人形と一緒に
「ただいま」
と朝野京子は自宅アパートに帰ってきた。中に入ると空気が変わった。重くて湿っぽく、暑い。十秒ほどドアを閉めずに空気を逃がした。
玄関は真っ暗で足の踏み場も分からないほどだが、ドアを開け放しているリビングから奥の部屋にかけて、徐々に明るくなっている。明かりは点いていないのだが、カーテンをしていない寝室の窓から街灯の光が差しこんでいるのだ。
「待っててね。今行くからね」
寝室の向こうを一秒も見逃さないように見つめながら、靴を乱暴に脱ぐ。視線の先には、ぼんやりと人の頭の輪郭が浮かんでいる。玄関から見るとそれは小さく、山脈のように連なっている。手探りでリビングの明かりを点けた。
バッグや上着やスカートを脱ぎ散らかして、早足でベッドの置いてある部屋へ急ぐ。明かりのひもを引っ張り、
「ただいま〜。みんな、ごめんね。今日は仕事で遅くなっちゃって。待ったでしょ? 今からご飯つくってお風呂沸かすから、もうちょっとの辛抱ね」へへっと笑うと、順番に頭をなでていった。
「千草〜。そんなにすねないでよ。お姉ちゃん泣いちゃうじゃない。寂しかったのは知ってる。誰よりも、わたしが知ってる。いっぱい甘えさせてあげる。だからね、笑顔を見せて。千草の笑顔がわたしを幸せにするの。……ああ、可愛い! そう、そうよ。その顔が好き。お姉ちゃん、大好き!
……あ、ゴメン! 春美、もちろんあなたのことも好きよ。愛してる。みんな一緒に大好きなの。優劣なんてない。分かった。明日は一番になでてあげる。それで許して。ねっ?
理沙。さすが、みんなのお姉さんね。いつも冷静で優しくて、妹たちのことをよく見ててくれてる。でもね、わたしにはいくら甘えてもいいの。わたしには、弱い所を見せてもいい。だって、理沙はわたしの妹なんだから。今日もがんばったね」
みんなにただいまのあいさつを済ませると、そのままの格好で晩ご飯作りを始めた。どうせすぐにお風呂に入るんだから、という習慣は青春時代の頃から変わっていない。
朝ごはんは手抜き料理だが、夕食は凝ったものをつくる。なにしろ、みんなと一緒に食べるのだ。この楽しいひと時を過ごすために手を抜くなどと、とんでもないことだ。ただ、もう少しレパートリーは増やした方がいいとは自負している。
完成したので、三人を連れてきた。理沙は綺麗な微笑を形成し、春美と千草はあどけない笑顔をしている。みんなを向かいに並んで座らせ、箸を取って手を合わせる。
「いただきます」
一口入れたが、少し顔をしかめた。今夜は出来が悪い。上司に怒鳴られてストレスがたまっているせいだろう。
ごめんね、と三人に謝る。あいかわらず変わらない笑顔を見せてくれ、許してくれたことを表している。優しい妹たちを持てて幸せだ。
お風呂からあがると、三人の髪を梳いてあげた。これを時間をかけて過ごすのが楽しく、毎日欠かさずやっている。残業で遅くなって疲れていても、これだけは外せない。
今日は遅くなってしまったから、一緒にテレビを見てくつろぐ時間もない。早々にベッドに入ることにした。もちろん、四人で。
七十二体の人形が壁にそって並べられた寝室で、今日はこの三体の人形を抱えて眠った。京子はすぐに意識が遠のいたが、千草と春美と理沙は、変わらない笑顔でいつまでも天井を見つめていた。
午前の業務を終えた京子は、となりの部署からやって来た若者に声をかけられた。
「ちょっと、ビル一階のカフェで一緒にどう?」
彼とは一年前から付き合っていた。意気消沈している所で話しかけられ、そのまま社内恋愛へと発展した。
彼女はそれまで特に恋愛をしたいとは思っていなかった。だが、自分に尽くしてくれる男の存在に、居心地の良さを感じた。安心して心と体を預けることが出来た。
二人は有名ブランドのカフェへ入った。ビジネス街の中心地ということもあって、ネクタイを締めた男や、事務の格好をした女でごった返している。
彼はアイスコーヒーを頼んだ。京子も同じものの小さいサイズを注文した。食べ物も、と彼女は考えていたが、彼が頼まなかったので、それに従った。いつもならスタミナたっぷりのものをがっつり平らげるのに。
品を受け取ると、入口にほど近い窓際の席に座った。彼がそうしたからだ。彼は喫煙者だから、奥の分煙スペースに行くと思っていたのだが。今日は何かおかしい。
「実は、とても大事な話があるんだ」
緊張した面持ちで彼はそう切り出してきた。派手にチューチュー吸っていたストローを離し、彼女は恋人の顔をうかがう。
「もう、別れよう」
奥歯に物が挟まったように、そう言った。十秒ほど沈黙が支配した。太陽が薄雲に隠され、日差しが遮られた。明るい光に慣れていた目が少しの間感覚を失い、彼の姿がぼんやりとした。
「君と付き合うのは、もううんざりだ。これ以上危険なことは犯したくない」
今度は淡々と言葉が発せられた。彼の目が真っすぐ彼女に向けられている。
「……今、何て、言ったの? 全然分からなかったんだけど……」
暑い。いや、熱い。胸が熱い。腕が重い。脚が動かない。唯一動かせる視線を自分のグラスへ向けた。ブロック状の氷が積み上げられている。熱気で溶けてきている。ほんの少し氷が動いた。
「俺と縁を切ってくれ。今日はそれだけを言おうと思った。すまな――、いや、謝る必要はないな。もう関係はなくなったんだから。それが悪くなろうと、知ったことない」
「何で……? どうして……? 私はあなたのこと大好き。それは分かってるでしょ? あなたは私の心だけじゃなく、処女も奪ったの。それなのに、どうして?」
向かいに座っている男二人が、ちらっとこちらを見たものの、見なかったふりをするようにまた自分たちの話しに戻っていった。
「それは君が…………。来月から海外支社へ行くことになった。もう会うことはないだろう。上司に相談したんだ。お互い、一からやり直そう。さよなら」
彼は一気に飲み干して、お金を置いて出ていった。京子はソファに倒れこんだ。雲間から日差しが照って、店内に差しこんできた。グラスの氷が溶けて、澄んだ音をたてた。
数日の間、彼女は家に引きこもった。会社には風邪だとウソをついた。外の空気に触れることすら、今は拒んだ。室内は蒸していた。
京子はベッドの上で仰向けになり、いくつもの人形を抱えていた。どうしようもない気持ちになると、こうやって落ち着くようにしている。いつも笑顔の彼女達が、京子には癒しの存在であった。
彼女にとって、人形とは家族だ。一人っ子である京子は、子どもの頃家でいつも一人だった。共働きの両親に、娘と遊ぶ時間などなかった。
その代わりに母がくれたのが、一体の人形だった。大人びたその容姿に、彼女は理想のお姉さん像を重ねた。優しく包んでくれ、イヤな事を全て忘れさせてくれる存在がほしかった。
上履きに画びょうを入れられた時、黒板に悪口を書かれた時、みんなが彼女を無視した時、人形だけが心の拠り所だった。ベッドの中で抱いて泣いた。そのまま眠った。不思議と温かくなった。
夢にはよく人形が登場するようになった。「お茶しよう」「ご飯食べよう」と、いつも京子を誘ってくる。夢の中で彼女は、人形たちと同じ大きさになって戯れていた。
その後、イヤな事があった時、我慢できないことがあった時、おこづかいで人形を次々と買った。
一体人形を手に入れた時、彼女にとってかけがえのない家族が増えたと実感する。それは今も変わらない。自分の痛みを分散して共有してくれる。そんな気がしたのだ。
着々と業務の引き継ぎを進めた修一は、夜の九時ごろに自宅のドアを開けた。いつもより遅くなったのは仕方ない。
昨日から荷物をまとめ始めた。リビングや寝室の隅には段ボール箱が増えたが、それでも景色は閑散としている。ここへ越してきて以来拝んでいない床まで、姿を現している。
スーツをハンガーにかけてシャツを洗濯機へ入れると、風呂場へ行って水道の蛇口をひねった。浴槽に水の落ちる音が、狭い風呂場に反響する。
どんなに仕事がきつくても、きちんと晩ご飯はつくる修一だったが、今日はそれがおっくうだった。休日の昼にしか食べないカップラーメンを開け、やかんに火をつけた。
京子の体がそばにないのは心もとないが、別れたことは決して後悔していない。それは間違いない。
「一緒に……」
え、と後ろをふり返った。ささやくような女の声がリビングの方から聞こえた気がした。
「空耳か?」
十秒ほど辺りを見回してみたが、当然誰もいない。おそらく、大声で外を歩いている若者の声を聞いたのだろう。この辺は大学生も多く住んでいるから、みんなで集まって飲んでいるのかもしれない。
一緒に、という言葉は、彼女の口癖だった。食事へ、彼の家へ、お風呂へ、ベッドへ――。これらの前にはいつも「一緒に」が付いた。しきりに甘えてきて彼を頼りにする子だった。
耳にそれがこびりついていたに違いない。そう思うと耳の中がむずがゆくなってきた。後で掃除しなくては。
完成したカップラーメンをすすっていると、浴槽に水を入れ始めてから二十分たっていると壁時計が示していることに気がついた。割り箸をカップの上に置いて席を立つ。蛇口を閉めてお湯を沸かし始め、リビングへ戻った。
箸が座卓の上に落ちていた。首をかしげた。カップの真ん中に置いたはずなのに。
「まさか……」
修一は身構えた。黒くておぞましいあの虫じゃないだろうな。よく見ると、座布団の生地が少し寄っている。もしかして……。彼は慎重に裏返した。
「ああ……」
何もいなかった。こわばっていた表情が緩む。
薄いカーテンが、開け放した窓から入ってくる風になびいて動く。大きく、小さく、波打って。
網戸はしっかり閉めているが、もしかしたらカーテンの下から虫が這い出してくるかもしれない。急に鳥肌が立ち、窓を閉め切った。部屋の光が逆光となって、外が全く見えないほど暗い。厚いカーテンも引く。
カタン、と軽い音を立てて、テレビの横に置いてある写真立てが倒れた。足が震えて一瞬よろける。立て直すと、それは京子と遊園地へ行った時のものだった。有名キャラクターの着ぐるみが、二人を後ろから抱くように立っている。
こんな写真、見たくもない……。
写真立てごとゴミ箱へぶちこんだ。心臓が過労を起こしそうなほど弾み、息も荒くなっている。手が震え、目があちこちへ泳ぐ。すばやく食べかけのカップめんをつかみ、早足で台所へ行って三角コーナーに流しこんだ。食欲がどこかへ飛んだ。
なぜだ。彼女への憎しみはどこへ行った。今は、全身を包むように恐怖が支配している。
一人暮らしのはずなのに、誰かが一緒にいる気がする。その気配は自分の前にはなく、常に背後か横にある。しかも向こうは、こちらを見てケタケタ笑っている。声や姿はないが、そんな空気を感じる。
布の擦れるような音がリビングを出たところ、つまり暗い廊下から聞こえた。限りなく床に近い所からだった。
「誰だ!」
声が裏返る。手には武器になるか分からないリモコンを持つ。リビングと廊下の境目で立ち止まると、彼は息を殺した。心臓の音で相手に感づかれてしまうかもしれない。拳を握り、向こう側の壁へタックルするように飛び出した。
そこに転がっていたのは、一体の日本人形だった。足をまっすぐこちらに向けて仰向けに倒れている。長い髪の毛は向こうへ投げだしていて、一本一本が乱れることなく伸びている。笑顔だった。
おぞましい虫かと考えていた彼は、拍子抜けしてヘタヘタと座りこんだ。壁に背中を預ける。
「京子の忘れものか?」
荒くなっている息と心臓に初めて気がついた彼は、深呼吸をして整えた。目を閉じ、上を向いて落ち着く。上を向いたら前向きな気持ちになれると聞いたが、まさしくその通りだと実感した。平常値に戻ったのを確認し、下を向いて目を開ける。
笑みを見せる人形が顔を上げて目の前に立っていた。
「うおっ!」
腰が抜けて立ち上がれない。人形の方を向きながら、そのまま後退し、リビングに入る。
リビングに顔だけ出して、人形が彼の様子を見つめている。目が合うと、軽く手をふった。笑顔で。
もう、声は出なかった。バックし続け、窓に衝突する。外に出たい、外に出たい! 背中で必死に窓を押すが、防犯が意識された特殊な窓を突き破るのは難しい。さっき自分でカギをかけたことも忘れて、「開け! 開け!」と叫んでいる。冷や汗が止まらない。
人形の足がリビングと廊下の境目に立った。足の裏で感触を確かめているようだ。その間だけ視線がそれる。
彼は、ようやくカギをかけたことを思い出し、人形を凝視したまま手を伸ばした。いつもの倍の時間をかけ、それは開いた。
音に反応し、視線がすばやく彼に戻る。何をしているのか、様子をうかがっている。
彼は汗で手が滑りながら、窓を開けた。そして網戸を背中から破いた時……。
人形が直立姿勢のまま走ってきて彼の顔へ飛び、髪の毛につかまった。
「やめろ! やめろ!」
耳元に顔を近づけて小さい唇が動き、何かをささやくと――
修一は姿を消した。
仕事から帰った京子は、いつも通りに人形を三体テーブルに並べて食事をとっていた。
「ねえ、聞いてよ〜。今日もね、課長に怒られたんだよ。ほんの少しのミスで、十分も! ひどいよね……。それでもっと仕事の量を増やされて、『残業代払えないから、時間までに終わらせろよ』だって。なんとか終わったけど、もうこの仕事イヤ! 転職しようかな……」
人形たちは優しい。彼女の話しにしっかり耳を傾けるし、決して裏切らない。
ありがと、と人形たちの頭をなでると、リモコンを取ってテレビをつけた。たまにはニュースを見ておかないと、同僚たちの話しについていけなくなる。もうすぐ辞めるから、面接のネタを集めるためにこれから必要になる。
五十代らしき男性が淡々と伝えている。ぼうっと交通事故についてのニュースを見ていたが、次のニュースに京子は目を離さずにはいられなかった。
自分の勤める会社の名前が読み上げられた。不祥事で経営陣がクビとなれば彼女は満足だったがそうではなく、その社員が行方不明となっているらしい。しかも、修一の名だった。三日前から姿が見えなくなっているようだ。
京子は部署が違うし、みんなから変な目で見られていたからコミュニケーションはなく、そのような話は届いていなかった。
だが、別れた彼氏だ。自分に罵倒を浴びせた奴だ。心配する必要がどこにある。たとえ山中で見つかっても、「残念でした」の一言を警察に言えば済むことだ……。
「え……待って……」
京子は修一の“元カノ”だ。警察は、まず彼の家族に話を聞きに行くだろう。もちろん、会社にも。そして、別れたばかりの女にも。
「まずいまずいまずい……」
彼女は食べかけの食事をそのままに、人形を抱えて寝室に駆けこんだ。元通りに並べてから、部屋をグルグルと回って考えを巡らせる。
「修一に会社の金を使わせて人形を買ってもらってたことがバレるかも……。どうしよう……。まさかこんなことで明るみになるの……?」
イヤだ。あんな奴にこの生活を壊されるのは我慢できない。なぜだ? なぜ姿を消した? 早く見つかってくれないと、自分に火の粉が降りかかる。
「助けて! お願い! 私を助けて……。あなたたちは、家族なんだよね? いつも私の味方だよね。みんな、優しいから、ずっと、一緒に、いてくれるよね?」
京子は、人形が飾られているひな壇の前に仰向けで寝転んだ。涙の粒が落ちる。
「一緒に……」
え、と跳ね起きた。少女の声だ。大人びていて、優しい。でも、どこから――
背後から月明かりに照らされた七十二体の全ての人形が、両腕を正面へ伸ばした。首を少し傾け、笑顔を見せる。
「キャッ!」
すばやく後ずさりし、人形と反対側の壁に背中をベッタリと付けた。ドッと冷や汗が出た。
正面の人形と目があった。子どものようにきれいだ。魅せられる。
だんだん意識が薄らいできた。人形たちの腕が伸びてきているような気がする。そんなまさか。現実的じゃない。ありえない……。
三日後、出社してこないのを不審に思った会社の上司や警察と共に大家がカギを開け、京子の部屋に入った。
寝室にある七十二体の人形に驚いたが、部屋の隅に落ちている男の人形と、ベッドの上に寝かされている幼げな容姿の人形を見つけると、誰かに似ているような気がして三人とも首をかしげた。
「夏のホラー2013」への参加作品です。企画でホラーを書くのは初めてでしたが、楽しく書くことが出来ました。読者のみなさんにも楽しんでいただければ幸いです。