え、頭をそこにうずめる。肩をぐっと右手で押さえて、自らに言い聞かせるような雰囲気。
人間生きていれば、様々な出来事を経験するだろう。
いい経験だったり、悪い経験だったりと多岐に渡る経験だ。
どんなに楽しかった思い出でも、時が過ぎれば悲しく思えるかもしれない。その逆に辛かった思い出も、後になれば笑い話になるかもしれない。
要はそれを整理する時間が必要ということ。
他人が親身になっても、本人でなければ解決出来ないことも多々ある。
これ以上、この話題はしない方がいいと、直感的に理解した。
「そうだよな、人は前に進むしか出来ない生き物だから。その為には婚活とかもありかもしれないな」
「えっ?」
その翔太の台詞を受けて、頭を上げて視線を向ける葵。
「ほら、この前の会津での一件。春樹の受け売りだけど、今はあれが流行りじゃん。昔の思いを引きずるよりも、新しい出逢いに期待しろ、って。だから葵ちゃんも、あれに参加したんだろ?」
そしてその問い掛けに、一瞬思考に耽る。
「うーん。現状は翔太くんと同じかなー」
「えっ?」
返ってきた葵の返答は意味深なものだ。
意味が判らず、きょとんとした表情を見せる翔太。
「そんな言い方じゃ、意味がわからないよね」
慌てて返す葵。
右手を目の前で振って、ごめんなさいというジェスチャーを送る。
「つまり翔太くんと一緒。知り合いに、気分転換で出てみないか、って誘われて参加したの。翔太くんもそうだったんでしょ? 陽一さんと、そんな会話してるのを聞いたから」
どうやら葵は、あの時のサービスエリアで、陽一との会話を聞いていたようだ。
「確かに同じだな」
気恥ずかしさを覚え、紅潮する翔太。
新たな煙草をくわえて火を点ける。
確かにある意味では自分と同じだ。つまり結婚には興味ない、そういう意味合い。
「だけど傑作だよね。『たまには旅行とか行って、リフレッシュしろ』って知り合いの人が手配してくれたのが、あの婚活なんだもん。旅行と婚活じゃ別物だよね」
それでも葵は意に介さない。思い出したように苦笑するだけ。
「だけど、あれはあれで良かったなー。鶴ヶ城や飯盛山が見れたし」
それでも嫌味からの台詞ではなかった。
その知り合いに敬意を払った、爽やかな笑顔を見せる。
「そうだよな。俺だって最初は乗り気じゃなかったけど、久々に鶴ヶ城見れて良かったもん」
それにつられて翔太も笑う。
「だけどこんな話、本気で婚活してた人には悪いよね」
「確かにそれは言えてる」
こうして二人、どちらともなく土手に寝そべる。
辺りにはハコベラやクローバーといった雑草が自生している。
そのひんやりとした、それでも妙に心地よい感触が、肌を通して伝わってくる。
「だけどさ、次の、新しい恋はしないの?」
「どうかなー。今は恋をする気にはならないな」
「そうか」
こうして二人並んで空を見上げる。
「空が青いね」
「なにもない田舎だけどさ、福島にはほんとうの空があるから」
「智恵子抄ね。昔ならったな」
「ここからじゃ安達太良山は見えないけどね」
すーっと吹き込む風が、田んぼの水面に紋様を刻む。
うららかな陽差し、ゆっくりと流れる雲、山々の緑が色鮮やか。
遠く森の方から響き渡る、カッコウの鳴き声。
今はたどたどしいそのメロディーだが、季節が過ぎれば絶妙なコーラスを奏でるだろう。
摂氏一万度の英雄たち
第三章~終わり




