慚愧の雫
どうも、緋絽と申します。短編です。
今回はおじいちゃんと孫、題してじじまごの話ですよ!
ちょっと重めです。大丈夫な方はどうぞ!
遠くの峰々がうっすらと雪を被っている。吐く息の白さが牛乳のようだ。
じいちゃんの家の前に立って戸を叩く。バンバンと数回でかく音を鳴らすと中で誰かが歩く音がして目の前の戸の中で止まった。
「山」
「川豊か」
「よし」
キュッキュッとした鍵を回す音の後に戸が開く。
今となっては俺───藤波柾紀の方が見下ろすようになってしまった俺の祖父が豪快に笑って俺を出迎えた。
「よく来たな」
藤波勝敏、七四歳。
その歳になっても合い言葉とやらを使って遊ぼうとする心だけは最近のワカモノにも負けず劣らずだ。
家の中に入ってもうすでに俺の部屋として使われている部屋に荷物を置いて居間に行く。
昔懐かしの日本家屋なじいちゃんの家は風通しがいい。真冬の今には少しキツいものがある。
分厚い上着を来たまま居間に入り、紙袋を差し出した。
「はいこれ。土産」
「おぉ羊羹。でも俺はバームクーヘンの方が好きだ」
「そういやじいちゃんって糖尿病だっけ。これ、俺が食うわ」
そう言って紙袋を引くと、じいちゃんが老人とは思えない俊敏さで紙袋を捕まえた。
しばし無言の戦いが繰り広げられる。
「いるのかいらねーのか」
「いる。いるいるいる」
「なら文句つけんなよなぁ」
手を離して紙袋を渡す。
「今晩のデザートだな」
ホクホク顔で仕舞いに行くじいちゃんの後ろ姿を見た。その歳では見事な黒髪で、じいちゃんはそれをいつも自慢にしている。俺が覚えてる限り病気などで入院したこともない。殺しても死なないんじゃないだろうか。
俺には父親がいない。小さい頃に病気で死んでしまった。だから、俺にはじいちゃんが父親のようなものだった。キャッチボールも、運動会の二人三脚も、全部じいちゃんが一緒にやってくれた。
「そんで、今回はいつまでいれるんだ」
帰ってきたじいちゃんがこたつにもぐった。
いつまでいれるんだ(・・・・・)と聞いてくれるのがなんだか変わらなくて嬉しい。というか面映ゆい。
照れ隠しで少し仏頂面になったところでこたつの中でじいちゃんの足に蹴られる。
「いて、蹴るなよ。一応年明けまではいる予定」
「美代子さんらといなくていいのか」
何の気なしにという風体を装ってじいちゃんが新聞を広げた。
全然さり気なくない。
美代子とは俺の母親で、じいちゃんの義理の娘だ。
じいちゃんが、父さんがいなくなってから母さんに負い目を感じているのはうっすら感じていた。父さんがいなくなったことで苦労させたし、血の繋がりもないのに家族面するなんて、と言ったところだろう。
俺と妹の紗月は繋がっているのに。
「向こうは向こうで女だけでよろしくやんだろ。気にしなくても平気平気」
「そうか? お前がそう言うなら」
じいちゃんが厳めしい顔をして言うが、口元の笑いをこらえ切れてない。二十歳の孫でも一緒にいれたら嬉しいもんか。
「じゃあほれ、酒だ、酒」
じいちゃんが焼酎瓶を振りながら笑顔で近付いてきた。
「やだよ。まだ二時だぞ!」
「堅いこと言うな。じじいかお前」
「本物に言われたくねぇよ」
そして結局俺はコップを受け取って飲む。喉を熱さが下っていった。ふ、と息を吐いてくつろぐ。
じいちゃん家はいつでも落ち着く場所だ。田舎だからか隣の家との距離が少しあって、広大な田んぼを一つ越えた先にようやく隣の家がある。叫ばなければ声も届かないような場所なのだ。
朝は結構冷えるが清々しく、夜は静かで時々縁側にある鹿威しの音がする。
なんというか、とても穏やかだ。時の流れがゆっくりで、ここに来るといつもホッとした。
風雅という意味を俺はこういうことなのだと思っている。本当に、枕草子を地でいけると思う。
「柾紀」
「ん?」
「お前、彼女いないのか」
突然の問いに思わず焼酎を吹き出した。盛大に咳き込んで涙目でじいちゃんを睨む。
「大丈夫か?」
「危うく喉に詰まらせるとこだったよ。なんで?」
皮肉をたっぷり含ませて首を傾げると、じいちゃんはだらしなく頬を緩ませた。
「女はいいぞ。あんなに可愛いもんは見たことねぇ。ばあさんも生きてた頃はそりゃあ…」
俺は溜め息を吐く。
またその話か。
じいちゃんとばあちゃんは近所の間でも有名な仲睦まじい夫婦だったらしい。今でもじいちゃんはばあちゃんが好きで仕方ないらしく、家に寄る度ばあちゃんとの思い出話を聞かされるのだ。
「その時のばあさんがもう!」
「それこないだ聞いた! デートに遅れたじいちゃんを涙目で抱きしめて事故に遭ったのかと思ったって言ったんだろ! それでやられちゃったんだろ!」
「なんだ、話してたか」
もう数えきれないくらいな。
「柾紀にはそういう女はいないのか」
「こないだ別れた」
「何!? もったいない」
じいちゃんが寄ってきてその勢いに体を仰け反らせる。そして言い返そうとして、なんだか苦いような臭いに思わず口を閉じた。
「くっせぇ! じじい、息くせーよ」
「何だと! 失礼な」
「いや、まじで。病院行った方がいいレベル」
言い表せない、本当に苦いような臭いなのだ。
「そ、そんなにか?」
じいちゃんが口臭を嗅いでみる。
いつもじいちゃんは田んぼの土の臭いがするのに今日はなんだか臭い。
「口臭スプレー買えよ。近所の人に嫌われるぜ」
じいちゃんがショックを受けた表情をした。
それが、半年前。
半年後の夏。
じいちゃんが、肺ガンであることがわかった。しかも末期だ。年齢的にも衰弱具合的にも、手術も抗ガン剤治療もできないということだった。余命は半年。
田舎の家から都会の病院にじいちゃんは移ることになった。
病院のベッドに横になったじいちゃんは一回り小さく見えた。
「じいちゃん」
「……………んー?」
病気になったのと同時に一気に老けた気がする。耳も遠くなってるのか。
「俺、彼女できたよ」
手を握りながら報告する。
そう言ったらいつもみたいに興奮して飛び起きてくれるかもと思って───期待して、じいちゃんの反応を待つ。
「…………じいちゃん?」
無言だった。
死んでしまったかと慌てて顔を覗き込む。
手が汗ばんでいた。息が浅くなって苦しい。
ここにきてようやく、ぼんやりとしていた死が急に間近に感じられた。
そして気付く。殺しても死なないと思っていたじいちゃんにも、等しく死というものは訪れるのだと。癌という病気で、呆気なく死の間際まで追いつめられるのだ。
嫌だ。やめてくれ。この人は、俺の、大切な人なんだ。連れて行かないでくれ。
縋る気持ちでじいちゃんの手を強く握り締めた。
今思えば心肺停止を警告するアラームの音は鳴っていなかったのだから、この時は死んでいるはずがなかった。それでも、その事に気づかないほど焦っていたということだろう。
そこでじいちゃんがゆっくり微笑んだ。よく考えてみるとこれが入院して以来初めて見る笑顔かもしれなかった。
「じゃあ…これで心残りはないな…」
返事が返ってきたことに酷く安堵する。同時に恐くなった。
「なんでだよ。まだ俺、卒業もしてねぇし就職もしてねーじゃん。心残り大ありだろうが」
だから、だからそんなこと言うなよ。───まるで今すぐ死んでしまうかのようなことを。
じいちゃんは、その二週間後にこの世を去った。半年あるはずの余命は、たったの二週間に成り代わった。
蝉がうるさく鳴く中で、じいちゃんは皆に見守られながら逝った。
「よかったじゃない。苦しまずに逝けて」
母さんが涙ぐみながら妹の紗月を慰めるように言った。
高校生の紗月は学校や部活が忙しく、じいちゃんの家に数年行っていなかった。それでも、じいちゃんのことが好きだったらしい。
俺は紗月の頭を軽く叩いた。
よかった。癌は相当苦しい思いをすると聞く。悪化して苦しむ前に逝けて、よかった。
不思議と涙は出なかった。というか、たった今死んだじいちゃんだった体はまだ温かく、死んだことが理解できなかった。
午前八時三四分。それがじいちゃんの心臓が止まった時間。
俺はまだ温かいじいちゃんの手を握った。
「………じいちゃん」
じいちゃんは死ぬ前に野球が観たいと言ったらしい。チャンネルを変えても朝だったからやってなかった。仕方ない。………仕方ない。
そういえば、小さい頃、父さんの代わりにじいちゃんがキャッチボールしてくれたっけ。大きくなった時、『孫とキャッチボール』をしたかったのだと照れながら話していた。
よく考えてみると、じいちゃんが好きだったから、俺は少年野球のチームに入った。高校生まで、ずっと野球だった。そう思うと、俺の選択は、随分じいちゃんに影響されていた。
少し固まったようなじいちゃんの手を少し握り締め───俺は自分の拠り所を手放した。
葬式の日、母方の祖父母とじいちゃんの兄だけが集まった。じいちゃんの家族は兄以外みんな亡くなってしまっていた。
「ほんとに、あんなにお元気だったのに…」
母方のばあちゃんが涙ぐみながら言った。
ちょくちょく連絡を取り合っていたのだという。じいちゃん同士で気があって、いつか一緒に釣りをする約束までしていたらしい。
なんだ。意外と、仲がよかったのか。じいちゃん同士は孫を取り合って仲が悪いものなのではと思っていた。
「………俺、ちょっと出てくるよ」
「えぇ」
葬式場を出て何気なくケータイを取り出した。
とにかく、何かに触れていたい。
アプリを立ち上げて数回プレイした後で、ふと思いつき検索画面を開く。『がん 口臭』で検索した。
けっこう同じ疑問を持つ人が多いようで、たくさんヒットした。
妙にギクリと体がぎこちなくなる。
一番上にあるものをタップする。
『普通ガンによる臭いは人間は嗅ぐことができません』
その文章にホッと息を吐く。
なんだ、やっぱり、関係ないのか。
『しかし、患部である内臓自体の機能の変調があります』
体がぐらついた。眩暈かと思うぐらいに一気に体の力が抜ける。
『症状が悪化すれば患部からの臭いが発生することがあります』
そんな…じいちゃん。
『それは人間にも感知できるのです』
携帯を握り締めた。
手汗がじっとりと滲み、寒くもなくむしろ暑いのに体が震える。
俺が臭いと言って、ショックを受けていたじいちゃんを思い出す。
───半年。半年、あれば。
「柾紀ー出棺よ」
母さんに呼ばれてビクリと体が跳ねる。まるで悪いことを親に見つかった子供のように。
「おっおう。行く」
冷たくなった手をケータイごとポケットに突っ込んだ。
マイクロバスに乗って火葬場に行く。最後の別れとやらを済ませてじいちゃんの顔は永遠に見えなくなった。
「───それでは…どなたか…」
点火するためのボタンを押す人が必要らしい。
てっきりじいちゃんの兄がするもんだと思って後ろの方で立っていると、全員が俺を振り返った。
「───え……?」
「柾紀くん、君が押しなさい」
突然のことに一瞬言葉が喉で詰まる。
「……っ、でも、俺、喪主じゃ」
「いいんだ。電話するたび、勝敏が君のことをよく話していた。…君が押してやってくれ」
泣き笑いのような顔のじいちゃんのお兄さんはそっと体をずらした。
そこには石造りの壁には不釣り合いな赤いボタンが埋められていた。
喉で変な音が鳴る。うぐぅ、というような、呻くような声。
最期まで。俺が、じいちゃんの命を削るのか。最期、だからこそ?
顎の先が震えた。ゆっくり、一歩踏み出す。また一歩。
もし、あの日、あの時。半年前に。俺がじいちゃんを病院に連れて行っていれば。半年あれば。───生存の可能性は、もっと高かった。手術も、抗がん剤治療も、できただろう。
涙で視界が滲む。
嫌だ。俺のせいじゃない。知らなかった。ガンが進行すると、あんな臭いを発するだなんて知らなかった。───知らなかったばかりに。じいちゃんは、死んだ。
嗚咽がもれる。ひう、と喉が変な音を立てる。
例えば誰かにこの話をしたとして。多分、誰もが俺は悪くないと答えるだろう。でも、俺が気づいていればじいちゃんはもっと生きていられたかもしれない。そう、一日だけでも長く。結局すべてはそこに収束される。
───俺があの時、気づいていれば。病院に連れて行っていれば。
俺はボタンの前に立って指をボタンにかける。少し力を入れると意外にも固い手応えがあった。
息が早くなる。
「じいちゃん…」
後ろでみんなが涙ぐむ。きっと、みんな俺がじいちゃんを火葬するのがつらいのだと思っているだろう。違う。違わないが、───俺は、あの日、あの時を。垂れ流したあの月日を。
「ごめん」
そして俺は、ボタンを押した。
読了ありがとうございました!