急文3 私の願い(山崎 菜緒の章)
急文3・私の願い(山崎 菜緒の章)
「誰か今呼んだ?」
私は教室を振り返って尋ねる。
すると鞄を肩にかけた1人の男子生徒が、片手を挙げながら近づいてきた。
見覚えのある人だ。よく学校帰りに家ですれ違う人。ただそれだけで、お互いに名前も知らない。
でも教壇で自己紹介はみんなしたのだから、名前は聞いたはず。20人もいないから下の名前まではともかく、名字くらいはなんとか記憶の片隅に。
「えっと、柴……柴野、君だっけ?」
「正解。山崎さんに質問というか確認なんだけど、うちの近所でよくすれ違ってなかったかなと思ってさ」
「うん、正解。一昨年あたりからよくすれ違ってるよね」
答えると柴野君は「やっぱり」と、顔をほころばせる。
その顔にほんの少しだけドキッとする。いつも見ている顔はなんだか怒っているような、そんな感じのぶっちょづらだったから。
「えっと、用件がそれだけなら、私、もう帰るね。今日はすぐ帰ってきなさいってお母さんに言われてるから」
自分の心を悟られまいと、返事も聞かずにさっさと廊下へ出ていく。
そんな私の背中に柴野君は「ああ、またな」と、声をかけてくれた。
小学校までの知り合いがいなくて不安だったけど、少し、学校に来る楽しみができた。
そんな事を思いながら、家へと急いだ。
出会いから数日後。
授業で、お互いをもっとよく知りましょうなんて話で、隣同士が向かい合ってプリントに自分史を書き、見せあうと言う中学生的にはちょっと恥ずかしい内容。
それでも隣が柴野君なのは、少しだけ救いかもしれない。まるっきり知らないよりはまだマシよね。
「へえ、柴野君って5年の時に引っ越してきたんだね」
「まあね」
柴野君の自分史は男子らしくすごいシンプルで、どこで生まれ、どこの保育所、小学校に通ったくらいしか書いていない。
シンプルすぎて面白味がないというか、ちょっとだけ残念。
「山崎さんは結構離れの小学校通ってたんだね」
「うん、お母さんの母校とかで通ってたんだ。中学は地域がまるで違うから、一番近いここに決めたんだけどね」
「ふーん……」
柴野君の自分史を読み終えてしまい、両肘を机につけて、手に顎を乗せながら柴野君の顔を何となく眺めていた。
ちょっとだけ、かっこいい……かな?
「何考えてるんだろ、私」
「何が?」
「ううん、こっちの話。読み終えちゃって、ちょっと暇かなーって思っただけ」
うん、暇ってのは確かだし、顔の火照りはきっと誤魔化せたと思いたい。
「暇、か。それでも先生に提出用だからと一応書いてある裏の方は、目は通さない方がきっといいだろうな」
「裏?」
言われてペラッとめくってみる。
「なんか、びっちりだね」
「覚えてる限りをとりあえず書いたんだけどな。多分それで全部じゃないはず」
私の自分史を読んでいた柴野君が顔を上げ、私をまっすぐに見つめた。
「ホンキで、読まない方がいいと思う。読むとしても数行でやめとけな」
それだけを言ってプリントに視線を戻す。
そんな事言われたら、読んで下さいって言ってるような感じじゃない。読みたくなっちゃうってもんよね。
さっそく1行目に目を通す――
「0歳、離婚。産みの母親出ていく」
「そこでやめとけ。俺は慣れてるからいいけど、そうでない人には結構きついらしいから」
のっけで十分に結構きついんだけど、柴野君は平然としている。まるでそんなのは序の口と言わんばかりに。
もう少しだけ、知りたいかもしれない。
プリントから顔を離し、目を閉じて深呼吸。
「……よし」
気合をいれて裏プリントに目を通す。
キツイ。
「なんか、月単位くらいで『新しい女性』が出てるんだけど」
「うん、酷い時はそんなサイクルで連れてきてたな」
サラっと流せるの、これを。
「しかも、名前では書いてないし」
「長持ちしないからどうせ覚えても無駄ってのもあったけど、ちゃんと紹介受けたことないモン。ほとんど」
ドライだ。思ったよりもドライだわ。
何とか読み進めてはいるのだけど、途中から、ここまで書く必要があるのかと思うものが事もなげに書かれている。
「一方的な痴話喧嘩に巻き込まれ、包丁で斬られたって……」
「腕をちょこっと。さすがにあの時はビビったりしたな」
プリントから目を離さず、左腕の肩近くをさする柴野君。そこだって事だよね。斬られたのって。
こんな話を涼しい顔でできる同級生なんて、見たことないわ。
「初めての再婚相手が放火、ぼやで済んだってのも、軽くない出来事よね」
「まあそうだろうな。慣れって言うか、そんな事もいつかあるだろうとは思ってたけど」
顔を上げ、どこか遠い目をする。
「あれのせいで引っ越したんだよなぁ。ドラマみたいな話だろ?」
自虐的とも取れる笑みを浮かべる。
く、やめておけと言われてなんだけど、本当に読むんじゃなかった。
今、ひしひしと後悔してるわ。
……あれ?
「篠崎彩さんがやって来た。この人だけ名前、書いてるんだね」
「ああ唯一、俺が母親だって言える人だったから。他の誰よりもずっと、好きだったな」
珍しく、その時だけ目を伏せ、唇を噛みしめた。プリントを握っている手からはギュギュっと、紙と手の擦れる音がする。
「女性に優しくするって、誓った人でもあるから」
今にも泣きそうな顔に見える。
そう思ってしまうと、私の目から先に涙が出てしまった。
いけない!
「先生、目にゴミが入ったから水飲み場に行っていいですか!」
目を押さえ立ち上がると、先生がいいと言う前に駆けだしていた。
人前で泣くとか、恥ずかしすぎるじゃない!
水飲み場で水をすくい、目に当てる。冷たくて気持ちいいけど、目頭の熱さだけはなかなか取れはしない。
世の中、本当にあんな人がいるんだ。
ドラマみたいと笑うには重過ぎるのに、普通に笑えるような人が……
「柴野君の誓い、護ってあげたい」
絶えず流れる蛇口の水をじっと見つめ、そんな言葉が自然と口から出ていた。
この日から私は透とよく話し、目で追うように。
だから、透の馬鹿がつくような優しさを理解する事が出来た。




