森鴎外について考へる
森鴎外の作品が好きだと言うと、
「知識人ぶってるんじゃないよ」
などと笑われたりする。
逆に、森鴎外を読めない人をバカにしたりすることもある。
文学作品の感想で、人間の品格における上下など決まらないので、そういうことを必死にやらなくても良いのであります。
ただ、このことは、現代でも通用するのが森鴎外だと言えるのかもしれない。
森鴎外の最たる特徴は、
『文学の人間ではなく、技術者であった』
ということでしょう。
森鴎外の作品は、非常に明晰な文体で、人によってはそれが読みにくい。どうも、とりつく島も無いように感じる。
私は、
「明治の人間だなぁ」
という感想を抱きます。
明治期の人間は「士道精神」とも呼べるようなものを宿しているものがある。これの対義語は『人間臭さ』になるんじゃないか。そう思えるほど、「サムライ」というのは抽象的であります。
夏目漱石が、『やせ我慢』に『やせ我慢』を重ねたようなものです。
森鴎外と夏目漱石の決定的な違いは、
『医者として士族を見ていた』森鴎外
『士族であった』夏目漱石
ということでしょう。
森鴎外は『士族』というのを客観的な立場で見ていました。時には、従軍し、命を看ることもあった。明治期の戦争は、日清戦争と日露戦争であります。
まだ、この時は『人間による戦争』でありました。
今の世界大戦や、国内紛争やテロリズムとは事情が異なります。
戦国絵巻の戦争。
どうも、そういう感じだったんじゃないか。私は、そう思っております。
かなりニュアンス的なもので、伝わらない可能性が高い。自分自身、ただ書いてるなぁ、という気持ちがある。ご容赦頂きたい。
近代日本文学は夏目漱石の
『日本的な文学を樹立せねばならない』
という切羽詰まった感情、強迫観念のようなものがありました。
それを、森鴎外が『論理』という技術をもって、近代日本文学を『裏打ち』していく。
この状況が、なんとも歴史を感じさせてくれます。
『士族たる夏目漱石』が、必死になって戦う。
『医者たる森鴎外』が、それを支援する。
戦国時代の絵巻物みたいじゃないか。
この時の、日本文学史は、そういう独特の雰囲気を持っている。『俳句』に目を向ければ、正岡子規が命がけで戦っている。
何故、こういう状況なのか。
それは『世界の近代国家』に対して、
「日本だって『近代国家』なんだ。決して、お前たちの植民地ではない!」
と、『やせ我慢』をしているのであります。
新渡戸稲造も、その援護に駆けつけてくれました。
明治は、現代では『非日本的』とも言えますね。
しかし、当時の日本人たちは、
『日本とは、こういう国だ』
ということを思って行動していた。
本当に、良くやってくれました。
森鴎外の作品論を全然してませんが、これは、『明治とはどういう時代だったのか』という視点や要素を持っていないと把握できない。
森鴎外については、
『技術者として、近代日本文学を支えた』
という理解で、ひとまず置いときます。
森鴎外は日本文学史で未来にも関わってきます。
三島由紀夫。
三島由紀夫における理想的男性像、あるいは理想の作家像が森鴎外であった。
そう評する者もいますね。
つまり、森鴎外の影響なくして、日本文学の盛り上がりはなかった。
それほどのものです。
森鴎外の作品を感覚的に捉えると、『医療ドラマ』を楽しむようなものかな、と思います。
『日本語』というメスを持って、『作品』や『テーマ』という病気を治療する。
一風変わった緊迫感を、私は感じます。
森鴎外は医者としても優れてました。
『脚気』問題で、
「白米を兵士に食べさせたかった」
という心情を、私は尊敬します。
今でこそ、白米は誰でも食べられますが、当時はそうではなかった。
森鴎外が単なる『理論家』ではないのが、きちんと兵士の心情を考慮したところから分かります。
明治は、本当に遠くなった。
国家全体や国民が貧困でいるのに、不思議と楽天的な国家でありました。