1-3 ~神隠し~
どのくらいの時間が過ぎたのか。少しずつ意識が戻ってきて目がさめる直前までくる。
未だに襲ってくる睡魔の誘惑に負けそうになったとき、微かな音がして意識がそちらに持っていかれた。時計の秒針が規則的な音を出している。風の音も聞こえる。
上半身を持ち上げ、薄暗い室内を見回す。あまり使い込まれていなさそうな道具たちが、所狭しと並んでいた。
「まだ夢の中にいるのか? 俺の部屋じゃないけど、ここどこだろ……」
ベッドから起き上がり、新品だと思われる家具を見て回る。生活に必要なものは全て揃っているけど、誰かが住んでいた気配はない。
あまりにも暗かったため、近くにあった電灯のようなもののスイッチを入れる。思ったよりも強い光が目に入り、視界が僅かにぼやけた。目眩がして、近くにあった椅子に座りこんでしまう。
「夢か、神隠しか……」
向かいの壁にかけられた時計が7時ぐらいを指している。あれから3時間ほど経っているのか。随分長く寝てしまったようだ。
落ち着いてきた視界の端で布が揺らめいた。窓が開いているようで、外から吹き込む風がカーテンを揺らしていた。
翻ったカーテンの向こう側には何も見えなかった。近付いてみるが、周囲には建物1つ無い。雲がかかっているのか、月さえも見えない。せめて外がどんな場所か分かれば良かったのだが。
下の方は暗く、2階以上の高さがあるように見える。飛び降りるのは無理そうだ。
「……仮に神隠しだとして、どんな状況なんだろ。誰かの部屋だよな……」
何か分からないかと棚やクローゼットの中を確かめたが、何1つとして入っていない。
扉のうち1つは別の部屋につながっていて、もう1つの方は長い廊下が続いていた。他にも部屋はたくさんあるらしく、何のための建物かは分からなかった。
「渉や雷の言ってた通りになったかも……他の人も居たりするのか?」
もう1つの部屋の方も調べてみたが、最初に居た部屋と変わらない。目に付くのは簡素なベッドと壊れかけの小さなテーブルだけだった。壁に立てかけられている大きな時計は、電池が切れているのか動いていない。
隣の部屋だとは思えないくらいに、この部屋の壁や床はひどい状態だった。歩くたびにギシギシと歪む床や、穴が開いてしまっている壁……床に散らばっているのは天井の破片だろうか。
いつ抜け落ちるとも分からない床に苦戦しながら、場所を突き止める手がかりになりそうなものを探す。
テーブルの上には、枯れてしまった花が入っている花瓶と手帳……小さな板切れがあった。手帳に書かれている日付から、これが50年以上も昔のものだということが分かった……残念なことに、そこに書かれていたはずの文字は読めない。
板切れを持ち上げると、それは壊れた写真立てであり、薄汚れた写真が1枚入っていた。顔さえも判別できないぐらいに古いが、かろうじて家族で撮られた写真だということが分かる。おそらく手帳と同じぐらいの時期に撮られたものだろう。
「前に飛ばされた人の持ち物か? それとも最初から?」
神隠しにあった人が数十年も昔の写真を常備しているとは思えないから、この建物に最初から置いてあったものだろう。
この部屋にある物は使い古されて、今にも使えなくなりそうなくらいにボロボロだが、その写真を飾る額縁だけは綺麗なままだった。とても大切な写真だったのだろう。
その写真立てを伏せて最初の部屋に戻る。
「どうしたら良いんだろう……そうだ、ダルク!」
まだ3時間しか経っていないが、緊急事態だから仕方ない。いつもより少し遅かったけど、無事にダルクからの返事が来た。
『……陵、か? すまない、あまり話せそうにない』
ダルクの声で疲れているのが分かる。いつもより声が小さく聞こえるのも勘違いじゃなさそうだ。
ダルクは精神世界にいるから、俺が寝ているかどうか分かるはずだ。以前に夢に出てきて、早く起きるように言われたことがある。時計が見えなくても、精神世界に閉じこもっているせいか、大体の時間は分かるらしい。
(疲れてる時に悪いんだけど、俺が寝てる状態かどうかって分かる?)
『起きている状態だと思うが、何かあったのか?』
夢だという可能性が消えて、自分が本当に神隠しにあったのだと納得した。家からいきなり見知らぬ部屋に移動していたんだから。
家では夕食の支度を終えた母さんが驚いているだろう。12年前のこともあるから、本当に心配していると思う。
慌てたようなダルクの声に、あまりにも異常な出来事のせいで逆に落ち着いた声で答える。起きてしまったものは仕方ない、と開き直っているのかもしれない。
(神隠し事件に巻き込まれたらしいんだ。今は誰かの部屋の中に居る)
いつもは冷静なダルクの方が驚いたように息を飲んだ。
『そうか……記憶を読んでみたが、どうしようもないな。廊下に出てみるか?』
ダルクの提案に、廊下へと続く扉を見る。他に見ていない場所は無いし、出来れば建物から出たい。
(誰か居るかもしれないね。何処に居るのか分からないと帰れないし)
日本語は通じないかもしれないが、これだけの建物で、西洋風の家具ばかりなら、英語が通じる国かもしれない。俺は自信が無いが、俺の記憶を何度も見れるダルクに、英語の授業や問題集の記憶を確認してもらえばいい。
そもそも授業中はリアルタイムで授業を見ている。俺よりも賢いダルクなら、英語を話せるようになっていても不思議ではない。
『味方とは限らないがな……殺される可能性もあるが、ここで餓死もしたくないだろう』
よく考えたら、ここの住人にとって俺たちは不法侵入者になるのか? 外国だったら、不法入国ってのになるのか?
ダルクは最悪の場合を挙げてくれているんだろうけど、縁起でもないことは言わないで欲しい。
(ここに居たって仕方ないしね……でも、廊下は暗かったよ。危険じゃない?)
廊下の壁に飾られた蝋燭にも火は付いてなかった。天井に電球らしいものは無く、教科書のイラストで見るような図柄が描かれていた。宮殿とかに描かれていそうなものだった。
場違いなことを考えていると、ダルクに溜息を吐かれた。
『探索した時に燭台があっただろう……』
燭台というのは、あの扉付近にある蝋燭のついた台のことだろう。持ち運びは出来そうだが、無駄に装飾が付いているせいで重そうだ。
実際に持ち上げてみると、当然ながら持ち運びするには十分なくらい軽かった。光が反射して銀色に輝いているようにも見えるが、本物の銀ではないだろう。少し大きめのそれには3本の蝋燭がついていた。
(それは俺も考えたんだけど……でも、どうやって火をつけるの? マッチとかは見つからなかったし……)
燭台が置いてあるのなら火を灯す道具ぐらいあると思って探索したが、マッチ1本見つからなかった。それはダルクも分かっているはずだ。
ここの住人に会ったら、燭台を置いておくなら、マッチやライターの1つや2つぐらい常備しておけ、と文句を言ってやりたい。
『あのオイルランプを使えばいい。かなり凝った見た目になっているが、電球の類じゃない。中で芯が燃えているはずだ。どうやら、この建物には電気が通っていないようだな』
最初に付けた電灯の側に近寄る。オイルランプと呼ばれるらしいそれをよく見ると、光が僅かに揺れていた。
(よく知ってるね……でも、どうやって開けるか分かるの?)
台のようになっている部分を確認しても、燃料の補給口しか見えない。上の半透明の球体の部分は開かない仕組みになっている。
『壊せばいい。これは中に芯が入っていて、そこに火がついているはずだ。アルコールランプみたいなものだな』
(上の方を壊せば大丈夫ってわけか……でも、なんで知ってるんだ?)
『お前の記憶にあったはずだが? 俺はお前の記憶を見ていた時に、偶然見つけたんだ。かなり奥の部分にあったが、見覚えはないのか?』
(俺は知らないけど……昔の記憶だと思う。知識的なことは覚えてるはずだから)
上部を軽く叩いてみるが、簡単に割れるような素材では無いらしい。素手で割ったら怪我しそうだ。
(それにしては蛍光灯みたいな光が出てるけどね)
『改造でもされているのだろう……燭台の蝋燭を抜いてみろ』
ダルクの言う通りにしてみると、刺のようなものが出てきた。それを軽く振り下ろせば、そこを中心にヒビも広がる。そこを慎重に削って、蝋燭が通るぐらいの穴を開けた。
火のついた蝋燭を燭台に戻して廊下に出る。右側の方は行き止まりになっているのが確認できた。向かい側の部屋に入るが、まったくの空室で家具すら無かった。
近くの扉から順番に開けたが、やっぱり、どの部屋も空っぽだった。俺の居た部屋が特別だったのかもしれない。
部屋の数で言うと2桁もいっていないが、部屋自体が大きいため距離は長かった。前には下へ降りる階段があり、右側に廊下が続いている。
階段を降りようとした時、一度精神世界に戻ったはずのダルクの声が聞こえた。
『気分が悪い……もしかしたら、今日はもう出てこれないかもしれない。陵1人で大丈夫か?』
あの部屋にいた時よりも小さな声だった。
(俺は大丈夫だけど……そういえば、今日は長時間話してるからなぁ)
『ああ……だが、それだけじゃない。ここは何故か疲れる』
このままダルクが消えてしまうんじゃないか。そんな不安を感じたが、言葉にすることは出来なかった。記憶も読めない状態らしく、感情を読まれることは無かった。
(無理しなくていいからな? 元気になったら出てこいよ!)
『分かった。だが、もしもの時は呼んでくれ。何かの力になれるかも知れない……おやすみ』
ダルクの声が本当に聞こえなくなる。少しだけ心細いが、ここから出ればマシになるはずだ。
やけに長い階段を降り続ければ、今度は明るい場所に出る。必要の無くなった火を吹き消して、燭台を適当な場所に置いた。
この階には部屋が1つしかなかった。やけに豪華な扉だ。
部屋からは足音が聞こえる。誰かが居るのは間違いない。
「足音か? ……近付いて来る?」
部屋の外までも響いてくる足音は近くまで来て止み、代わりに扉が開く音がした。少しずつ鈍い音を立てて開いた扉の向こうには男が立っていた。
「予想以上に早く起きたようだね」
どうやら、男は俺がこの家に居ることを知っていたらしい。値踏みするような目で見られて気分が悪い。
部屋の中に入ってしまった男を追って、俺も部屋に入る。この場所がどこなのかを知りたいし、出口も聞かなければいけない。
男の容姿は白に近い金髪……プラチナブロンドとでも言うのか……で、瞳が黄色。日本人では無いように見えるが、日本語を話せるらしいので運が良かったとしか言えない。
男がゆったりとソファに座った。話は聞いてくれるようだ。
「あなたは誰ですか? この家の人ですか?」
男はサイドテーブルに乗せられたティーカップを持ち上げ、1口だけ紅茶らしきものを飲み込んだ。
「ああ、この家に住んでいる。心配しなくていいよ。俺が君を呼んだんだからね」
「俺を呼んだ? もしかして、あなたが神隠し事件を引き起こしてたんですか?」
「神隠し?」
男は優雅に紅茶を味わっていたが、神隠しという言葉に首をかしげた。目を閉じて思案するようにして、紅茶を飲み進めていく。
全てを飲み干し、ティーカップをテーブルの上に置いた。それからしばらくして、思い出したと言うように呟いた。
「ああ、あれか……まったく面倒なことになったな……」
本当に困っているような表情で足を組んだ。男の表情には苦々しげな何かが浮かんでいて、神隠し事件における重要なことを知っていると予想できた。
「知ってるのか!? ほかの人もここにいるの!?」
この人なら帰り方を知っているかもしれない。それどころか、神隠しと呼ばれるものの正体さえも知っているかもしれない。
「さぁ? 俺は知らないよ。俺もここに居候しているだけだからな」
男は忌々しげに舌打ちをして、俺が入ってきたものとは違う扉を睨みつけた。その先に居る人が何者かは知らないが、男からは相当に嫌われているようだ。
「行き先なら心当たりはある。まあ、気にすることはない。言葉さえ分かれば生きていける場所だ……二度と帰ることはできないだろうがな」
「本当に帰れないのか? これは神隠しとは関係ないのか?」
ソファから立ち上がった男が大きな引き出しの中から1つの包みを取り出した。心なしか、男の表情が曇っていくように感じた。
「お前は神隠しなんにかに巻き込まれていないよ。どちらにせよ、普通は帰れないし、お前を帰してやるつもりもない」
男が気味の悪い微笑みを浮かべた。静かに近付いてくる男に、初めて恐怖を感じた。豹変したとしか言えない様子の男を見て、俺は少しずつ後ずさる。
「それは、どういう意味で……」
俺の動揺した姿を見て楽しんでいるのか、男は小さな包みを解きながら笑みを深める。
「そもそも、この家に出口という出口は無い。俺でも自由には出入りできないのさ……そんな仕方のないことより、君のことについて話そうか。記憶が無いんだってね」
1枚目の布切れを放り投げた。厳重に装丁された何かを取り出そうとしている。数枚目を取り外したところで、無地の箱が現れた。
「どうしてそのことを?」
「君の記憶が失われた理由も知ってるさ。俺のことを知りたければ記憶を取り戻すんだね」
俺のことを知っているらしい男は、箱から小さな黒色の欠片を取り出した。それから滲み出る黒い何かを、俺は知っていたはずだった。
その得体のしれない何かが纏う不気味な雰囲気は、男自身も気に入らないようで顔をしかめている。
「俺はお前に会ったことがある? 12年前の事件って、もしかして……」
「おっと、俺は直接関わっていないよ」
背中が壁に触れた。正面に立った男も、箱を無造作に放り投げて止まる。
「でも、知ってるんだな!? 何を知っている!? 教えろ!!」
この男が誰なのか……記憶なんてどうでもいいけど、この状況をどうにかするには思い出した方がいいらしい。
脳内では、思い出すなとでも言うように思考が麻痺して、さきほどまで冷静だった反動のように焦りが生じていた。
「記憶を取り戻したいんなら、もっと手っ取り早い方法がある。手伝ってあげようか?」
「どういう……ことだ?」
男に敵意はないのか、簡単に記憶を取り戻す方法があると言い、それを手伝おうとしている。俺にはその真意がなんなのか分からない。
「全てが終われば分かる……」
男は肝心なことを言わない。わざとはぐらかしているようにも感じられる。実際にそうしているのだろうが、どうしてそんなことをするんだろう。
「お前の目的は何だ! さっきから意味が分からないんだよ! 何で俺がこんな目に……」
12年前に何があったというんだ。そこから全てが始まっているのか、それとも更に前からか……ダルクの記憶が戻り始めたらしい事といい、今日は碌な目に合わない。
「意味なら分かるようになる……静かにしろ」
今の状況に恐怖を感じて必死にダルクの名前を呼ぶ。返事は返ってこなかった。ダルクの存在は確かに傍にあるのに、声だけが届かない。
男は笑みを顔に貼り付けたまま黒い石を額に押し付けてきた。冷たいひんやりとした感触に震える。
「うわああああああっ」
黒い石から不気味なほどの恐怖を感じた。その闇に飲み込まれるような押しつぶされるような……たとえようの無い恐怖。以前にも感じたことのあるような感覚に、俺は12年前の朧ろげな記憶を思い出した。はっきりと思い出そうとすればするほど、襲いかかってくる鋭い痛みに悲鳴をあげる。
冷たい独特の感触の後に熱い何かが入り込んでくるような感じがした。無理に押し込まれるそれを押し返そうとしても、それは雪崩のように俺の意志を押しつぶす。
思い出したくない。思い出したら、ダルクを……。
「や……やめろ!」
石に向かって手を伸ばしたが、その手では何も掴めなかった。暗い闇の中に閉じ込められるように視界が暗く染まる。その近くを誰かが通り過ぎたような気がしたけど、それを合図にして意識が遠のいていく。
体が思うように動かない。次第に鮮明になっていく視界と反比例するかのうように、部屋の光が減っていく。
結局は暗闇に閉じ込められたまま、俺は男の言葉を理解しかけていた。
自分1人しか居ない部屋の中で、男は呆然と立ち竦んでいた。男自身にも予測の出来なかった結果だったのか、男は手に持っていた黒い石を床に叩きつけた。
「失敗したかな? 簡単に死なないでくれよ……この状態でもう一度探すのは大変だからな」
男は何も無いベッドの上に腰掛けて悲しげに笑った。部屋の様子がガラリと変わる。
いつもと同じ狭くて歪な場所にある自分の部屋。他にも与えられた部屋はあったけれど、無駄に飾られたあの部屋だけは絶対に受け入れられなかった。
テーブルの上に置かれた写真立て。それを愛しそうに眺めれば、男の苛立ちは目に見えて減っていった。
隣の部屋に行けば、あの頃のまま使われていない残骸が転がっている。
いつもと同じように黒く塗りつぶされた窓の外を見て呟く……。
「光を見つけた……あとは、もう一人を見つけるだけ……」
自らの目的のためには、犠牲を払ってもかまわない。男の絶望に染まった目が、部屋の壊れたランプに照らされて光っていた。
懐かしい夢を見たような気がする。幼い頃の……自由だった頃の夢。
誰かと一緒に笑って、歌って、話して、眠った。同じような毎日の繰り返しだった。
ただ……それが楽しくて仕方なかった。それだけで幸せだった。
波のように近づいては遠ざかっていく記憶を掴もうとしても手は想い出をすり抜けていく。何度も誰かの名前を呼ぼうとするけれど、その名前が思い出せなくて愕然とする。縋るように見つめても、歪んだ影は遠ざかっていく。
そして、気がつくとその誰かの代わりに別の名前を呼んでいる……。