田園風景の中で
季節は緑 映える初夏へと、移り変わっていた。
五月晴れの支配する田園地帯には、多くの人々が溢れていた。
それは田植え風景、この時期の田舎の風物詩とも呼べる光景だ。
遥か天空を一羽の鳥が飛翔している。ピロロローーと長閑な響き。
八幡神社一本杉に巣くうトンビだ。今年も雛の育成が始まったようだ。
「ふぁー、やってられねぇな」
ぶつくさ呟きながら、軽トラックから降りたつ翔太。髪をぐしゃぐしゃ掻きまわし、ふぁーっと大あくびを掻く。
肩にタオルを引っ掛け、長袖シャツにニッカポッカ姿。足にはゴム長。
翔太の家も、昔から米作りを行っていた。
現在こそ半分の田んぼを他人に貸しているが、残り半分、農協に出荷して、家族三人が食べていける量の米は作っている。
「なんだ翔太、これぐれぇで音をあげててたら、農家なんてつとまらねーぇべ」
田植え機を操作しながら言い放つ父親。
「農家なんやんねーよ。金になんねぇべよこんなこと。買って食った方が安上がりだって」
翔太はぼやきつつ、軽トラックの荷台から苗床を下ろす。
「メシは自家製が一番だべ。愛情こめた米は買っては食えねーぞ」
「またそれだ……」
そう言い返されるとは分かっていた。
米の美味さは、その手間ひまをかけた時間による。
たねもみから育て上げ、その苗を田んぼに植え付けて、肥料をやって雑草をとって。
稲刈りしてはせ掛けして、脱穀して精米して、それでやっと食卓にあがる。
特にはせ掛けした米の味は別格だ。太陽の恵みを凝縮したような、口いっぱいの甘さを感じる。
コンバインで刈り取ったものとは全然違う。こちらは機械による強制乾燥だから。
自家製だがらこそ、それは特に感じる。
しかし手間の割には、利益にならない。米にかける時間を給料換算すれば、時給何十円。学生のバイトの方が割がいい。
しかも日本人の米離れは進む一方。国庫米は毎年残り、需要と供給のバランスは崩れる一方。
それでも農家は、せっせと米作りをする。『田んぼを荒らしておく農家なんて、農家じゃねー』と金にもならない仕事に精をだす。
そんなもの農家の息子としたら、足枷に他ならない。自給率アップを掲げた、政府の思惑に踊らされているだけだ。
百姓は殺すな、生かして飼い慣らせ。江戸時代から続く、悪しき風習だ。
しかしそんな話を親にしても、『怠ける為の屁理屈だべ』そう言われるのが関の山。世の中の仕組みを理解してない。
理解して貰えない以上、それ以上の理論武装も出来ない。
故に実家で暮らしている以上、手伝わない訳にも行かない。
反論することを諦めて、苗床を田んぼの周りに並べていく。
軽トラに載せられた苗床を全て降ろすと、煙草に火を点けて、ひと息入れる。軽トラの荷台に背を預けて、煙を吐き出す。
目の前は田んぼだ。振り返っても田んぼ、右を向いても左を向いても田んぼ。田んぼばっかり。
それを遮るのは連なる山々。草木が芽吹いて新緑が萌えている。どこを向いても緑ばかり。
改めてド田舎ぶりを痛感する。
辺りの田んぼでも、近所の人々が田植え作業を進めていた。
「こんなモンでいいだろ?」
「まぁ、百点には程遠いがな」
その中には涼と陽一の姿もあった。田植え機を操作する陽一を涼が指導している。
陽一は翔太程ではないが、農業の素人だ。それを手馴れた涼が指導しているらしい。
あれ以降、涼は翔太を咎めることはなかった。それは陽一にしても同じ。
翔太の足の具合も、快方に向かっている。歩くのには支障はない。
……あの時の涼の眼光の鋭さは、今でも覚えてる。
いや、元々知っている。あの優しい笑顔の裏に隠された、気性の荒さは。
宗則が織田信長だとすれば、涼は徳川家康。見た目以上の存在性がそこにはあるから……
「良夫さーん、悪いんですけど苗とか残ってないでしょうか?」
遠くの方から誰かの声がした。
「苗だって?」
父親がそれに呼応して視線を向ける。因みに良夫とは翔太の父親の名だ。
その声には翔太も聞き覚えがあった。何気に視線を向けた。
「あれ?」
薄紅色のジャージを着込んで、むぎわら帽を首に掛けた女。大野葵だった。
葵の視線が翔太に向けられる。
「翔太くん?」
束の間の沈黙。
天空ではトンビが、ピロロローー、と優雅に飛翔してる。
葵の視線が翔太と父親、二つの間を行き交う。
「もしかして良夫さんの息子って、翔太くんだったの?」
合点が言ったか、葵が言った。
「まあ、そこにいる親父の息子だけど」
しかし翔太の方は、まだ意味が分からない。
「私、良夫さんから田んぼを借りてるのよ」
それを察してか、葵が言った。
「マジか……」
その返答で翔太は初めて知った。翔太の家の田んぼを借りているのが、葵だということを。
そもそも農家なんて全然興味はない。だから誰に貸してるとか、そんなことは気にもしたことはなかった。
その二人の様子を、父親が食い入るように窺っている。
「お前ら知り合いだったのか?」
そしてにやけながら訊ねた。
「ただの知り合いだよ」
慌てて答える翔太。ポリポリと後頭部を掻く。
あらぬ噂で、食卓を賑わす気はさらさらない。
「良夫さん、『息子が手伝いをしない』ってぼやいていたけど、今日は手伝っているのね」
「そうだぞ、去年の稲刈りだっておめぇー、手伝わねぇーがったしよ。葵ちゃんなんか、ひとりで頑張ってたのに」
「そんなことありませんよ。私のほうは規模が小さいから」
「だげんちょ、その分美味い米食えたべ」
「はい、おかげさまで」
その翔太の思いを知ってか知らずか、葵と父親の会話は弾む一方。
こうなると翔太は蚊帳の外。
「ドラ息子だべ?」
「そうですねドラ息子です」
遂には二人仲良く、翔太の悪口を言う始末。
紅潮する翔太。
「違うって、去年は出張だったんだって!」
堪らず叫んだ。
「あはは、だったら仕方ないよね」
「へっへへ、このどら息子が」
葵と父親の笑い声が響く。返す言葉に困る翔太。益々紅潮するだけだ。
「それはそうと葵ちゃん、植える苗がねぇーのか?」
父親が改まって訊ねた。
「ええけっこう枯れちゃって、十枚程足りないんです」
田植えは通常、直接田んぼに種を蒔くのではなく、苗床などに個別に蒔いて、ハウスで栽培して、ある程度大きくなるまで育てる。
それには徹底した管理が必要だ。多くの水と適度な温度、なおかつ適度な風通しも必要。
「水をくれんの少なかったんだべ。いいぞ、くっちぇやる」
父親はそれを理解し、アッサリと言い放つ。
「いいんですか? ありがとうございます」
葵が頭を垂れた。
その様子をうんうんと頷き見つめる父親。
「翔太、こっちは下ろした分で足りっから、残りの苗を運んでやれや。それとついでだがら手伝ってやれや。二人なら手植えでも昼前には終っぺ」
そして翔太に向き直り伝えた。
「……手、手植え!?」
その台詞に愕然となる翔太。
翔太の家の田んぼの苗は、田植え機で植えたものだ。
田植え機なら機械にセットすれば、一度に多くの苗がきれいに植えられるし、仕事も速い。
だが手植えなら話は別だ。一度に多くは植えられないし、なにより腰を曲げて作業しなくてはならず大変な作業。
「いいんですよ。苗を貰って、そのうえ手伝って貰うなんて出来ないから」
葵が手を振り、申し訳なさそうに伝える。
「いや、別にかまわないって、手伝うさ。今どき手植えってのが、びっくりしただけだから」
慌てて返す翔太。かまわないことはなかった、正直苦痛だ。
それでも葵の手前、断ることは出来なかった。
「本当に?」
「気にしないでいいぜ。どうせ俺んちは、これで終わりだし。たまには古き良き農業をするのも悪くない」
「ごめんね、忙しいのに」
「いいって。そうと決まればやるのみ。葵ちゃんの田んぼって……」
「あの川沿いにある一枚です」
「ああ、あそこな」
農業に興味のない翔太でも、自分の家の田んぼの場所は理解してる。
「じゃあ葵ちゃんはそこで待っててよ」
軽トラに乗り込んで、煙草を灰皿に揉み消す。
「苗を積んだら、すぐに行くからさ」
「うん」
そして軽トラを走らせた。