2-3 ~炎の祠~
気が付けば、暗闇の中を漂っていた。どこかしら安心感のある場所に、ダルクはぼんやりと現状を考えていた。
(ここはどこだろうか……真っ暗だ。現実世界に来たとしても、夢は変わらないのか)
いつもの夢に似ていた。もしかしたら、陵が目覚めたのかもしれない。
自分の体だけが、暗闇の中でも光を放っているのを確認する。右手を伸ばせば、その指先までハッキリと見えた。
『………、………、………』
名前を呼ばれたような気がして振り向くが、そこにはダルク以外の存在は見えない。聞こえる声も、どこからともなく響いてくるもので、場所までは特定できそうになかった。
それでも、何度も、何度も、同じように呼び続けている。
よく聞こえないが、それは本当に自分の名前なのだろうか。ダルクは首を傾げながら、ゆっくりと暗闇の中を進む。
本当に進んでいるのかも分からないが、どこかに行かなければいけない気がした。
じっとしていることなど、ダルクには出来なかった。
(そういえば、現実世界でも、誰かの声が聞こえた。誰かが呼んでいた。急がないと……)
その声を聞くたびに、頭痛がひどくなるような感覚があった。ここが夢の中だからかもしれないが、頭痛は綺麗に消えて無くなっている。
ダルクの記憶を解く鍵は、すぐそこにあるのかもしれない。
「早く……行かなければ…………待ってる」
上下左右さえも分からない世界で、目印など無い世界で。
(誰が待っている? どこへ行けば? 分からない、だが、どこかにいる)
目を閉じても、同じような暗闇が広がっているだけだ。どこに向かっているのかも分からない。
だが、声だけは聞こえ続けている。それが次第に鮮明になっているような気がして、響くような声が一つの場所から聞こえてきているような気がして、ダルクはその方向に手を伸ばした。
『………、………、山に……ひ…………祠…………、………』
少しずつ長くなる言葉に、いや、むしろ文章になったというのだろうか、とにかく耳を傾ける。相変わらず、名前の部分だけは聞こえないが、声の主の居場所の手がかりになりそうな単語は分かった。
「山……祠……呼んでる。近いのか、遠いのか……はっきりしない」
記憶の中から、情報を引きずり出そうとしても、頭の中を幾つものノイズが奔っていく。その中に微かに聞こえる誰かの声。自分では無い何か……だが、陵とも違う誰か……記憶を取り戻すことを拒絶するかのように囁く。
『………、お…………ないで、……と、いっ……に…………』
二つの声が複雑に絡み合い、ダルクはどちらを取るべきか悩んだ。それでも、自分を呼ぶ声を求めた。過去の記憶を思い出すのを邪魔するなら、別に思い出す必要もない。ただ、その声の場所に行けばいい。
思い出す必要など無い。思い出せば…………。
「よく聞こえない……もっと近くへ……」
山と祠以外の情報も欲しい所だ。早く会いに行くために、早めに会いに行くから、もっと情報を……焦がれる衝動に身を任せる。
もはや自身の呟いていることも分からないだろう。もはや無意識のままに動いている。本能だけが、覚えていた。
(急げ……急げ……そこに、居る。呼んでいる)
自分の体が闇のより深い部分へと進んでいくのを感じる。進めば進むほど声は大きくなるがノイズも酷くなっていく……記憶を思い出すことを拒んでいるのではないのか……それとも、その場所に行くことが、記憶を取り戻すことに繋がってしまうのか……ダルクは溜息を吐き、自身を邪魔する声に言い聞かせる。
(邪魔をしないでくれ……俺は行かないといけないんだ)
それは、自分自身に呟いたのと同じに過ぎないのかもしれない。こちらの声の主は諦めたかのようにノイズを消していく。それと同時に、音の奔流が始まる。まるで泣き叫んでいるかのような煩わしさだった。いや、実際に泣いているのか。
ノイズが消えれば、急に足場が不安定になって落下を始める。落ちているといっても、風のようなものを感じるだけで、上も下も暗闇であることに変わりはない。
「より深く……より暗く……」
訳のわからない言葉を何度も繰り返しているうちに意識も薄れていった。
このまま……眠りに…………闇に身を任せて最下層まで落ちる。
『起きろ! ここに俺は居ない!!』
沈みかけていた意識が今度は急に浮上する。辺りが徐々(じょじょ)に赤く染まっていき炎に包まれた。
驚いて走り出そうとしたが全方位を包まれていて逃げられない。だが、不思議なことに熱いと感じることはなかった。
炎の中心には誰もいない。そこに居るはずの姿はどこにもない。確かにここには誰もいない。あるのは主を無くした炎だけだ。
『資格を取り戻せ!!』
炎がより強く燃え盛り視界が完全に赤くなった。気付けば、目の前には真っ赤な男。正確な姿は見えないが、その影もまた、ダルクに手を伸ばしていた。
その手を掴もうとするが、遠くに見えた光に驚いて手を戻してしまった。影は光に掻き消されて消えた。
気付くと元の闇の中に戻っていて、光の差している方へ歩いていた。そちらへ向かえば向かうほど、ノイズが頭の中に戻って来る。
今もなお自分を呼んでいる声を聞いて立ち止まりそううになるのを耐えた。
あの影が居る場所はここではない。あの影が居るのは現実世界だ。戻らなければ……探さなければ……。
「あれは……?」
光に触れる直前に一度だけ振り向いたとき、燃えている山が見えた。
あそこに先ほどの声の主が居るのだろう……そこで待ち続けているのだろう。
手が光に触れて、身体も弾けるように膨れ上がった光に包まれた。息が出来ない苦しみに耐えかねてもがく。
弾き飛ばされるような感覚。随分と乱暴な覚醒だ。気がつくとベッドの上で寝ていた。
ぼやける意識の中でも夢のことだけは鮮明に憶えている。
「……誰が俺を呼んでいるというのだ? 最後に叫んでいたのは誰だ? 何が言いたかったんだろうか」
今も微かに聞こえる声に内心で溜め息を吐き、ゆっくりと起き上がった。不思議なことに頭痛が消えていた。
声に誘われるがまま歩き出そうにも場所が分からない。だが、なぜか抗うことができずに、部屋の中を歩き回る。傍らに置かれた地図を見ても、頭に浮かぶようなものは無い。
その近くに置かれた魔法陣は赤く染まっていた。
ダルクの頭を埋め尽くすのは、視界を支配する赤、揺らめきながら踊る綺麗な焔、鮮やかに色付く木々……その山の形が、近くで見たもののような気がして……。
「ダルク君、起きてる?」
ダルクが夢の世界に浸っていると、慌てたように誰かが走ってくる。声からしてノエルだろうか?
勢い良く扉が開いて、息を切らせたノエルが飛び込んできた。
「どうかしたのか?」
もう少しで大事なことを思い出せそうだったのに……邪魔されたダルクは苛立たしげに尋ねる。だが、その苛立ちはノエルの言葉で消えてしまう。
「ダルク君……大変! 山が燃えてるの! 急いで逃げないと!」
頭の中が真っ白になった。それと同時に蘇る衝動。
『………、早く、早く…………俺の所に……、………』
呼ばれている……向こうが居場所を教えてくれている。そういえば、山の中腹あたりで何かが光っていた。そこに居るんだ。そこで待っているんだ。
(呼んでる……まだ、呼んでいる…………すぐ近くに、いる)
頭痛は無いが、眩暈はひどくなる一方だ。頭の中で騒ぎ散らす声が足元を揺らす。
「山……燃えている…………それはどこだ!?」
自信はあったが、無意識にも近い状態で、ノエルの肩を掴んで問いかける。脅すようにも似て、必死なダルクの表情に、態度に、ノエルは窓の向こうを指差した。
窓に走り寄れば、そこから見えた景色は紛れもなく望んでいたものだった。その光景に、ダルクは微笑みを浮かべた。
燃えている山……夢の中でも出てきた山、ガラスの向こうで綺麗に燃えている山が見えた。緑色の葉が炎のせいで紅色に色付いている。その中腹で、何かが光っている。
山と村の距離は十数メートルといったところだろうか。村と山の間は森でつながっているため確かに危険だが、ノエルは別に気になっていることがあるらしい。
それと同時に、ダルクも山を気にしている。あの山に行かなければいけないという衝動が、どうしようもないくらいにダルクを苛む。
(同じだ。あの山だ……呼んでいる…………行かないと)
ダルクが窓枠に手をかければ、ノエルが心配したように呟いた。
「あそこには炎の祠が……」
山、祠……そして炎。ダルクは開け放たれた窓枠から身を乗り出した。足をかけて、今にも飛び降りそうな勢いだ。
正気を無くしているとでも言うべきなのか、鬼気迫るとでも言うべきなのか……ノエルは言葉を無くしてしまっている。
「そこに居るのか……その祠に、お前は居るのか!」
呼びかけるように叫べば、炎の勢いが増したような錯覚に陥る。その答えに満足したような感情を抱いて、足に力を入れた途端に、ノエルに腕を引っ張られた。さすがに危機感を感じたのだろう。
ノエルがそのまま1階まで引きずって行ったが、ダルクの意識は山から外されてなどいなかった。ノエルの腕を振り払おうと、握られている腕に力を込めた。今は振り払わない。ノエルの力が想像よりも強かったからだ。
そのまま家の外に出たら、村の住人と思われる人たちが逃げている所だった。山を指差しては何かを叫んでいる。
だけどそれよりも強く誰かの声が聞こえている。夢の中で聞いたのと同じ声だ。やはり、逆らえない。
「ダルク君? どうかしたの?」
ノエルの言葉もダルクには届かない。腕を掴んだまま、危険な行動を取らせまいとするが、火事場の馬鹿力とも言うべき腕力に、軽々と手を振り払われてしまう。
熱に浮かされたように山を見上げるダルクの姿を、ノエルは気味悪げに見ていた。
「今、行くから……すぐに行くから……」
走り出そうとしてるダルクを止めようとして、腕にしがみついたが、再び強い力で振り払われる。全速力で走り出したダルクに追いつくことは出来なかった。
「ダルク君!? 待って!! その祠には炎の精霊が……」
行動とは一致していないが、ノエルの言葉はきちんとダルクに伝わっていた。心配そうなノエルの声に、悪いことをしたという自覚はあっても、より優先すべき事柄があった。
周りの人たちも危険だと引き止めるが、自分にはそう思えない。
心のどこかでは歓喜を感じている。すれ違った鳥たちの鳴声が祝福のようにさえ感じられた。
逃げ惑う人々は、ダルクのことを追いかけてまで止めはしなかった。
「俺を呼んでいる……お前はそこにいるんだな…………」
俺の言葉に反応したかのように炎が揺れ踊る。後ろを振り向くこともなく火の中に飛び込む。
「待て!」
後ろから引きとめられて苛立たしげに振り向く。炎の向こう側にはレティオの姿。
「そこに入るのは危険だ! それに、その場所は……」
どうして炎の近くに居たのか。レティオは小さな紙切れをもって立っていた。その紙切れは魔法陣のようにも見える。
何かを調べていたのか、何なのか……ダルクは馬鹿にしたように笑った。
「危険……? 何をそんなに心配しているんだ?」
こんなに安心できる場所は無いのに……こんなに暖かい場所なのに……ダルクは自身の向かおうとしている場所を見上げた。
(お前が呼んでいる……お前は俺を燃やしたりしない。それだけは分かる)
レティオは近付くことなく、ただ値踏みするようにダルクを見つめている。その目は、この場所を危険だとは感じていないようだ。
だとしたら、何のために?
「俺を邪魔するな」
何かを探ろうとするような視線を避けて、炎の中に身を隠す。レティオも確信しているはずだ。レティオは何かを知っている。
「まさか……祠を…………」
レティオは村の方へと姿を消していった。後ろを確認する必要も無くなり、ハイペースで山を登り始める。
この炎は夢の時と同じで熱さを感じない。それには山に住む動物たちも気付いているようで逃げる様子は一向に見られない。
不思議な炎の中を彷徨うように進んだ。時の流れをも忘れて夢中で登っていた。
辿り着いたのは山の中腹辺りにある静かな場所。完全な無音の中に佇む一人の男。
近付けば、やはり夢のように炎が吹き上がる。炎の中心に立っているのは小さな祠。
『お前は誰だ? どうして俺の声が聞こえる? どうして俺を呼ぶ?』
男もまた、ダルクに呼ばれていたらしい。だが、ダルクには呼んだ覚えが無い。
「俺が呼んでいた? 俺は声に導かれてここに来ただけだ」
男の右足は鎖で繋がれていた。その鎖は男の後ろにある祠に吸い込まれるように伸びていた。
『俺は眠っていた。この祠の中で眠らされていた。声が聞こえて起きたらお前が居た』
男は後ろを向いたままで、優しく告げる。
「祠の中で……? 人ではないのか? やはりお前が……」
確信を持ったように呟けば、それを汲み取った男が答える。
『俺は炎の精霊・サラマンダー……名はフィレント』
強い風が通り抜けた気がした。男が静かに振り返る。
赤い瞳と赤い髪……まさに炎を象徴するような容姿の男が笑った。
『お前の名は?』
確かに自分の名前を呼んでいたはずなのに、フィレントは名前を知らないという。
「俺はダルク……俺を呼んでいる声はお前ではないのか?」
『それは俺にも分からない。それよりも……お前の正体が知りたい。なぜ……お前の魂は…………?』
困惑したようなフィレントの顔。ダルクは自身のことを知るチャンスだと考えていた。
答えられずに黙っていると男が近づいてくる。祠の中から鎖が音を立てて伸びていく。
だが途中で鎖が伸びなくなった。どうやら半径5メートルぐらいしか進めないようだ。
『お前の魂は人の物ではないな? 精霊とも違うが……しかし、この感覚は……?』
(俺は人ではないのか……いや、俺は人間だ。人間のはずだ)
自分が人間で無かったとしたら何なのか……確かに、本体である陵とは別の存在だが、自身は人間であるという確信がダルクにはあった。
「何か分かるのか? 俺は一体……?」
俺の過去を知っていたりはしないだろうか。良くわからないが、魂が見えるというのなら、失っている俺の記憶を見ることもできるのではないだろうか。
何かを懐かしむように目を細めたフィレントは少し笑いながら静かに告げた。
『……お前の魂が俺を呼んでいる。不思議な力だな……』
フィレントの言葉がダルクの頭の中で繰り返される。
(俺の魂がフィレントを呼んでいたのなら……俺の魂が四つの力を求めているのなら……やはり四大精霊が関係していたのか)
フィレントの額に浮かぶ魔法陣のような模様に手を伸ばせば、それは強く光を放つ。それを眩しげに眺めれば、フィレントもこちらに手を伸ばした。
『少しお前に興味を持った。もう少しこっちに来てくれないか?』
進めないフィレントの代わりに、ダルクが一歩ずつ前に出る。
「ああ、ちょうど俺もお前に興味がある」
(俺の記憶と関係があるのかどうか……俺を強く惹きつける声の正体……)
フィレントの手が額に置かれた。炎とは逆に氷を思わせるような冷たい手だった。
冷たかったそれから暖かい何かが伝わってきた。それが溶け込むように自分の中へ消えていくのを感じた。
『……お前、これはっ!?」
驚いたような声を最後に目の前に居たフィレントは姿を消した。突然のことだったので何が起きたか分からなかった。
まだ、大事なことを聞けていない。自身の記憶と無関係のはずがないフィレントは、祠の中にでも戻ってしまったのだろうか……祠は開かれた状態だった。とても封印が施されているようには見えない。
辺りが少し騒がしくなった。気が付くと炎が全て消えていた。
木々も草花も動物たちも燃えることなく、おそらく全てが最初のままなのだろう。
「フィレント?」
後ろで足音が聞こえて振り向くと、そこに居たのは……黒いフードを深く被った怪しい奴だった。
「火の封印を解いたか……祠を見てみろ」
どうするか迷いながらも、男から視線をそらさないまま、少しずつ後ずさった。
祠の隣に立って、ようやく祠の確認が出来た。祠が光り輝いていた……詳しく説明すると祠の内部にある何かだった。
「安心しろ、まだお前は殺さない。お前を殺すのは私ではない」
警戒を解かないダルクを安心させるために伝えたのだろうが、特に効果があるようには見えない。
「お前は誰だ。いずれは俺を殺すのか? だとしたら、誰が?」
「……それよりも早く中を確認したらどうだ? お前にとっても大事なことだと思うぞ」
男の声に促されて祠の中をのぞき込む。今は殺さないという言葉を信じて。
中にあったのは小さな石。何かが描かれた赤く透き通る石が強く輝くのを感じた。それに触れれば、意識はもはや男に向かなかった。
流れ込んできた記憶はフィレントのものなのか自分のものなのか……見慣れない風景が延々と続いていた。
意識が混濁して、座り込む。それを見た男が笑う。
「やはりな……ひとまず、あの御方に報告をしなければ」
男は一瞬で姿を消した。その直後にやって来たのはダルクを助けに来た数名の男女だった。それを指揮していたのは、レティオだった。やはり何かを知っているのか。
それを問う前に、レティオが術を仕掛ける。灰色に光ったと思えば、ダルクは自身の体に強い衝撃を受けた。強制的に気絶させられたダルクは、より深く、記憶の海に放り出された。
誰かと旅をしていた。その誰かは一人だったようにも、複数だったようにも感じられる。ただ、一つだけ分かるのは……とても苦しかったことだけ。
何かに追われるように、次から次へと居場所を変えた。最後に辿り着いたのは、どこだっただろう。すぐそこまで、何かが迫っていた。真っ黒に塗りつぶされた影が、その誰かを閉じ込めた。最後に残されたのは…………誰だろう。
『………、…………ごめんな……』
真っ赤な光が小さな祠に吸い込まれた。呟かれた言葉は誰のものだろう。その謝罪は誰に向けたものだろう。
塗りつぶされた影の手が、額に伸びて、目の前が真っ暗になって、意識が消えた。