2‐1 ~喪失と始まり~
そこは大陸の外れにある小さな村だった。住人は自給自足で暮らしていて、穏やかな空気が漂っている。
その村の中でも中央近くにある大きな家……そこに倒れていた少年が運び込まれていた。村の近くで倒れていた少年を、この家の娘が見つけて連れてきたのだった。
父親が医者を営んでいることもあり、少年はまだ眠りについたままだが、容態は次第に回復していった。
窓から差し込む光を浴びて、少年の顔が不機嫌そうに歪められた。
(……朝、か…………どうしてだろうか、精神の奥で感じるよりも眩しい……)
寝返りを打ちながら、再び惰眠を貪ろうとしたところで、ハッとしたように起き上がった。どうやら、自身に起こった異常事態に気がついたようだ。
少年は自身の手を眺め、動かし、そして立ち上がってみた。自身の意志の通りに動く体を不思議そうに見ている。
「……俺が、動かしているのか? ここは現実世界、なのか?」
少年の納得がいかないという呟きに答える声はない。現実味の無い状況に少年は喜びよりも困惑を感じていた。
(俺の思った通りに体が動く……)
普通ならば当たり前のことを戸惑いながらも考える少年……ダルクは冷静に考えようとした。だが、考えれば考えるほど、疑問が頭の中を巡っていく。
(だが、どうして今になって俺が…………これは本当に起こっていることなのか? もしかしたら夢かもしれないが、俺は今まで夢というものを見たことがない……)
ダルクは自身が眠りに就いている時を思い返した。
それはある意味では夢のようなものかもしれないが、おおよそ夢と呼ぶには不釣り合いすぎるものだった。何かに塗りつぶされたように真っ暗な空間を、何も考えることなく漂うだけの……なんということもない、起きている時と変わらない状態なのだ。
ただ、違うところといえば夢の中には話してくれる人など存在しないという点だろう。
すぐにダルクは自身の片割れとも言うべき存在に話しかけた。
「陵! 聞こえるか? 俺、やっと外に…………陵?」
当然のごとく返ってくると予想された声は無かった。いつもなら、どれだけタイミングが悪くても返事だけはくれる陵のこと……ダルクの困惑は酷くなるばかりだった。
陵の身に何かが起きた……そうとしか考えられない状況にダルクの顔色に青白さが増した。ダルクと話が出来たのは陵だけだった……何度も呼びかけるが返事はまったく返ってこない。
冷静さを取り戻すために、今の状況を整理することにして、眠りに就く前のことを思い出そうと念じるように目を瞑るが、薄らとしか浮かんでこない。
長く深い眠りから覚めた影響だろうか、ぼんやりとモヤがかかったように隠れている最後の会話を思い出すことに集中する。
やっとのことで思い出したのは、見知らぬ部屋だった。
(そういえば、最後に話したとき……神隠しにあって、よく分からない場所に居た。ここはその時の部屋とも違うようだが……何が起こっているんだ?)
気を取り直して部屋の中を見回すが、思い出した場所とは似ても似つかない……部屋は狭く、置かれているものも本や包帯、どこにでも生えていそうな草が入っている籠などであった。
挿絵から、本の内容が薬草や応急処置の仕方などについてのものであると気付き、ようやくダルクもそれほど危険な場所では無いと判断できた。
だが、知らない場所であることに変わりはない。階段を降りた後の記憶が自分に無い以上、陵の返事を待つしかないだろう。
「陵……何があった? どうして返事がない……」
階段を降りた後、ダルクは暗闇の中を漂っていた。自分から入り込んだのではなく、まるで誰かに押し込まれたような苦しみを思い出し、ダルクは吐き気を感じて床に座り込んだ。
陵は平気そうにしていたが、あれは一体なんだったのか。
(あの時、俺は完全に眠っていた……だが、陵が俺を呼んでいたことには気付いた。だが、なぜか声が伝わらなかった。記憶を見ることができれば良かったのだが、そんな間もなく視界が暗くなった。その後だ……急に体が軽くなったような気がして、一瞬だが何かを見た。それから……ダメだ、思い出せない!)
自身を抑えていた重りが消えたような感覚だった。今度は押し出されるかのように放り出され、誰かの側を通り過ぎた。その誰かは陵だったのかもしれないし、別の誰か……この場合考えられるのは、あの建物で出会ったであろう人物……かもしれない。
残念なことに、ダルクの記憶はここで完全に途切れていた。見ていないものを思い出すことなどできない……ダルクは建物について考えるのをやめ、陵のことに意識を戻した。
「陵は無事だろうか……」
呟いてから途方もない悲しみに襲われる。自分にとっては唯一の存在だったのだから、その苦しみも理解できないことはない。
だが、それとは別の何か……その何かがダルクを苦しめている。少なくともダルクは心のどこかでそう感じていた。
(眠っているだけなのだろうか……そうなると、とても深い眠りだな。しばらくは起きそうにない。それとも別の……消えてしまったのだろうか。だとしたら、もう話せないのだろうか。俺の方が本当の人格だったのか? いや、違うはずだ……俺が本当の陵のはずがない)
ダルクは今になってようやく確信できた。自分は本当の陵ではない、と。
実際に表に出てみて、漠然とした違和感を感じていた。不快とも違う……ほんの僅かな感覚の違いとでも言うべきか……体を動かすことに慣れれば消えてしまいそうな微妙な感覚だった。
だからこそ、ダルクは気付いた。本体である陵が出てこないということは、陵自らが閉じこもっているのだと。
ひとまずは安堵の溜息を漏らし、いつか自分から出てくるだろうと考えることにした。神隠しに巻き込まれたショックが原因だろう。
ダルクがベッドに座り直して、自分はどうしようかと天井を仰ぎ見た時、足音が聞こえた。初めは部屋を通り過ぎていったのだが、何かを思い出したかのように引き返してきた。
その足音は部屋の前で止まり、勢いよく扉が開かれた。現れたのは人畜無害そうな……長いブロンドを後ろて束ねた、ダルクとあまり年の変わらない少女だった。
ダルクの姿を映した水色の瞳が輝いている。嬉しそうな顔を浮かべて、ダルクに駆け寄った。
「目が覚めたのね! 良かった……ずっと眠ってたから心配してたのよ……もう起きて大丈夫なの?」
自分を看病してくれたのだろうと推測したダルクは、少女に一応の礼と今の状態を伝える。助けてくれたのは理解したが、完全に信用していいものかどうか……ダルクは不審げな視線で少女を見つめた。
「あ、ああ……特に何とも無いが、お前は誰なんだ?」
少女の服装はダルクたちの世界のものとあまり変わらない……手作りだということが見て取れるくらいにはボロボロで拙いが、特に変わったところは無かった。
「あ、私はノエル・クラフィー。ここは私の家よ。2日前に倒れているのを見つけたから、ここに運んだの」
思い出したように説明を始めた少女の言葉を聞きながら、新たに加えられた情報を整理する。
(2日前か……神隠しのこともあるから時間は当てにならないだろう。話が出来るということは同じ言語を使っているのか。どう見ても日本ではなさそうだがな)
どう考えても、本に書いてある文字は日本語ではない。そのことに気付いたダルクは、発音や文法が似ているのだと結論付けた。そうでなければ、この国における外国語か昔の文字だ。
何かを隠しているようにも見えないノエルの様子に、ダルクも少し警戒を解いた。
「ありがとう……君の家と言っていたが、ここはどこなのだろうか」
「ここがどの辺りかを聞きたいのね? 田舎の方だから地図が無いと分からないかも。少し待ってて!」
近くの棚を漁ってみたり、積まれた本の山を崩してみたり……ノエルは地図を探して右往左往している。
(この女を信用していいのだろうか。見たところ怪しい様子も無い……だが、少し気になる。渉や雷のように気持ち悪いわけでは無いのだが……)
やがて、机の引き出しの中から大きめの紙を取り出したノエルが、笑いながら小走りに来る。それを目の前で広げてベッドの上に置いた。
中心に小さな島があり、それを囲むように4つの大陸が広がっている。陸続きになっているものもあれば、遠く隔たっているものもある。大陸は色で分けられていて、中心の島は黒で塗りつぶされていた。
(明らかに地球ではないな……今まで神隠しにあっていた人たちは全員ここに飛ばされているのだろうか)
見たこともない地図の上をノエルの指が滑る。赤く塗りつぶされた右下の大陸を指差し、その中でも右上の方を指し示した。
山で囲まれていて、人の出入りはほとんど無さそうな……ノエルの言っていた田舎という形容は正しそうだ。
「えっと……私たちのいるランディオールはこの辺りですね。王都・ネイティアから東にあります」
「ランディオール? ネイティア?」
予想していた通りに知らない地名だ。ダルクは思わず聞き返した。怪しまれたかもしれない、と内心焦っているだろう。
その予想は正しく、困惑したような表情になったノエルが……それでも親切に説明してくれた。
「ランディオールは火の大陸の東端にある小さな村なの。ネイティアは地図の中心にある、この島の中央にある大都市だよ……この国の王都なんだけど……」
黒く塗りつぶされた部分を指し示しながら、ノエルの目はダルクを見ている。王都というくらいだから、知らない方がおかしいのだろう。
「王都……この国はネイティアというのか? すまないが、よく分からない……考えを整理したいので、少し待っていて欲しいのだが」
こちらの世界でも神隠しが一般的では無い可能性があったので、ダルクはなんとかして誤魔化せないか考えようとした。
ノエルは周囲を見回して、何かに気付いたように驚いた。そのまま立ち上がり、扉に手をかけた。
「私は少し席を外すから、ゆっくりと考えてね」
何か用事でもあったのか、慌てたように足音が遠ざかっていった。
窓から外を眺めると、他の家や畑、遠くの方には山が見えた。村のあちこちでは多くの花が咲いていて、子供たちが元気そうに走り回っていた。
良いことだと思いつつも、不便な場所だと溜息を吐いた。
(この部屋や外の様子を見る限り、あまり科学技術の類は発展していないようだな……)
部屋の中にある本を適当に取り出し、パラパラとページを捲っていく。読めはしないが、だいたいの内容は把握できた。所々に書かれた魔法陣らしきものと、使用時の参考図を見る限り、ゲームなどに見られる回復呪文の類だろう。
この世界では魔法が日常的に使われているようだ。
(そんな非現実的なことが有り得るのか? いや、神隠しらしきものに巻き込まれた時点で現実世界の常識など捨ててしまうべきなのか? 本当に効果はあるのだろうか……)
机の上に散らばっている魔法陣を眺めながら、そっと図のように手を動かした。だが、何も起こらない。
「素質が無いと術は使えないわよ。あなたは治癒術の素質が全く無いみたいね」
いつの間に入ってきていたのか、後ろから投げかけられた言葉に振り向く。何かの粉末と水を乗せたお盆を机の上に置き、引き出しの中から魔法陣を取り出す。
「手っ取り早く診断するならこれね。素質さえあれば反応するから……ほらね!」
その紙切れの上でノエルの手が動くたびに、魔法陣が緑色に光った。
それを真似てダルクも手を動かしてみた。赤色に光ったかと思えば、すぐに消えてしまう。
「火術の素質があるみたいね、でも不安定だわ……慣れてないのかしら」
不思議そうにダルクの結果を眺めるノエルに、とりあえず肯定しておく。
「そうだと思う……使えるとは思ってもいなかった」
これは元の世界でも使えるのか。術とはどのようなものなのか。どのような時に使うのだろうか。
分からないことがたくさんある。
ダルクが難しい顔で唸っていると、ノエルが粉の量を調節しながら皿の上に乗せていく。半分になったところで、余った方を瓶に戻した。
「これは解熱の作用がある薬ね。今は大丈夫だと思うんだけど、昨日までは熱があったから……父さんは医者だから、心配しないでね」
「そうか……迷惑をかけた。それで……ノエルだったか?」
呼ぶと嬉しそうに笑った。
「はい! 考えはまとまりましたか?」
ダルクは完全に警戒を解いていた。笑うノエルにつられて、ダルク自身も僅かに微笑んだ。
疑うことを知らない、心優しい少女だった。
「そのことなのだが、驚かないで聞いて欲しい。俺には記憶がないんだ。自分の名前さえ思い出せない。だから……この世界のことも分からないんだ」
嘘は言っていない。だが真実を言っているわけでもない。
悲しげな表情になったノエルを見て、ダルクは胸が痛むのを感じていた。その痛みの原因も知らないままで。
「そうだったんですか……大変ですね。でも、それだと住む場所もないんですよね?」
「……そうなるな。今は頼りに出来る人もいない。頼りにできたのは、記憶のない俺と少しの間だけ共に生活していた陵だけだった」
ダルクの顔が僅かに歪められる。頼りに出来たのは陵だけだった。
今は違う……ダルクは既に1人では無くなっていた。それが意図したもので無かったとしても、それはダルクを支えてくれるだろう。
「その陵君と何かあったの? 眠っている間も呟いてたから、気になってて……」
「俺を呼んでいたのに……答えることが出来なかった……今はどうしているのか、よく分からない」
嘘だ。自分の中にいる。眠っているだけだ。
ダルクは心の中で何度も繰り返した。その度に心が軽くなるのを感じていた。
「嫌なことをお聞きしてしまったみたいですね……」
死んだわけでもないのに、ノエルは泣きそうな顔をしていた。それを理解できないように、大した興味も持たずにダルクは目を逸した。
「いや……かまわない。それよりも、俺が倒れていたと言っていたな? その時の状況を教えてもらいたいのだが」
そのまま話題を変えれば、それに引きずられてノエルの顔から悲しみが消えた。
詳しく思い出そうとしているのか、少しだけ眉間にシワが寄っていた。
「状況ですか? 2日前の昼頃だったかしら……村の近くに倒れていたのに気付いて……それから家に運んだの」
小さな村と言っても、畑などが散在しているため、かなり広い方だと言える。その倒れた場所の近くに手がかりがあるかもしれない。
「この近くに、とても古くて大きな建物は無いだろうか 50年は経っているかもしれない……人が住んでいると思うのだが」
だいたいは憶測でしかないことだが、当たらずも遠からずといったところか……ダルクに知る由は無いが、実際に大きな建物であり、人も住んでいた。
だが、思い当たるものが無いのか、ノエルは首をかしげている。
「古い建物ならたくさんあると思う……でも、大きな家になると知らないわ。この辺りは街からも離れてるし、こんな辺境まで来る富裕層は居ないもの」
ノエルが地図上で街の場所を指し示す。地図上でもかなり離れていることが予測できる。
そこに行けば陵のことも分かるだろうと考えていたが、場所が分からないのであれば意味が無い。
「そうか……困ったことになった」
その建物がこの世界のものとは限らない。1度別の場所に飛ばされ、さらに飛ばされた可能性もあるのだ。
そこに住んでいたと勘違いしたのか、ノエルが躊躇いがちに声をかけた。
「あの……住む場所がないのなら、ここに住んでみない? 空いている部屋もあるし……父さんに相談してからになるけど、大丈夫だと思うわ」
病気の人が泊まれるようになってるの、と目を輝かせている。
確かに、記憶喪失というのも病気の一種かもしれない。それに、少女は困っている人を見過ごせないタイプの人間であるようだ。たとえ病気では無くても、ダルクを1人で放り出すようなことはしないだろう。
「この家にか? 確かに住む場所があれば良いが……」
ノエルの勢いと真っ直ぐな瞳にハッキリと断ることができなかった。曖昧に濁せば、それを無理に了承ととったノエルがダルクの手をとった。
「そうですよね! すぐに父に許可を貰ってきますので……あ、薬は飲んでおいてね!」
そう言ってノエルは部屋を飛び出していった。足音が遠ざかると全く音がなくなる。
呆然と立ち尽くすダルクは大きな音を立てて閉じられた扉を見つめていた。
「行ってしまった……本当に良いのだろうか」
しばらくして思考が回復したダルクは、机の上にあるコップを手に取った。そのまま水を半分ほど飲み込んだ。
やけに喉が渇いていた。熱が下がりきっていないのかもしれない。何も知らない世界で上手くやっていけるのか……今になって疲れが見え始めた体に耐えながら、ダルクは地球のことを思い返していた。
(それよりも、どうにかして帰らなければ……陵のことも気がかりだ。俺が表に出てきたことと関係があるのか?)
堂々巡りの疑問を打ち捨てるかのように、粉末を飲み込むと一気に水を流し込んだ。冷たい水が、ほんの僅かに熱を下げてくれた。
ダルクはノエルが部屋に戻ってくるのを待っていた。ふと、外に視線を向ければ、遠くの山の中で何かが光っていた。それに引き寄せられるかのように窓際に近付くと、その光は見えなくなった。
気を取られたのも僅かの間……すぐに足音が2人分響いてきた。予想以上に早く話し終わったようだ。似たもの親子なのかもしれない。
ゆっくりと開かれた扉の向こうで、ノエルが楽しげに笑っていた。