田舎の夜
深く青い、コバルトブルーの絵の具で塗りたくったような夜空が広がっていた。
田舎の夜はとても静かで、どこまでも同じ光景が続いている。
いつも通りの日常、当たり前の平和がそこにはある。
しかし住宅街の一角、その場所だけは少し違った光景が広がっていた。
夜中だというのに多くの人々が集まっている。都会と違って、その光景は異様に思えた。
辺りには赤い特殊車両が幾多と連なり、赤い輝きを放っている。それに照らされてその場の全てが赤く染まる。
かなり蒸し暑く感じるのは、なにも残暑のせいだけではないだろう。
鼻に突くのは焼け焦げた臭い、かすかに立ち昇る煙、パチパチとなにか弾けるような音が響く。
県道が大渋滞していたのも納得できた。
路地には延々と白いホースが張り巡らされている。これらのせいで近辺を交通規制していたからだ。
そういえば一時間ほど前、火災を知らせる広報無線があったのを思い出した。
つまり火災だ。その現場がこの場所だったのだ。
火災にあった家屋は、通路に並列して建てられていた。
家屋は炎にしゃぶり尽くされた後のようで、ほぼ黒ずみと化し、その体を成していない。
前方はガラスサッシで目隠しされて、その内部は窺い知ることはできない。
それでも炎は、チラチラとその赤い姿を現している。上へ上へとよじ登り、空に向かって吹き出していた。
そしてそれらと対峙するのは、消火活動をする男達。
黒い法被にヘルメット姿の男達だ。中には銀色の耐熱服を着込んだ者も見受けられる。
それぞれ消火ホースの先を小脇に抱えて、いまだにくすぶる炎と対峙していた。
炎とパトランプに照らされて紅蓮に染まる耐熱服、明らかに消防署隊員とは違った。
何故だろう、その中のひとりに視線を奪われた。
威風堂々たるその背中、他を圧倒する気迫を感じる。時おり横に視線を向けて、パートナーの男となにやら会話する。
夜空を包む暗黒の闇とパトランプの放つ赤い輝きで、その表情は読み取れない。
それでも何故か、余裕の笑みを浮かべている気がした。
パパー、クラクションが鳴り響いた。
「ここは交通規制してます」
誘導係している男が言った。
「うるせー、急いでんだ!」
ムカつくような声と共に、規制線を突破して、一台の車が進入してくる。
怪訝そうに睨みを利かす人々などお構い無しに、並べられたホースに乗り上げる。
「ちっ、邪魔だな」
小刻みにアクセルを吹かし、それを乗り越えようとするがうまくいかない。
空ぶかしして、対面の人々を轢いてしまいそうな怖ささえ感じる。
「ふざけた外道だ」
誰かが言った。それは先程の男。
抱えるホースをパートナーに渡すと、ゆらゆらと歩きだす。
一方の運転手はそれには気付かない。運転席窓から顔を出して、通路を通り抜けようと一心不乱に車を動かしている。
「悪いけど、ここは進入禁止なんだよ」
男がそのドアを掴み、車の動きを制する。
「ここは俺らが仕切ってんだ。それには従ってもらおう」
例え相手が誰だろうと勝手は許さない、そんな気迫に満ちた台詞だ。
「俺ひとりぐらいいいべや。消防団ふぜいが生意気だな」
その腕を運転手が押し払う。
「ふぜいで悪かったな。だが、たったひとりだろうと許す訳にはいかないんだ。それを許せば後が大変だからな」
「なんだと?」
こうして二人、無言で睨み合う。
暫しの沈黙、男に呼応するようにその仲間が後方に立ち尽くす。
ガシャーン、音が響いた。
その場の誰もが視線を向ける。
民家のガラスサッシが割れて、赤い炎が吹き出している。
そしてそれは一瞬の出来事だった。
ズドーン!
響き渡る轟音、目の前が赤い光で幻惑される。次いでガラガラと耳障りな雑音が響いた。
閉じ込められていた炎が、空気と合わさって一気に爆発炎上したのだ。
幾多の瓦礫を吹き飛ばし、道路を業火で染め抜く。
「バックドラフトだ!」
「火元を潰せ!」
多くの怒号が飛び交う。
男達がホースを向けて、一斉に放水する。
「クソッ、生き返ったか」
男が言った。運転手の拘束を解いて、すかさず走り出す。
「なんとしても消せ! 延焼だけは阻止しろ!」
再びパートナーの元に駆けつけて、一心不乱に消火活動に勤しむ。
幸いにも炎の勢いは、それまでだった。
さっきの爆発的発火で、炎ごと吹き飛んだようだ。
戸惑いと恐怖、困惑はあるが、負傷者もいないようだ。
おそらく予めそれを予見して、この近辺に規制線を張っていたのだろう。
その様子を、運転手は愕然と窺っていた。
このまま車を走らせていたら、あの炎に巻かれていたかもしれない。そんな漠然とした思いに駆られているようだ。
「回避して貰えますよね」
誘導係が言った。
「……ああ」
抑揚なく言い放つ運転手。
先程までと違い、従順な態度だ。自らの行いを反省しているのだろう。
誘導係の指示に従い、車をバックさせてその場から消えて行った。
こうして場は元通りの平穏を取り戻した。
男達は消火活動に戻り、野次馬達が様々な会話を繰り出す。
あの男の完全勝利だった。場の状況を的確に判断し、次への予見も万端だった。
もちろんその程度の予測、その道のプロなら容易いことだろう。場数を踏んだ経験値が、それをなすだろうから。
問題はそれを経験値として、実戦できるかということ。普通なら躊躇してしまう行為だ。
躊躇して、そんな大胆な台詞を言うことはない。
つまりあの男は、現実を直視する頭脳を持ちながら、それを行う大胆さも持っているということ……
「そんなの、いつまで見てんだって」
聞き覚えのある声がする。
はっと我に返り、後ろに視線を向ける。
路地の奥の方で、茶髪の男が立ち構えていた。さっきまで一緒に行動していた仲間だ。
「わりぃな」
野次馬の群れを掻き分けて、その方向に歩きだす。
「野次馬根性まるだしだな。火事なんて見てもつまんねーべ?」
歩み寄ると茶髪が言った。
「そういう問題か?」
「そういう問題だべ。しかし消防団は大変だな、夜中だってのにサイレンに呼ばっちぇ出動だもんな」
時刻は午後の十時を過ぎていた。明日は日曜日、多くの人々は休みだろう。
普通に考えれば週末のひと時は、家族水入らずで過ごすか仲間と酒でも楽しんでいる時間だ。
「本当だよな。ご苦労過ぎるよ」
そんな風に思いながら、茶髪と共に目的の場所に歩きだす。
火事のあった住宅街を抜けると、同じ通りでも景色が一変する。
居酒屋のネオンが華やかに灯り、傍らの店からはカラオケの音や客の楽しげな声が飛び込んでくる。
「お前が歓迎会を開いてくれるなんて、マジで嬉しいよ。明日雨でも降られたら迷惑だけどな」
「おめーそれは嫌味だぞ」
こうして二人、ガヤガヤした会話と共に歩きだす。
数メートル歩くと目的の店があった。
向かって右側に建つ小さな店だ。蛍、と書かれたネオンが見える。
「カズヒロ達も来てんだべ?」
「来てんべ。一次会終わったと思ったら、真っ先に走ってったがらな。あのやろー、女にゃ見境ねーからな」
「違いねー」
店の内部からはカラオケの音色がうっすらと漏れ響いている。それがなんの曲なのかは判らない。
「二次会は気合い入れていくべ」
「おめーが出戻りした、祝いだがらな」
そして二人、互いに目配せして店の扉を開いた。
大音量のカラオケの音色と共に、壊れたバイオリンのような歌声が耳に飛び込む。曲はロマン飛行だった。
「あら、ハルちゃんいらっしゃい。お友達が待ってるわよ」
ママらしき三十代の女が二人を歓迎して迎え入れる。
「んー、やっと来た」
仲間の声が響く。
店内一番手前のボックス席にそれはあった。
同席しているのは二人の若い女。実際可愛い子だ。想像してたよりは上のクラス。
「どうよかなりなモンたべ、田舎娘もな」
「オッケーだよ、都会の女より可愛いって」
こうして二人、意気揚々と店内に足を踏み入れる。
先程の光景は、脳裏から消し飛んでいた。