破文3 決して面白くはない過去――だから今がある
破文3・決して面白くはない過去――だから今がある
ゲネスを背負いながら、俺達は学校を後にする。
横では終始ふくれっ面のティーネがチラチラと俺を、というかゲネスを見ていた。
時折なんか悔しそうな表情を見せるから、きっとゲネスが何かして煽ってるんだろうなぁ。
「ところで、どちらに向かってるのですか?」
「ん? ああ、昨日からこっちに来ている菜緒達が今いるはずの海岸にだな」
にしても能力に目覚めてから普通の人よりは寒さに強くはなった気がするけど、制服のままだとさすがに寒い。
動きやすさを重視したとはいえ、やはり、なんか着て来ればよかった。
向こうの気候に慣れたせいでついうっかり、この時期における北海道の厳しい寒さを忘れてしまっていた。
薄着でも寒くないこいつらが、ちょっとだけ羨ましいなぁ。
薄着代表のティーネを見ると、どうにもゲネスではなく俺を睨んでいる気がする。
背後のゲネスも、なんか肩においた手に力がこもってらっしゃる。
2人とも、どうしたのだろう。
「菜緒さんと言うと、昨日廊下で会った方ですわね」
「ああ」
「どんな関係なのか、ティーネちゃん気になるな!」
どんな関係、か。
「中学からの同級生だ。
家は近所だったから昔から顔くらいは合わせてたけど、話すようになったのは同じ中学校に入ってからだな」
確かそのはず。
中学に上がるまではお互いに名前も知らなかったし、小学校は別の所だったし。
学校の帰り、たまに鉢合わせする事もあったが、その時に仲良くなった覚えはない。
まあだからこそ、同じ中学校で同じクラスになった時、声を掛けやすかったというか声をかけられたというか……あれ、どっちから声をかけたんだったかな。
まあいいや。
「幼馴染、ってほど深く付き合いがあるわけでもないが、少なくとも他の奴らよりは1番菜緒と親しい間柄ってとこか」
「それだけですか?」
「ああ、そうだよ」
アホ毛がクエスチョンマークを作り上げている。頭の上で揺れている触角も、なんだか大きく揺れている気配が。
そういえば昨日も菜緒とすれ違った時に、そんな反応を示したっけか。
「でもぉ、昨日いらないとか冷たい事言ってた時、辛そうな顔してたよ?」
「菜緒のいらないはただの反射的な口癖だからな――って、辛そうな顔?」
「ええ、そうですわよ。だからお2人に何かあったのかと勘繰ってしまいますわね」
ふむ、なるほど。
辛そうな顔、か……やはりまだ、あの時の事を引きずってるんだろうな。
「たぶんだけど、それは――」
2人に高校に入ってからあった、菜緒との経緯を話す。
入学した日の事。
初依頼の事。
傷つく菜緒を見るしかできなかった事。
そしてチームを抜けた事まで。
2人は概ね黙っていたが、時折何かに同意するかのように、ああとか、そうですわよねとか呟いていた。
「ま、そんなわけだ。ずいぶん嫌われたみたいだから、俺と顔をあわせるのも辛いとかそんな感じかもしれない」
ティーネが驚いたように目を見開き、俺の顔を凝視してから、すいっと後ろのゲネスと視線を合わせる。
多分だけど、ゲネスも似たような表情を浮かべているのだろうな。
何にそこまで驚いてるのか今の会話からは想像つかないが、間違いなく今の会話に何かあるって事か。
「透さん、本当にわかってないのですか?」
「何が?」
「何がって……ねえ?」
「うん、だよねぇ……」
はて、なんかこの2人、妙に仲良くなってきたというべきか。
それは良い事なんだけども、なんだか釈然としない。
この2人はわかっているけど、俺にだけわかっていない何かがあるせいなんだよな。
「透さんの女性を大切にするという信念は、菜緒さんを大切にするという所から始まってるのではないのですか?」
「あー……ちょっと違う、かなぁ。菜緒を大切にしようとは思うけども、それよりも前から女性を大切にしようと誓ってたし」
「大切にするのは決まってるんだねー……」
頬を膨らませ、むくれたかと思うと、しょんぼりアホ毛を垂れ下げて肩を落とす。
何か言いたげな顔で俺を見つめ、口を開いた。
「好きだったりするの?」
「嫌いな奴と友達やってく自信は、あんまないんだが」
「そうじゃなくてぇ!」
両拳をぶんぶんと振って、アホ毛が攻撃的に跳ねている。なんか怒ってるね。
「菜緒さんに特別な想いとかはないのですか?」
「特別視はしてるけど」
おや、いきなり反応がなくなった。
というか、考えてるのか。
長いな、思考が。
そんなに考え込むほどなにがある?
「透さんは、菜緒さんを嫌ってはいないが友人として好き、なのですよね」
「ああ」
「けれども特別視しているのですよね」
「ああ、そうだよ」
また沈黙かぁ。
「じゃーあ、なんで特別視してるのかなぁ?
なんか高校に上がる前から、特別視してるような気配がするんだけどぉ? 信念のせいだけじゃないよねー」
あ、そういう事か。考えてみればもっともな疑問なんだよな。
俺自身長い事、それが標準的な思考でいたから2人の疑問に気付けなかった。
でもなんで、か。
「特別隠す事でもないし、話すのは構わないんだけど」
ん、隠すべきか?
菜緒に思いっきり絡んでくる話だし、本人のいないところで話すのはどうだろう。
でもこいつらなら、何となく大丈夫そうだな。自分の事は喋っても他人の事は喋らなそうなタイプだし。
チームである以上は、そこも信用するか。
「あんま、面白い話にはならないぞ?」
「構いませんわ」
「構わないよぅ」
2人そろって即答。そんなに気になるのか。
まあいい。聞きたいなら話すとしよう。
「本当に面白くない話なんだけど――」
よく見る女の子とすれ違い学校から帰ってくると、アパートに鍵がかかっていた。
ずっとそれが当たり前ではあったが、ここ最近では珍しい事だった。
ごそごそとランドセルから鍵を取り出し、鍵を開けて部屋へと入る。
「ただいま」
誰もいないとは思いつつ、ここ最近ではすっかり習慣になったその言葉を口にすると意外な事に、「おかえり」と反応が返ってきた。
部屋では若い女性が座り込んで、窓の外を眺めている。
若い女性とは言っても自分より10も違う。だが小学生の自分から10ならば、まだまだ若いと言えるだろう。
母親、とは違う。
母親になるかもしれないし、ならないかもしれない――そんな人だ。
ただこれまでの経験と、この状況からどうやらこの人も母親にはならなそうである。
慣れてはきたけど、実に残念だった。
家に帰ってきたらただいまという習慣を教えてくれたのは、彼女だ。自分がいる限りおかえりと返してあげるから、そう言ってくれた。
母親に憧れていた自分は、彼女が好きだった。それこそ、ほのかな恋心とも言える。
できればこれからもずっといて欲しかったが――やはりだめだったようである。
「父さんに、何か言われた?」
よく家にいるかと思えば、ぶらっと出かけてはぶらっと帰ってくる父。
それでもちゃんとなにかしら仕事をしているようで、金銭的な問題は特になかった。
酒も飲まないし、煙草も吸わない。ここまでなら模範的な父親だ。
だが、女癖が悪い。それがいただけない。
だから今こうしている彼女を見て、ああなんか言われたなと察する事が出来た。
もっと言ってしまえば、何と言われたかも想像がつく。
「新しい人に入れ替えたいから、今週中には出て行って欲しい――だってさ」
ああやっぱり。
「なんか、若すぎる人は疲れるからもういいんだって。10も違うと、会話も弾まなくていまいちだって言われちゃった」
彼女の辛さがまだ幼い俺にはよくわからない。けど、彼女ともう一緒に居られないのかと思うと俺も辛かった。
こんな俺が言える言葉は、かなり少ない。
俺がいうべき言葉じゃないのかもしれないけど、言わなければいけない。むしろ言いたかった。
「ごめん」
「透君が謝ることじゃないよ。それに――」
外を眺めていた彼女が振り返ると、眼が赤く、腫れている。
「謝られると、もっと惨めになっちゃう」
彼女の目から涙が。
いったい今日どれほど泣いていたのかわからないのに、枯れる事の無いそれは次々に溢れ出てくる。
がばっと膝立ちのまま、彼女は俺を抱きしめた。
「けれど、ありがとう」
震えている肩。
嗚咽混じりの感謝。
そして、大人の女性が流す涙。
さすがにこれは初めてだ。
頬に柔らかい感触。それが彼女の唇だと認識するのに、ずいぶん時間を要した。
こそばくもありながら、高まる鼓動。
そして彼女は耳元で囁く。
「ずっとその優しさ、忘れちゃだめだよ」
「うん」
「けど、甘やかしちゃダメ。私みたいに悪い人に引っかかるからね」
「誓うよ。本当の意味で優しくして、甘やかさないって」
はっきりと、そう答えた。罪滅ぼしの意味も込めて。
離れた彼女は俺を正面から見据え、「約束だよ」と泣き腫らした顔のまま微笑むのであった。
「ただいま」
答える相手なんかいないだろうとは思いつつ、教わった習慣が抜けずにあれから3年も経った。
「おーうおかえり」
「なんだ親父。帰ってたのか」
「まあなぁ。悪いけど、小遣いやるから2、3時間ばかし出かけててくんないか」
……相変わらず、か。
親父の女癖の悪さは今も健在で、こんなお願いはしょっちゅうだ。
うちで何してるんだよと野暮な事は聞かないし、聞く気もない。
だが毎度だが、これだけは言わせてもらう。
「それはいいんだが、親父――」
「女性は泣かせるな、だろ? はいはいわかったわかった」
パタパタと手を振る。
いつもいつも口を酸っぱくして繰り返して言ってる事だけに、まあ予測はつくか。
幸いな事と言えば、あれ以来乗り換えてる気配がない事だ。だからこそ、酸っぱくして言う程度に止まってるんだけど。
でも決していい傾向ではないか。こうして家に呼ぶだけで、うちに住ませる訳じゃないって事はなんかあるんだろう。
ま、俺が考えてもしかたない。
さて今が4時。2時間も潰すとなったら6時とかだし――飯も外で済ませよう。
「じゃ、出かけてくる。飯も食ってくるから、7時くらいまではどうぞごゆっくり」
「おー、悪いな」
口ばっかりの謝罪も聞き飽きたが、いいさ。
5千円を受け取り、家を後にした。
さて当てもなくブラブラするしかないのだが、これすると2時間とか苦痛。どうしたものかなぁ。
さほど趣味らしい趣味もないし、かと言ってショッピングとかするものでもなし。
そもそもこんな田舎では、たいして見るものもない。
「なにするかなぁ」
「透」
あ、今呼ばれたか?
振り返ろうと思ったら、ちょうど手を握られ引っ張られる。
「透ってば!」
「ん、菜緒か。悪い、呼ばれたのに気付かなかった」
足を止め振り返るとちょっと怒ったような、それでいてどことなく嬉しそうな表情をした菜緒がいた。
俺の手を掴んで。
俺の視線が手に向いた事で、ハッとし、慌てて手を離す菜緒。
するとばつが悪そうに、上目づかいで俺の様子を窺う。
「ご、ごめん」
「いや、別に謝られる事でもないし。それで、どうしたんだ?」
見たところ制服ではないし、学校帰りではなく1度、家に帰ったのはわかる。
かといって普通にまじめな菜緒が、こうやってぶらっと街中をうろつく事はないはず。
まあ俺もあんな感じでなければ、こうやって繰り出す事もないんだが。
「母さんが今日は仕事が少しあるから、夜は外で食べてってさ」
「へぇ。それで父親と共に外食に出たと」
「冗談!」
つんと顔をそむけられてしまった。
「父さんと2人きりなんて、嫌に決まってるじゃない」
ああ、そんなものかもしれない。
別にうちみたいに家族仲が悪いわけでもないはずだが、15歳の女の子としては父親との距離が微妙な時期なんだろうな。
反抗期というよりは思春期、か。
気のせいか、俺には明確にそんな時期がないなぁ。
早熟とか枯れているとか、そんな感じで言われる事は多いけど。
「つまりは1人飯か。俺と同じだな」
「あ、そうなんだ」
嬉しそうに答え、何かを期待している目だ。
流れ的に何を期待しているかは、とってもわかりやすい。
「一緒に、どうだ?」
菜緒の顔に花が咲く。
ふむ、やはり期待通りのお誘いか。
「別に気遣いなんて、いらないんだけどさぁ……」
自分の髪を引っ張りながら、そっぽを向く。
わかっちゃいるけど、意地悪したくなるな。
「ならやめるか」
「や、別に嫌じゃないし」
「でも気遣いされたくないんだろ?」
むーと唸り、頬を膨らませる。
愉快愉快。
「ん、冗談だよ。一緒に行こう」
「知らない!」
いやはや、実に予想通りの反応。おもしろい。
そういえばふと思ったが。
「なんでこんな時間から外に出てるんだ? 飯だけなら、飯の時間に出ればいいだろ」
「それはぁ……」
なんかもごもごしてるし。
そんなに答えにくい質問だったのか。
「窓から、透が出てくの見えたし……」
「何?」
声が小さくてよく聞こえない。
だから聞き返したのに、なんか頬を膨らませて顔そらす。
「どうだっていいじゃない! 適当に時間つぶししようと思っただけよ!」
なんだか逆切れされた気がする。
時間つぶし、ね。
まあ田舎の学校だけあって友達連中のみんな部活してるし、暇をつぶす相手もいないという感じはある。
意地を通して帰宅部なのは、俺と菜緒くらいだし。
意地って程、意地でもないか。
単純にやりたいと思える部活がないから、半強制的な部活動も入らないってだけだ。
田舎の学校では結構普通なんだが、半強制的というのが大袈裟と感じる人もいるようだと小学校の修学旅行で初めて知ったんだよなぁ。
全校生徒40名しかいないんじゃ、学校側としても帰宅部はそうそう認めたくないのだ。
だから入らないと言った時、担任やらが放課後残らせてまで説得をしてきたもんだ。
みんなやるんだから、卓球部か羽球部のどっちか選んでやらないかい?
誰がやるか!
そんなもんやってたら、夕方5時のタイムバーゲンに間に合わんだろうがっ!
そんなわけで部活は免除となったわけだが、入らないことを許されるってのもどうかと思うんだがなぁ。
菜緒に関してはとにかく入ろうとしなかった、とだけ聞いている。
男女含めて友人連中は、「だろうね」なんて言ってたが。
まあいい。
「時間潰しなら、家にいた方がよっぽど潰せそうだけどな」
「何か言った?」
「いや、なんでもございません」
これ以上怒らせたら苛めてるみたいだし、適当に流してと。
「それじゃちょっと、時間潰すか」
やはり1人より2人だな。時間を潰すにしてもなんにしても、お得な感じだ。
出費が押さえれたので、少しだけリッチに喫茶店で晩飯を奢る事に。
どうせ軍資金はもらっているし、余った分は明日の肉半額市で、買いこむ代金にしよう。
ピラフを待ちながら、腕を組みうんうんと頷いていると菜緒が声をかけてきた。
「ねえ、透」
「ん?」
「高校、決めた?」
あー……決めてないな。
「そういえばそろそろ入試か。一通り全部受ける予定でまだ特に決めてないけど、だいたい一択だろ」
「そうね」
菜緒が苦笑を浮かべた。多分、俺も同じ表情だ。
町内に高校は1つしかなく、あとは郊外や隣町にある。20キロも離れてて、交通もバスしかない。
そんなとこにわざわざ行きたいとは思わない。だいたいここいらの奴ら皆が、町内の高校に行くし、きっと俺もそうなるだろう。
「ま、高校でもよろしくな」
「よろしく、透。
ところでやっぱり今日も、なの?」
何がやっぱりかは、聞かない。
菜緒には親父の女癖を伝えてあるし、こうやって息子払いをして家で誰かと逢っていると話した事があるからだ。
「そ」
慣れたつもりでもこの話にはそっけなくなるな、俺。
そこは菜緒も分かってくれてるから実に楽だけど、これが事情を知らない奴だとムッとするんだよなぁ。
話しても面白い事ではないからと話さないでおくとだいたいこじれるので、毎回いちいち説明するからかもしれない。
「んー……そしたら今日、もらうのは厳しいかな」
今日あたりに菜緒が欲しがる物?
「簡単レシピの今月号か。大丈夫だろ」
簡単レシピの載った月刊誌。俺が毎月定期購読して、一通り覚え終わったら菜緒にあげる事になっている。
中学生同士で、共有するような本じゃないよな。
「そう? それなら帰りに寄らせてもらうかな」
「了解了解」
飯を食ったらすでに7時。
この時間ならもう大丈夫だろうと、真っ直ぐ家へ。
でもちょっとだけ甘かった。
そう、本当にちょっと。
いつか踏み抜きそうな鉄製の外掛け階段を上がっていると、うちの戸が開いて誰かが出てきたところだった。
(菜緒もいるが、まあすれ違うくらいならまだ許容範囲だろう)
狭いから半身になって降りてくるのを待つと、すれ違いざまに目が合ってしまった。
まさか!?
その女性に、見覚えがあった。
「母さん!?」
「菜緒!?」
やはり、見間違いとか記憶違いじゃなかった。
「なんで今、透の家から出てきたのさ!」
さすがの菜緒も声を張り上げ、問い詰める。
いや、答えはもうわかってるのか。認めたくないという苛立ちを、ただ母親にぶつけているだけで。
その証拠に、菜緒の目から涙が溢れている。
あの日に見た、あの人の涙のようだった。
一向に口を開かない菜緒の母親――そのまま何も言わずに駆け出してしまった。
「待ってよ!」
菜緒もすぐに追いかける。
俺の取るべき行動は1つ。
階段を駆けあがり、家に飛びこむ。
「なんで菜緒の母親に手ぇ出した! 知ってただろうが!」
怒鳴りつけるが、俺の激昂なんかそよ風らしい。
しれっと、「知ってたよ?」なんて言いやがる……このくそ親父!
「若すぎるのに飽きたからさ。
同じ歳くらいがいいかなーとか思ってたら、ちょうどいい感じに落とせたんだよ」
「落とせたんだよ、じゃねぇ! そんなことすれば、菜緒の家庭がぶっ壊れるってわかってるだろ!」
「壊れるのは自己責任だろう。そういう割りきった間柄でお互い、楽しんでたんだし」
親父をぶん殴りたい。
生まれて初めて、心の底から思った。
「もっと女性を大切にしやがれ!」
腹の底から叫んだ瞬間、体が熱くなり、沸々と体内から何かが湧き出てくる。
1歩踏み出した、と思った時にはすでに親父のすぐ前に到達していた。
親父の驚く顔がすぐ目の前にある。
拳を振り上げ、親父の顔面に――
当たらなかった。
当たる直前に親父は1歩横に動き拳をやり過ごすと、窓へと向かう。
バギバギバギバギィッ!
2枚合わせの大きなペアガラスを肘と膝で突き破るように割って、2階だというのに外へと跳びだしやがった。
まさか、だ。
確か氷対策のために強化ガラスを1枚使ってるから、ハンマーでも使わないとそう簡単に破れないよと、親が大工の友達がそう言っていた。
だが今、親父は素手で簡単に割りやがったぞ。
割れた窓から見下ろすが、やたら素早い親父はもはや闇に溶けてその姿を確認する事が出来なかった。
「あの野郎……!」
怒りに任せ、ガラスの無くなったサッシを力任せに殴る。
ドゴンッ
変な音と共に、簡単にひしゃげた。
「?」
おかしいな、そんな簡単にひしゃげるもんでもなかったはずだぞ。
自分の拳をまじまじと見つめると、なにやら蒸気の如く金の粒子が身体から立ち上っているのに、今初めて気がついた。
もっとまじまじ見ると、黒い粒子も混ざっている。
「なんだこれ……?」
よく見れば、拳だけではない。
肩や足、全身からくまなく出ている。
なんかこれ、見た事がある気がする。
「あ、撃退士の紹介映像だ」
学校で少しだけ習った、絵空事のような存在。
世界にはなんか天使や悪魔、またはそれらの放った化物と戦っている学生達がいるとかで、映像を見せてもらった事があったな。
その時に、彼らがこんな感じの物を身に纏っていたのを思い出した。
力を開花させると、そんなオーラを纏うとかなんとか。
こんな田舎じゃあまり関係ないだろうとか思っていたが、まさか俺が彼らと同じになるとはね。
そういえばうちの学校にも説明しに来た人が、パンフレットを置いてったっけ。
床に置きっぱなしのパンフレットに目を向ける。
表紙にはでかでかと、「その力、護るために使おう!」と書かれていた。
「撃退士教育・育成機関『久遠ヶ原学園』、か」
「とおるぅ……」
弱々しく俺を呼ぶ声。
開けっ放しの玄関に菜緒が立っていた。顔をくしゃくしゃにしたまま。
「父さんに、はちあわせて……母さんが、怒鳴り散らして……それで、父さんと母さんが喧嘩に……」
理知的な菜緒にしてはたどたどしい説明。
よけいにその辛さが伝わってくる。
「なんで、なんでこんな……うあぁぁぁあぁぁああぁぁぁぁっ!
泣きながら抱きつかれた。
今はまだほとんど変わらない身長。
だからこそ、あの時と同じ目線で、震える肩を再び見る事となった。
俺はあの時と全然変わってないんだな。
女性には優しくすると誓ったのに、結局何もできず菜緒を泣かせてしまった。
親父すら殴れなかった。
もっと力と知恵が欲しい。
信念を通すだけの、力が欲しい。
全てを見通す、知恵が欲しい。
護るための、力が欲しい。
誰も泣かせない、知恵が欲しい。
約束を守れるだけの、強さが欲しい。
菜緒の肩越しから、再びパンフレットに目を向けた――
次の日。
「君が柴野 透君だね?」
「はい」
常に力強い笑みを浮かべている目の前の男性に、はっきりと答えた。
呼び出された校長室ではその男性と校長、それに担任が俺を待ち構えていたのだ。
「能力に目覚めたと昨日の夜に連絡を受けたのだが、本当かい?」
「はい」
「見せてくれるかな?」
そう来るだろうとは思っていた。
目を閉じる。
(集中――)
すぐに「おおっ」と担任や校長が反応を示した。
どうやらうまく出せたようだ。練習した甲斐がある。
目を開けると、昨日と同じように黒い粒子混じりの金の粒子が焔の様にゆらゆらと立ち上っていた。
「どうですか?」
「うむ、少し特徴的だがまぎれもなく光纏――よろしい、我が久遠ヶ原学園は君の入学を許可しよう」
大仰しく両腕を広げ、歓迎を示す男性。
とりあえずは一安心。
それともう1つ確認しないとな。
「それで、電話でもお願いしたんですが……」
「急な話だが今日から転入したい、だったかな。
単位、成績、どちらとも特に申し分なしだが、いいのかね。卒業式をここで迎えなくても」
卒業式、か。
かなり急な話で、友達にも話していないし、菜緒にすら話していない。
いや、菜緒にくらい決まったら今日話そうと思っていた。
だが来ていないのだ。
無理もないけど、ね。
どうせならこのまま黙って行ってしまおう。
一番、言いにくいから。
逃げかもしれないけど今はまだ色々、俺は弱すぎる。
それと正直言えば、親父ともう顔を合わせたくない。
結局昨日は帰ってこないし、たぶんまたしばらく帰ってこないつもりだろう。
ちょうどいい。今、会ったら殴りかかってしまうし。
どうせならがっつり鍛えて、次こそ確実にぶん殴る。そして菜緒の前に引きずってくだけだ。
「構いません。早く強くなりたいんです」
「ふむ、結構結構。1秒でも早く戦力が欲しいのは確かだからね。
だが気をつけたまえ。力のみを求めても人は不幸になるのだ、少年よ」
「俺はなりません」
「ほう」
男性が俺の目を覗き込む。その力強い目で、俺を見定めるように。
「何故かね?」
大きく息を吸い、吐き出す。
「守りたいことを護る強さが、欲しいだけですから」
「とかまあ、そんなわけで今に至る」
「肝心の菜緒さんを特別視する理由がはっきりしてませんわよ」
む、鋭い。
――仕方ない、言うか。
「こっちに来てしばらくしてから菜緒に再開した時、聞いたんだよ。どうなったって」
「そしたらー?」
「親は離婚、自分をどっちが引き取るか揉めて、それでこっちに来る決心がついたって言われたよ」
離婚の原因はもちろん、俺の親父のせいだ。
そしてそれを止めれなかったのは、俺の責任。
「だから俺は菜緒に罪の意識を感じる。ゆえに誰よりも優しく接する事にしたんだ」