彼の中のヒーロー
「なんだべ、あのやろー」
「お兄ちゃん……」
吉田と幼子も、身動きするのも忘れてその様子を見つめている。
まさしくあり得ない状況だった。
離れは木造の古いもの。隙間から煙が流れ込み、それを伝って炎も押し寄せてくる。
こんな情況で中に飛び込むなど、普通なら考えられない。いや、考える筈がない。
「なんなんですか、あの人?」
もちろん一番衝撃を受けていたのは淳平だった。
涼の指令を受けて、新人である翔太を従えて、黙々と作業に徹していた。
細心の注意をして、幼子の動きにも注意を払っていた。
それなのに新人とはいえ団員、自分より歳上の翔太が、炎の中に飛び込むなんて、常識じゃ考えられなかった。
両手で口元を押さえ、あたふたと左右に歩き回り、祈る様に離れの中を見つめる。
もちろんその事実は、他の者達も知るところになる。
「なんの騒ぎだ!?」
「中に人が飛び込んだってよ!」
「嘘だろ、どこの団員だ!」
「五部の奴、宗則んとこの新兵だ!」
あちこちから怒号が響き渡る。
「炎の中に、翔太が飛び込んだって?」
叫んだのは陽一だった。
陽一は他の部の団員と、別の場所で放水活動をしていた。
パートナーを務めるのは、歳下の細身の青年。
「だったら放水しねーど!」
「陽一さん!?」
戸惑うパートナーを余所に、筒先の向きを変えて、離れ部分に狙いを定める。
「陽一、なに考えてんだ! そんだけの圧かけて、水なんかぶっ掛けたら、もっと酷いことになるぞ!」
すかさず響く宗則の怒号。
確かにそれは言えてる。水圧は目一杯。サッカーボールぐらいの石でも、軽々吹き飛ばす程の威力だ。
それの直撃も脅威だが、それ以上の脅威もある。
離れ部分は、ほぼ廃屋と化している。歪んだ窓枠、ヒビの入ったガラス、それらも水圧で一緒に吹き飛ぶ。
もしそれが翔太に直撃したら……
「ちっ!」
それを察して、陽一も身動きを止める。
しかしポンプで増幅した水の勢いは、簡単には収まらない。
「クソッたれ!」
身体を地面に押し倒し、ホースの先をくの字に折り曲げる。
全体重をかけて、水流を遮断する。それで水の流れが、強制的に止まった。
「涼、一旦水圧下げろ! 不測の事態に備えて緊急配置、誰も後を追うんじゃねーぞ!」
宗則の叫びが、夜空に響き渡った。
既にギブリはなりを潜めていた。
突然発生したフラッシュオーバーは、母屋の半分を吹き飛ばし、半分を炭になるまで嘗め尽くし、いつの間にか空に消えていた。
迅速な宗則達の消火活動が、それを可能にしていたのだ。
残された炎はあと僅か。離れの半分に潜むだけ。
「翔太さん……」
淳平はパニック状態にあった。
指示していたのは淳平だ。これは責任問題。
いや、それより不安なのは翔太のこと。怪我ぐらいて済めばいいが、命にも関わることだ。
「なにしてんだ。出てくるだけなら、時間なんかかかんねーだろ」
同じく博史も不安気な表情。
祈るような時間が続く。
翔太が飛び込んでから数分。それでも他の面々からすれば永く感じる。
宗則、及び上部の指令で、翔太を助けに入ることは禁じられていた。それが、更なる悲劇を呼ぶ恐れがあるから。
誰もがそれぞれ作業に取り掛かりながら、固唾を飲んで翔太の無事を祈る。
ガシャーン! ガラスが窓枠ごと蹴破られた。
「危ねー危ねー!」
同時に中から、翔太が飛び出してきた。
「……翔太さん」
呆然とそれを見つめる淳平。
色々あり過ぎて、頭はテンパったまま。どう対処していいのか分からず、暫し呆然と様子を見つめる。
それは博史を始め、他の連中も同じ状態。かける言葉が見つからず、呆然としている。
幸い翔太は無傷なようだ。顔も身体も煤で真っ黒だが、平然とした表情。
ケホケホと右拳を当てて咳をしてるが、呼吸も問題ないようだ。首筋に巻くのは、淳平が貸した濡れタオル。どうやらうまく使ったらしい。
呆然と見つめる人々を他所に、キョロキョロと辺りを窺っている。
「おっと、お嬢ちゃん」
そして幼子の姿を認め、すたすた歩きだす。
「お兄ちゃん……」
幼子も呆然とした表情だ。目を丸くして翔太を見つめている。
翔太がその腕に抱きかかえるのは、真っ赤なランドセル。
それを認め、幼子の表情が煌めく。
「あたしのランドセル!」
吉田の腕を振り払い、翔太に向かって駆け出した。
そしてしゃがみ込む翔太から、ランドセルを受け取った。
「今年から小学生なんだろ。ランドセルは大切だもんな。一応教科書とかも必要だろうから、ある本全部詰め込んだんだけどな」
鼻頭を擦る翔太。
飛び込んだ目的は、このランドセルだったようだ。
その過程で教科書などを見つけ、それを回収するのに時間が掛かっていたらしい。
「うん、うん!」
ランドセルを抱きかかえ、無邪気な笑顔を見せる幼子。
「俺も昔は大切だったからな」
呼応して翔太も笑う。
「入学前だってのに、よく志織と一緒にランドセル背負って遊んで、親父にこっぴどく怒られたもんだ」
「……単なるランドセル?」
その様子を見つめ、ぼそりと呟く淳平。
「相変わらず激しいっすね。見てる方が冷や冷やモンすよ」
博史が言った。
「激しいって、いつの話だ?」
「高校生の頃っす。もっともそんな翔太さんが、カッコいいんすけど」
和やかに言い放ち、煙草に火を点けた。
「昔の話はよせ。しかもカッコいいとかそんな……」
言って翔太は、はっとしたよう周りを見回した。
いつの間にか、その周りには、多くの近所の住人が集まっていた。
「たいしたもんだ、まったく」
「ランドセルの為に、あの中に飛び込むなんて勇気あるぞ」
「本当だわ。うちの子にも見習わせたい程よ」
そして響びき渡る、多くの歓声と拍手。
誰もが、自らの身を呈してランドセルを取りに飛び込んだ、翔太の勇気を絶賛していた。
少なくとも幼子には、英雄に見えているだろう。
他からすれば、単なるランドセルでも、本人からすれば宝物だから。
「いや、俺はその……」
それが翔太には、照れ臭く感じたのだろう。和やかな視線を向けて、後頭部を押さえている。
その様子を、淳平は様々な感情を内に秘めて見ていた。
確かに助かったとはいえ、無謀な行為だ。
おそらくカッコよく見せようとか、勇気を振り絞るとか、そんなことを考える余裕はなかっただろう。
まだ大丈夫と判断し、単に身体が動いた結果だろう。
少なくとも淳平には、これと同じ真似なんか出来ない。
それだけに少しだけ、翔太の行動力に感服していた。
いや、それ以前に……
「翔太さん、心配したんですよ!」
込み上げる感情を押さえきれず、翔太に歩み寄った。
「熱いです、英雄みたいだ」
そしてその胸に、両手で抱き付く。
「おいおい、淳平。なんだよヒーローって?」
困惑する翔太だが、それさえも淳平は気にしない。
「なんで泣いてんだよ。ちょっと、鼻水付くって」
「無事で良かったですぅー」
淳平にとっての英雄は、いくらいてもいいから。
辺りを包み込む、沢山の拍手と歓声。それこそが英雄の証だから……
そこは熱い風が吹き抜け、光と爆音、怒号と悲鳴が飛び交う、紅蓮の火事場。
炎は意志を持って荒れ狂い、英雄達の熱い情熱と激突する。
その体感温度は摂氏一万度。太陽さえ凌ぐ一番熱い場所だ……
「淳平、そこを退け!」
「きゃっ?」
突然、淳平の襟首がむんずと掴み取られた。
その小柄な身体が、別の力で後ろに引き下げられた。成す術なくよたよたと後退り、しりもちを付く。
翔太の姿を遮るように、代わって現れたのは雄大な背中だ。
銀色のジュラルミン、炎に照らされ赤く染まっている。
「てめー、なんてことしてんだ!」
そして翔太の頬に、思い切り拳をぶちこんだ。
その身体が、勢いよく数メートル後方に吹き飛ぶ。
「浮かれてんじゃねー! 現実を弁えろ!」
地面にしりもちをつき、声もなく右に視線を向ける翔太。
おそらくその台詞は、翔太だけでなく、他の人々にも向けられていた。
誰もが、いま置かれた現実に向き直り、恐怖に青ざめる。
やけに熱い。肌を刺す熱さもそうだが、心の奥底まで熱い。
耳をつんざくのは、バキバキとした不快な響き。
視線に映るのは、真っ赤な炎と、灰塵と化した黒い物体。
それらが、一緒くたとなって、引力に引き込まれるように、ゆっくりと落下していく。
やがて響き渡る大轟音。辺りが再び真っ赤に染まる。
あまりもの衝撃に、誰もが息をするのも忘れていた。