狂ってしまった僕らの世界
10年前、当時付き合っていた恋人が突然”地球の公転周期が狂っている”と言いだした。教室にある開け放たれた窓から入り込んだ熱い風が彼女の髪を揺らして、窓の外から必死なほどのセミの声が聞こえてきた。
「公転周期?」
僕は彼女に尋ねた。
「そう。公転周期。地球が太陽を1周するのにかかる時間。私たちにとっての1年」
彼女は天文部の部長だった。彼女は夜な夜なバロック建築を彷彿とさせる自宅から抜け出しては秋葉山で天体観測を行っていた。僕は天文部の部員として真夏の夜中に天体観測について行った。天体観測を始めると彼女は必ずノートを取り出して望遠鏡を覗きながら学者か何かの様にメモをしていた。
「そっか。中学生の時に理科で習った気がする」
僕は夕日に照らされて真っ赤に燃える彼女のことを見上げながら答えた。
「あなたは閏年って知ってるかしら?」
「うん。部長の誕生日だよね?」
閏年、2月29日は彼女の誕生日だった。天文部の見学へ行った時に挨拶をするよりも早く言われたことだった。
「違うわ」
険しい顔つきで彼女が答えた。
彼女と付き合う様になってからこういう事はよくあった。夏の大三角形、ブラックホール、ダークマター、おおぐま座、天文の話になると彼女は度々こうなった。僕は黙って彼女の言葉を待つことにした。
「本当は1年って365日と6時間あるの。閏年はその6時間分の公転周期のズレを補正するためのシステムよ」
彼女はシステムだと言っていた。
彼女は真剣だったけど、当時の僕にとっては公転周期とか閏年とかシステムの話よりも今週末のデートの方がよっぽど重要なトピックだった。僕は黙って視線を彼女から目の前にある黒板に向けた。
しばらくの間、彼女も僕も視線を自分の前のものに集中していた。何分経ったのかは定かじゃないけど、僕がぼんやりと黒板を見つめていると彼女が僕の頭を軽く叩いた。僕が彼女の方を見た時には彼女はすでにドアの方へと歩いていて、僕は急いでカバンを握りしめ彼女の後を追いかけた。
ここで、僕は夢から覚めた。随分と懐かしい夢だった。
懐かしい夢から目覚めた僕がはじめに感じたのは部屋のきつい寒さだった。僕の吐いた息は白く染まり、今が冬である事を僕に理解させた。マントのようにして毛布にくるまりながら僕は立ち上がる。冷たいフローリングの床が僕の足から体温を奪い去る。僕は寒さで震えた。震える体をいなしながら僕は一歩づつ窓に近づく。そして、窓を開けた。ベランダから流れ込んできた外気は部屋の温度とは比べものいならないほど低く僕は一層激しく震えた。ベンランダにそっと足を下ろす。コンクリートで作られたベランダは部屋のフローリングよりも冷たかった。僕はベランダから周囲の景色を見回してみた。周囲は一面が白色で昨晩のうちに雪が降り積もったのがわかった。ベランダは物音一つしない凜とした静寂に包まれていた。今日は2025年の8月19日。
僕はベランダから部屋に戻り窓を手早く締める。クーラーの暖房をすぐにつけてついでにテレビもつけた。テレビではまるで何事もなかったかのように今日の天気について話していた。どうやら、今日は晴れ時々雪らしい。傘を忘れないようにとお天気キャスターのお姉さんが言っていた。テレビに映る時刻が7:30に変わる。僕は立ち上がり備え付けの衣装箪笥からスーツを取り出して出社の支度をした。当然だけど、ジャケットの上にはダウンコートを着込むしマフラーもつける。勿論、手袋も忘れない。
支度終えて僕は玄関に向かった。靴下を履いていてもフローリングの冷たさは僕の足を通して伝わってきた。玄関に置いてあるビジネスバッグを持った僕は忘れ物がないか部屋を振り返った。部屋は伽藍堂で備え付けのベッドと棚の上のテレビとテーブル以外に物はなかった。忘れ物はないようだった。
僕は前を向いてドアを開けた。解放したドアから外気が入り込んできて僕の顔から血の気が引いた。僕は外に出てドアの鍵穴に鍵を差し込む。僕が差し込んだ鍵を回すとガチャリと重低音がして施錠された事がわかった。遠くから子供達の声が聞こえてくる。
どうやら僕たちの世界の公転周期は本当に狂ってしまったようだった。
閏年を題材に短編を書いてみました。
読んでくださった人が楽しんでいただけたら幸いです。




